残酷な描写あり
臆病者で、無能
翌日から一日かけて、信濃国を経由し三河国に侵攻できたのは上々だが、気にかかることが多々あった。
三万の兵の動きを察知するのは、忍びを放てば容易なはずだ。しかし何の対策を取っていないのはおかしい。信濃国と三河国の境目で両国から進軍して僕たちを挟撃すれば大打撃を与えることが可能なのに、それをしないのはどういう理由だろうか?
「冷や冷やしましたが、損害も無く無事に入れましたね」
隣で馬に乗っている信吉は余裕を取り戻したようだけど――油断していると言い換えてもいい――僕の不安は募っていた。
一応、なつめたちに探らせながら進めているのだけれど、何か取り返しのつかないことが起こっているのかもしれないと思ってしまう。
「島。何か妙だと思わないか?」
信吉から離れて、小声で島に耳打ちすると「俺もそう思います」と静かに返された。
「既に我々の動きは悟られているはずです。だがそれに対して動きが無さすぎる」
「……罠かな? 矢作川で膠着状態のはずの徳川家の本隊は偽装かも」
「ありえます。こちらの本隊は向こうの動きに乗じて進軍する予定ですから」
だとしたら旗や陣幕だけの敵陣を警戒して動けないという間抜けなことになっている可能性があった。
「丈吉。少し徳川家の本陣を探って、もし偽装だったら秀吉に伝えてほしい」
僕は傍らに居た丈吉に命じた。
「かしこまりました」
「それと偽装とはいえ、少し兵が居るかもしれない。それでも乗り込んで詳しく探る必要はない。君の判断で秀吉に報告してくれ」
丈吉は黙って頷いて、素早くこの場から姿を消した。
「……神経質過ぎるかな?」
「相手は徳川家康です。神経を使い過ぎて困ることはありません」
確かにそうだ。考えてみればあの上様だって徳川家に気を使っていた。それに本能寺の変だって、徳川家を奇策で滅ぼすために起こったことなのだ。結果を考えれば強大な織田家でも徳川家を御し切れなかったのだ。
「……予定を変更したほうが良さそうですね」
島が僕に囁いた。
「具体的には?」
「三万の兵で徳川家三万六千と戦う……そう覚悟するしかありません」
それはまた難儀なことだなと思ったが、顔に出さず「長篠城付近で軍議を開くから、そのときに意見してくれ」と言った。
一応、別働隊の大将は信吉なのだ。
◆◇◆◇
その晩、なつめからとんでもない報告が入ってきたのを受けて、大急ぎで軍議が開かれた。
「なに!? 徳川家三万六千がこちらに迫ってきていると!?」
信吉の甲高い驚愕の声に「僕の忍びの報告です。間違いありません」と応じた。
「こちらは三万ですよ! 数は向こうが上で……」
「そうですね。窮地と言っても過言ではありません」
率直な物言いに信吉は半狂乱で「どうしたらいいんですか!?」と喚いた。
「落ち着いてください。まだ負けたわけではありません」
「お、落ち着けと言っても……」
「徳川家には優秀な武将が数多居ます。そこが狙い目になります」
僕は島に目線をやった。
島は咳払いして机に広げた周辺地図にそこら辺で拾った石を散りばめた。
そして三十六個の石を分けて配置し説明し始めた。
「徳川家康は自ら先頭に立って戦う武将ではありません。部下に兵を預けて動かす武将です。であるならば軍勢は一塊の軍ではなく、複数に分けられていると考えるべきです」
これはなつめの報告で確証を得ていた。実に優秀な忍びだ。
「本陣に一万。武将ごとに五千から八千。一方、我々は軍を分けずに進軍すれば対処できます」
「な、なるほど。三万対二万六千なら勝てるかもしれません……」
信吉が安心して溜息を吐く。
「いえ、それでは徳川家も素直に攻撃はしないでしょう。もしかしたら本陣から援軍が来るかもしれません」
「ええ!? じゃあどうする――」
「こちらも敢えて軍を割りましょう」
島の大胆な作戦に信吉だけではなく、秀晴や雪隆、長可も驚いた。
「長篠城を一万で包囲し、二万で当初の作戦通り矢作川の徳川軍を叩く姿勢を見せます。さすれば徳川家は二万の兵を襲うでしょう。戦いが始まったら二万の兵は徐々に後退し、長篠城の一万の兵と合流して、一気に攻勢に転じます」
まあこれも家康に悟られる可能性があったが、実際に戦って勝てると思っている武将は深追いするだろう。
「その作戦、上手く行くのですか?」
心配そうに島に訊ねる信吉。
「六割方成功するでしょう。失敗する可能性も高い。しかし賭けてみる価値はありますね」
「……もっと成功の可能性を高めることはできないのですか?」
島は少し逡巡して「一つだけあります」と言う。
「先ほどの策で言いませんでしたが、羽柴さまには一万の兵で長篠城を包囲して、援軍に駆けつけてもらう予定でした。そのほうが安全ですから」
「…………」
「しかしそれですと、向こうに偽兵だと悟られるかもしれません」
信吉はごくりと唾を飲み込んだ。
「……私が、二万の兵を率いるのですか」
「ええ。大将が囮になれば、確実に成功します」
すると長可が「旗だけ紛れ込ませれば分からないんじゃねえか?」と発言した。
「大将が二万に居る必要はあまり感じられねえけど」
「……なつめ。陣の中へ入ってきてくれ!」
僕が大声で言うと、なつめと忍び衆が一人の男を連れてきた。顔や身体が傷だらけ――多分拷問したんだろう――のぐったりとした男は無理矢理その場に跪けられた。
「な、なんだ!?」
「敵の間者です。既に僕たちの軍の中に潜り込んでいました」
青ざめる信吉に「他にも居る可能性があります」と僕は言った。
敵の間者を下がらせた後、島は「だからこそ、敵を欺くために羽柴さまが二万の兵を率いる必要があります」と言った。
「無論、羽柴さまが長篠城を包囲しても、作戦の成功率は落ちますが、決して通じないというわけではありません」
信吉はふうっと息を吐いた。呼吸を整えているらしい。
「わ、私は、無能で臆病者だと、思います。きっと徳川家も、それを――知っているでしょう」
誰も何も言わなかった。
いや、秀吉の甥にそんなことは言えなかった。
「そんな私が、自分を囮にする策を採用するとは考えない……そう思いませんか?」
「……ええ。誰も思いません」
僕の頷きに信吉は――はっきりと言った。
「なら――私が二万の兵を率いたほうが、そんな策はないと思うはずです」
それは――精一杯の覚悟を決めた男の顔だった。
怯えが混じっているけど、それでも覚悟は表れていた。
「……とても危険ですが、よろしいですか?」
野暮だけど訊かねばならないことだった。
信吉は汗を垂れ流し、震えながらも頷いた。
「私に、できることは、このくらいしかないんです……ははは。上手くいけばいいなあ」
確かに臆病者で無能かもしれないけど。
傍目から見たら情けない姿が――僕には素晴らしく格好良いと思った。
「あんたは死なせねえよ。俺が傍で守ってやる」
長可が信吉の肩にそっと手を置いた。
叩くでも無く、気合を入れるでもなく。
優しげに――置いた。
「構わねえよな? 雲之介さんよ」
「ああ。もちろん構わない」
雌雄が決するであろう明日に向けて、軍議は白熱した。
勝つために、生き残らせるために。
できる限りのことを考えた。
そして――夜が明けた。
二万の兵を率いる信吉が僕に言う。
「これは言おうか言うまいか迷いましたが――」
口ごもりながら信吉は「生き残ったら茶を馳走してください」と僕に頼んだ。
「茶人として名声の高い、千宗易殿の弟子であられる雨竜さんの茶が飲みたいです」
「ええ。約束します」
僕は長篠城を包囲する役目だった。副将という役柄なので、仕方のないことだった。
遠ざかる信吉の軍を見送る。
作戦が上手くいくように、今の僕は祈るしかなかった。
三万の兵の動きを察知するのは、忍びを放てば容易なはずだ。しかし何の対策を取っていないのはおかしい。信濃国と三河国の境目で両国から進軍して僕たちを挟撃すれば大打撃を与えることが可能なのに、それをしないのはどういう理由だろうか?
「冷や冷やしましたが、損害も無く無事に入れましたね」
隣で馬に乗っている信吉は余裕を取り戻したようだけど――油断していると言い換えてもいい――僕の不安は募っていた。
一応、なつめたちに探らせながら進めているのだけれど、何か取り返しのつかないことが起こっているのかもしれないと思ってしまう。
「島。何か妙だと思わないか?」
信吉から離れて、小声で島に耳打ちすると「俺もそう思います」と静かに返された。
「既に我々の動きは悟られているはずです。だがそれに対して動きが無さすぎる」
「……罠かな? 矢作川で膠着状態のはずの徳川家の本隊は偽装かも」
「ありえます。こちらの本隊は向こうの動きに乗じて進軍する予定ですから」
だとしたら旗や陣幕だけの敵陣を警戒して動けないという間抜けなことになっている可能性があった。
「丈吉。少し徳川家の本陣を探って、もし偽装だったら秀吉に伝えてほしい」
僕は傍らに居た丈吉に命じた。
「かしこまりました」
「それと偽装とはいえ、少し兵が居るかもしれない。それでも乗り込んで詳しく探る必要はない。君の判断で秀吉に報告してくれ」
丈吉は黙って頷いて、素早くこの場から姿を消した。
「……神経質過ぎるかな?」
「相手は徳川家康です。神経を使い過ぎて困ることはありません」
確かにそうだ。考えてみればあの上様だって徳川家に気を使っていた。それに本能寺の変だって、徳川家を奇策で滅ぼすために起こったことなのだ。結果を考えれば強大な織田家でも徳川家を御し切れなかったのだ。
「……予定を変更したほうが良さそうですね」
島が僕に囁いた。
「具体的には?」
「三万の兵で徳川家三万六千と戦う……そう覚悟するしかありません」
それはまた難儀なことだなと思ったが、顔に出さず「長篠城付近で軍議を開くから、そのときに意見してくれ」と言った。
一応、別働隊の大将は信吉なのだ。
◆◇◆◇
その晩、なつめからとんでもない報告が入ってきたのを受けて、大急ぎで軍議が開かれた。
「なに!? 徳川家三万六千がこちらに迫ってきていると!?」
信吉の甲高い驚愕の声に「僕の忍びの報告です。間違いありません」と応じた。
「こちらは三万ですよ! 数は向こうが上で……」
「そうですね。窮地と言っても過言ではありません」
率直な物言いに信吉は半狂乱で「どうしたらいいんですか!?」と喚いた。
「落ち着いてください。まだ負けたわけではありません」
「お、落ち着けと言っても……」
「徳川家には優秀な武将が数多居ます。そこが狙い目になります」
僕は島に目線をやった。
島は咳払いして机に広げた周辺地図にそこら辺で拾った石を散りばめた。
そして三十六個の石を分けて配置し説明し始めた。
「徳川家康は自ら先頭に立って戦う武将ではありません。部下に兵を預けて動かす武将です。であるならば軍勢は一塊の軍ではなく、複数に分けられていると考えるべきです」
これはなつめの報告で確証を得ていた。実に優秀な忍びだ。
「本陣に一万。武将ごとに五千から八千。一方、我々は軍を分けずに進軍すれば対処できます」
「な、なるほど。三万対二万六千なら勝てるかもしれません……」
信吉が安心して溜息を吐く。
「いえ、それでは徳川家も素直に攻撃はしないでしょう。もしかしたら本陣から援軍が来るかもしれません」
「ええ!? じゃあどうする――」
「こちらも敢えて軍を割りましょう」
島の大胆な作戦に信吉だけではなく、秀晴や雪隆、長可も驚いた。
「長篠城を一万で包囲し、二万で当初の作戦通り矢作川の徳川軍を叩く姿勢を見せます。さすれば徳川家は二万の兵を襲うでしょう。戦いが始まったら二万の兵は徐々に後退し、長篠城の一万の兵と合流して、一気に攻勢に転じます」
まあこれも家康に悟られる可能性があったが、実際に戦って勝てると思っている武将は深追いするだろう。
「その作戦、上手く行くのですか?」
心配そうに島に訊ねる信吉。
「六割方成功するでしょう。失敗する可能性も高い。しかし賭けてみる価値はありますね」
「……もっと成功の可能性を高めることはできないのですか?」
島は少し逡巡して「一つだけあります」と言う。
「先ほどの策で言いませんでしたが、羽柴さまには一万の兵で長篠城を包囲して、援軍に駆けつけてもらう予定でした。そのほうが安全ですから」
「…………」
「しかしそれですと、向こうに偽兵だと悟られるかもしれません」
信吉はごくりと唾を飲み込んだ。
「……私が、二万の兵を率いるのですか」
「ええ。大将が囮になれば、確実に成功します」
すると長可が「旗だけ紛れ込ませれば分からないんじゃねえか?」と発言した。
「大将が二万に居る必要はあまり感じられねえけど」
「……なつめ。陣の中へ入ってきてくれ!」
僕が大声で言うと、なつめと忍び衆が一人の男を連れてきた。顔や身体が傷だらけ――多分拷問したんだろう――のぐったりとした男は無理矢理その場に跪けられた。
「な、なんだ!?」
「敵の間者です。既に僕たちの軍の中に潜り込んでいました」
青ざめる信吉に「他にも居る可能性があります」と僕は言った。
敵の間者を下がらせた後、島は「だからこそ、敵を欺くために羽柴さまが二万の兵を率いる必要があります」と言った。
「無論、羽柴さまが長篠城を包囲しても、作戦の成功率は落ちますが、決して通じないというわけではありません」
信吉はふうっと息を吐いた。呼吸を整えているらしい。
「わ、私は、無能で臆病者だと、思います。きっと徳川家も、それを――知っているでしょう」
誰も何も言わなかった。
いや、秀吉の甥にそんなことは言えなかった。
「そんな私が、自分を囮にする策を採用するとは考えない……そう思いませんか?」
「……ええ。誰も思いません」
僕の頷きに信吉は――はっきりと言った。
「なら――私が二万の兵を率いたほうが、そんな策はないと思うはずです」
それは――精一杯の覚悟を決めた男の顔だった。
怯えが混じっているけど、それでも覚悟は表れていた。
「……とても危険ですが、よろしいですか?」
野暮だけど訊かねばならないことだった。
信吉は汗を垂れ流し、震えながらも頷いた。
「私に、できることは、このくらいしかないんです……ははは。上手くいけばいいなあ」
確かに臆病者で無能かもしれないけど。
傍目から見たら情けない姿が――僕には素晴らしく格好良いと思った。
「あんたは死なせねえよ。俺が傍で守ってやる」
長可が信吉の肩にそっと手を置いた。
叩くでも無く、気合を入れるでもなく。
優しげに――置いた。
「構わねえよな? 雲之介さんよ」
「ああ。もちろん構わない」
雌雄が決するであろう明日に向けて、軍議は白熱した。
勝つために、生き残らせるために。
できる限りのことを考えた。
そして――夜が明けた。
二万の兵を率いる信吉が僕に言う。
「これは言おうか言うまいか迷いましたが――」
口ごもりながら信吉は「生き残ったら茶を馳走してください」と僕に頼んだ。
「茶人として名声の高い、千宗易殿の弟子であられる雨竜さんの茶が飲みたいです」
「ええ。約束します」
僕は長篠城を包囲する役目だった。副将という役柄なので、仕方のないことだった。
遠ざかる信吉の軍を見送る。
作戦が上手くいくように、今の僕は祈るしかなかった。