残酷な描写あり
優秀だから負ける
九鬼水軍の協力で、僕は和泉灘に面している尼崎の港に到着した。現在、巳の刻を半ば過ぎた頃で、先行した丈吉たちの報告では秀吉は無事に信孝さまと丹羽さまの両名と合流できたという。また池田さまや中川さま、それに高山さまなどの摂津衆を味方につけたらしい。
しかし明智も京を含む山城国、丹波国、近江国を手中に収めているようだ。しかも組する武将も少なからず居る。
その中で一番厄介なのは――大和国の松永久秀だ。なんと一万の軍勢を援軍として送ったとの情報が入った。
あの老人、流石に機を見るのに聡い。息子の久通を将として送り込んでいることで明智の信頼を得ているみたいだ。
さて。秀吉と明智の軍勢はそれぞれ二万と聞く。数では同等だが、おそらく秀吉は強行軍で大返しをしたと推測されるから、とても戦える状態ではないとも考えられる。
是非とも加勢したい。しかしどこで合戦が始まるのかがまだ分かっていないので、足踏みしているのだ。
しばらくして、丈吉が帰ってきた。
「どうやら羽柴さまは西国街道を通り、山崎の地にて明智と一戦交えるようです」
その報告と共に、山崎の周辺地図を渡す丈吉。とても優秀な忍びだ。
僕と雪隆、島、孫市、九鬼殿が地図を見ながら明智の作戦を考える。孫子曰く、彼を知り己を知れば百戦危うからずである。悠長なことだと思われるが、こちらとしてもどうやって進軍するかを検討するのに必要だった。
山崎はまず北に天王山があり、南には淀川が東西に流れている。山と川の間には山崎村が東西に長く街並みが作られている。その村の東は東黒門、西は西白門という門があり、戦が始まるので封鎖されていると考えられる。村を焼き払わない限り京と大坂を往来できないだろう。
東黒門の東側には、大きな沼があり、さらにその先には小泉川という川が南北に流れている。その周辺は平地であり、軍勢の動きを阻害しないだろう。
先に明智の軍勢が山崎に到着したらしい。さて。明智はどのように陣を敷いたのだろうか?
「俺なら山崎の村を占拠する」
孫市が地図を指差しながら言う。
「村を手に入れちまえば、数が同等でも一方的に攻撃できる。それに天王山を無理に取る必要はないからな」
「いや。東黒門周辺に陣を敷き、羽柴さまの軍勢を引き入れて、天王山の山陰で伏兵を置けば包囲できる」
島も村を使うことに異論はないようだ。
雪隆と九鬼殿は何も異議を唱えない。まあ普通に考えたらそうだろうな。
「殿。以上が明智の動きの予想だが、いかがか?」
島の言葉を僕が肯定しようとしたとき、急に思いついてしまった。
頭の中で何かがふっと浮かび上がるような感覚だった。
「――違う。明智は村を利用したりしない」
「……それはどういう意味だ?」
孫市は怪訝そうに訊ねた。
「村を押さえれば地の利も使える。有利に戦を行なわれる」
「そうじゃない。村は村でも、山崎の村だ。ここを戦火に晒すのは不味いんだ」
雪隆が「そういえば、聞いたことがあるな」と首を傾げた。
「雲之介さんが足利家の家臣だったとき、大山崎油座と取引したとか」
「よく覚えているな。素晴らしい記憶力だ」
僕は皆に分かるように説明し出した。
「この山崎にある大山崎油座は四百年前から荏胡麻による製油、つまり油作りを行なっている。それは足利家の重要な財源だった。油を売るために通る関所の通行手形を足利家が発行することで、見返りに献金をくれたからだ。それに山崎は公家の避暑地でもある」
誰も僕の説明に口を挟まなかった。
「それに西国街道という京への道がここしかない。当然、人の往来も多い。その人の中には大名家も含まれる。つまり政治と経済、そして公家文化の重要な歴史ある要所なんだ。もしここを焼き払ったら、どうなると思う?」
「……まさか、油が引火して大惨事になるのか?」
孫市のとぼけた発言に「そうではないでしょう……」と九鬼殿が呆れて言う。
「大山崎油座は京の商人や朝廷とも取引していた。まあ油がなければ生きていけないというわけではないけど、油を利用した物の加工ができなくなるし、料理もできない。夜の明かりも無くなる。先に挙げた彼らは不便と不平に思うだろう」
「それがどうしたって言うんだ?」
「孫市。まだ分からないのか? 明智の今の基盤と支持者は京の住人や朝廷なんだぞ? そんな彼らを慮らないような作戦を、明智がするはずがない。そこまで愚かな人ではない」
僕の意見に「では殿は明智がどこに陣を敷くと思う?」と島が問う。
僕は即答した。
「たとえ自分が不利になろうとしても、きっと山崎の村から離れたところ――小泉川に沿って南北に陣を敷くだろう」
「……まったく理解できねえ。地の利を取ることもしないのか?」
「天王山は取るかもしれないけどね。でも明智さまは絶対にそうするはずだ」
これは僕が軍事に明るいから分かったことではなく、むしろ逆で政を中心に考えたからこそ思いついたことだった。僕はどこまで行っても内政官だった。
「相手の作戦は分かったが、俺たちはどうやって進軍する? 羽柴さまはおそらく村を封鎖するだろうし……まさか天王山を登るとか言わないよな?」
雪隆の発言を「それは無茶だ」と島が否定した。
「時間がない。おそらく夕刻には両軍ぶつかるだろう」
「九鬼殿。一つ聞いていいか?」
九鬼殿は「なんでしょうか? 雨竜殿」とすかさず応じた。
「淀川を上ることは可能か?」
「ええまあ。しかし間に合うかどうかは……」
「それでもそれしかないのなら、そうするしかないな」
僕は皆に告げた。
「淀川を上って、明智の側面を突く。孫市、戦の差配は任せる」
「おう。腕が鳴るぜ」
「雪隆と島は孫市の指示に従ってくれ」
二人とも頷いた。
これにて軍議は終わりである。
◆◇◆◇
淀川を上る船の上。甲板に出て風に当たっていると「冷えるわよ」となつめが隣に来た。
「なんだ。何かあったのか?」
「別に何も。それより雪隆から聞いたわよ。見事に明智の采配を読んだって」
僕は「明智ならこうするってことを考えただけだ」と答えにならないことを言う。
「それを読んだって言うんだけど……」
「厄介な生き物だね。武士って奴は」
ぽたぽたと小雨らしきものが降っている。
見上げると雨雲が流れていた。
「名分とか考えて戦をしなくちゃいけない。自分が不利だって分かっても」
「……そうね」
「明智は優秀な人だから、あのような決断をすることになってしまった」
敢えて言葉を濁す。
「きっと明智は負けるだろう。周りに気配りができるほど優秀だから負けるんだ。悲しいけど、それが現実なんだ」
「……明智に同情しているの?」
僕は「まさか、そんなことはしないよ」と答えた。
「明智にはいろいろ、してやられたこともある。でもね、彼の亡くなった妻――煕子さんに言われたんだ。明智は僕を『家臣よりも友として傍に置きたい』ってね」
もはやそれも叶わない。
上様を討った謀反人だから。
「もしも、明智が上様を討たなかったら――」
「もしもなんて考えたらきりがないわよ」
「分かっているけど、考えてしまうんだ」
詮のないことだと思っても、考えてしまう――
「僕は明智を討たなければならない」
「……ええ」
「なんか、淋しくて虚しいな」
小雨が次第に弱くなっていく。このままで行くと夕刻には止むだろう。
そうだ。止まない雨なんてないように。
戦だって終わるはずだ。
きっとそうだ。
なつめは黙って僕の傍に居てくれた。
彼女の故郷を焼いたのは僕なのに。
黙って、傍に居てくれる。
寂しさは無くなった。虚しさも消え去りそうだった。
気のせいだとしても、このまま勘違いしていたい。
しかし明智も京を含む山城国、丹波国、近江国を手中に収めているようだ。しかも組する武将も少なからず居る。
その中で一番厄介なのは――大和国の松永久秀だ。なんと一万の軍勢を援軍として送ったとの情報が入った。
あの老人、流石に機を見るのに聡い。息子の久通を将として送り込んでいることで明智の信頼を得ているみたいだ。
さて。秀吉と明智の軍勢はそれぞれ二万と聞く。数では同等だが、おそらく秀吉は強行軍で大返しをしたと推測されるから、とても戦える状態ではないとも考えられる。
是非とも加勢したい。しかしどこで合戦が始まるのかがまだ分かっていないので、足踏みしているのだ。
しばらくして、丈吉が帰ってきた。
「どうやら羽柴さまは西国街道を通り、山崎の地にて明智と一戦交えるようです」
その報告と共に、山崎の周辺地図を渡す丈吉。とても優秀な忍びだ。
僕と雪隆、島、孫市、九鬼殿が地図を見ながら明智の作戦を考える。孫子曰く、彼を知り己を知れば百戦危うからずである。悠長なことだと思われるが、こちらとしてもどうやって進軍するかを検討するのに必要だった。
山崎はまず北に天王山があり、南には淀川が東西に流れている。山と川の間には山崎村が東西に長く街並みが作られている。その村の東は東黒門、西は西白門という門があり、戦が始まるので封鎖されていると考えられる。村を焼き払わない限り京と大坂を往来できないだろう。
東黒門の東側には、大きな沼があり、さらにその先には小泉川という川が南北に流れている。その周辺は平地であり、軍勢の動きを阻害しないだろう。
先に明智の軍勢が山崎に到着したらしい。さて。明智はどのように陣を敷いたのだろうか?
「俺なら山崎の村を占拠する」
孫市が地図を指差しながら言う。
「村を手に入れちまえば、数が同等でも一方的に攻撃できる。それに天王山を無理に取る必要はないからな」
「いや。東黒門周辺に陣を敷き、羽柴さまの軍勢を引き入れて、天王山の山陰で伏兵を置けば包囲できる」
島も村を使うことに異論はないようだ。
雪隆と九鬼殿は何も異議を唱えない。まあ普通に考えたらそうだろうな。
「殿。以上が明智の動きの予想だが、いかがか?」
島の言葉を僕が肯定しようとしたとき、急に思いついてしまった。
頭の中で何かがふっと浮かび上がるような感覚だった。
「――違う。明智は村を利用したりしない」
「……それはどういう意味だ?」
孫市は怪訝そうに訊ねた。
「村を押さえれば地の利も使える。有利に戦を行なわれる」
「そうじゃない。村は村でも、山崎の村だ。ここを戦火に晒すのは不味いんだ」
雪隆が「そういえば、聞いたことがあるな」と首を傾げた。
「雲之介さんが足利家の家臣だったとき、大山崎油座と取引したとか」
「よく覚えているな。素晴らしい記憶力だ」
僕は皆に分かるように説明し出した。
「この山崎にある大山崎油座は四百年前から荏胡麻による製油、つまり油作りを行なっている。それは足利家の重要な財源だった。油を売るために通る関所の通行手形を足利家が発行することで、見返りに献金をくれたからだ。それに山崎は公家の避暑地でもある」
誰も僕の説明に口を挟まなかった。
「それに西国街道という京への道がここしかない。当然、人の往来も多い。その人の中には大名家も含まれる。つまり政治と経済、そして公家文化の重要な歴史ある要所なんだ。もしここを焼き払ったら、どうなると思う?」
「……まさか、油が引火して大惨事になるのか?」
孫市のとぼけた発言に「そうではないでしょう……」と九鬼殿が呆れて言う。
「大山崎油座は京の商人や朝廷とも取引していた。まあ油がなければ生きていけないというわけではないけど、油を利用した物の加工ができなくなるし、料理もできない。夜の明かりも無くなる。先に挙げた彼らは不便と不平に思うだろう」
「それがどうしたって言うんだ?」
「孫市。まだ分からないのか? 明智の今の基盤と支持者は京の住人や朝廷なんだぞ? そんな彼らを慮らないような作戦を、明智がするはずがない。そこまで愚かな人ではない」
僕の意見に「では殿は明智がどこに陣を敷くと思う?」と島が問う。
僕は即答した。
「たとえ自分が不利になろうとしても、きっと山崎の村から離れたところ――小泉川に沿って南北に陣を敷くだろう」
「……まったく理解できねえ。地の利を取ることもしないのか?」
「天王山は取るかもしれないけどね。でも明智さまは絶対にそうするはずだ」
これは僕が軍事に明るいから分かったことではなく、むしろ逆で政を中心に考えたからこそ思いついたことだった。僕はどこまで行っても内政官だった。
「相手の作戦は分かったが、俺たちはどうやって進軍する? 羽柴さまはおそらく村を封鎖するだろうし……まさか天王山を登るとか言わないよな?」
雪隆の発言を「それは無茶だ」と島が否定した。
「時間がない。おそらく夕刻には両軍ぶつかるだろう」
「九鬼殿。一つ聞いていいか?」
九鬼殿は「なんでしょうか? 雨竜殿」とすかさず応じた。
「淀川を上ることは可能か?」
「ええまあ。しかし間に合うかどうかは……」
「それでもそれしかないのなら、そうするしかないな」
僕は皆に告げた。
「淀川を上って、明智の側面を突く。孫市、戦の差配は任せる」
「おう。腕が鳴るぜ」
「雪隆と島は孫市の指示に従ってくれ」
二人とも頷いた。
これにて軍議は終わりである。
◆◇◆◇
淀川を上る船の上。甲板に出て風に当たっていると「冷えるわよ」となつめが隣に来た。
「なんだ。何かあったのか?」
「別に何も。それより雪隆から聞いたわよ。見事に明智の采配を読んだって」
僕は「明智ならこうするってことを考えただけだ」と答えにならないことを言う。
「それを読んだって言うんだけど……」
「厄介な生き物だね。武士って奴は」
ぽたぽたと小雨らしきものが降っている。
見上げると雨雲が流れていた。
「名分とか考えて戦をしなくちゃいけない。自分が不利だって分かっても」
「……そうね」
「明智は優秀な人だから、あのような決断をすることになってしまった」
敢えて言葉を濁す。
「きっと明智は負けるだろう。周りに気配りができるほど優秀だから負けるんだ。悲しいけど、それが現実なんだ」
「……明智に同情しているの?」
僕は「まさか、そんなことはしないよ」と答えた。
「明智にはいろいろ、してやられたこともある。でもね、彼の亡くなった妻――煕子さんに言われたんだ。明智は僕を『家臣よりも友として傍に置きたい』ってね」
もはやそれも叶わない。
上様を討った謀反人だから。
「もしも、明智が上様を討たなかったら――」
「もしもなんて考えたらきりがないわよ」
「分かっているけど、考えてしまうんだ」
詮のないことだと思っても、考えてしまう――
「僕は明智を討たなければならない」
「……ええ」
「なんか、淋しくて虚しいな」
小雨が次第に弱くなっていく。このままで行くと夕刻には止むだろう。
そうだ。止まない雨なんてないように。
戦だって終わるはずだ。
きっとそうだ。
なつめは黙って僕の傍に居てくれた。
彼女の故郷を焼いたのは僕なのに。
黙って、傍に居てくれる。
寂しさは無くなった。虚しさも消え去りそうだった。
気のせいだとしても、このまま勘違いしていたい。