残酷な描写あり
最後の策略
有岡城攻めの本陣――上様が居心地悪く、爪を噛みながら、黒田が来るのを待っていた。
一年もの間、土牢に閉じ込められていたらしく、話せる状態まで回復するのに、時間がかかっているようだ。
僕も昔、地下牢に閉じ込められていたことがある。しかしたった数ヶ月のことなので、一年間という長い月日は想像できなかった。
「上様。黒田官兵衛孝高さまがこちらに――」
「すぐに通せ」
家来の言葉を待たずに、上様は神経質そうに言う。
当然と言えば当然だ。
上様は、黒田の息子、松寿丸を殺しているのだから――
「ふひ、ひひひひ、ふひひひひひひひひひ――」
不気味な笑い声と共に、本陣に入ってきたのは黒田だった。
左右の肩を栗山と母里に抱えられながら、骨と皮に成り果てながら、奇妙に笑う。
「あひゃひゃひゃ。織田さま。久しぶりだあ……」
二人の家臣は、居たたまれないという顔をしていた。
僕は一目見て、ああ、狂ってしまったのだなと思ってしまった。
周りの武将もそう感じたのか、笑う黒田を咎めたりしない。
「……よくぞ、生きていたな」
「えへへへ。おかげさまでな……っと、失礼。足を悪くしているんでね」
黒田は無造作に地面の上に座る。
「殿。どうか――」
「分かっているぜえ、善助……ふひひ、織田さまに一つお願いがあるんだあ」
狂った笑みを見せながら、黒田は上様に言う。
「黒田家は小寺家を見限って、織田家の傘下に付く。ひひひ、聞いてくれるよなあ」
上様は、ごくりと唾を飲み込んで、それから恐る恐る言う。
「……松寿丸のことを、知っての上か?」
黒田は「ふひひ、当たり前だろ」とおかしくもないことで笑った。
「息子が殺されたのは、土牢に閉じ込められて三ヶ月の時点で、なんとなく分かったよ……いや、諦めがついたというべきかぁ? 俺が織田さまの立場でも、殺すだろうってな」
「俺に、恨みはないのか?」
上様が厳しく問う。
すると黒田は――身体を痙攣させた。震えるほど、笑っていた。
「ふひひひひひ! あるに決まってるぅ! 当たり前だぁ! でもなあ、それ以上に怒っているのは、自分の無能具合だ!」
笑いながら、黒田は――身体をくねらす。
「主君の裏切りを見抜いた上で罠にはまったことぉ! ふひひ。主君を心変わりさせた重臣への説得ぅ! そもそも、俺が捕まらなければ、こんなことにはならなかった! あははは!」
黒田は、自分を苛んで、責めて、苦しませて。
そうして――笑うしかなくなったんだ。
「ふひひひひひひひひひひ! 俺は無能な男だ! 息子を殺してしまった、最低の父親だ! あははははは! そうして、今も生き恥を晒している!」
黒田は、はあはあと息を乱して、それが落ち着くまで黙った。
そして、顔を上げる――
「……ごめんな、松寿丸」
笑顔のまま、涙を流す黒田――
異様な光景に、誰も何も言えなかった。
まるで村八分にされた農民が、地べたに投げられた残り物を貪るような、見ていて不快な姿だった。
「……俺の子に産まれて、不幸だったな。あはは、本当にごめん」
「何を馬鹿なことを言うか……」
それまで黙っていた上様が、世間から畏れられている上様が――
「松寿丸が死んだのは、俺のせいだ」
――自分の非を認めて、涙を流した。
「自分を責めるな。俺に怒りを、憎しみを、敵意をぶつけろ」
「お、織田さま……」
「貴様が壊れてまで、俺への恨みを消すほどのものではない……」
黒田と上様は、同じように泣いている。
壊れてしまった黒田。
壊してしまった上様。
彼らは松寿丸を想って、泣いていた――
「申し上げます。上様と黒田殿に言っておかねばならぬことがございます」
僕は膝をつきながら、二人に言う。
二人とも、僕のほうを、呆然と眺めている。
「松寿丸は生きております。竹中家が匿っていました」
この場に居る者全て、僕の言葉に何も言えなかった。
「く、雲之介、そ、それは真なのか?」
いち早く回復したのは、上様だった。
信じられないといった顔で見つめていた。
「詳しくは、竹中家当主、竹中久作殿からお聞きください」
僕は隣に座っていた久作を促した。
「雨竜殿が言ったことは、真にございます。我が家臣の不破に、松寿丸殿を隠させて、匿っていました」
「な、何故、そのようなことを――」
「今は亡き、兄上がそういたしました。黒田殿はこれからの織田家に必要な人である。だから松寿丸殿を殺すわけにはいかぬと」
「で、では、あの首は?」
「病で死んだ子の首――偽首でございます!」
上様の全身から力が抜けた。
黒田は、泣きながら笑った。
「うひひひひひ、じゃあ、松寿丸は――」
「竹中家の居城にて、暮らしております」
僕はこの機会を見計らって、上様に言う。
「これは竹中半兵衛と僕しか知らなかったことです。死の間際、僕に打ち明けたのです。ですから、上様を欺いた責は――僕一人が負います」
それに驚いたのは、上様でも黒田でもなく、久作だった。
「馬鹿な! これは竹中家の問題ですよ!?」
「いえ。竹中家は当主の命令に従ったまでのこと。どうか沙汰は僕に下されますように」
深く頭を下げる。
ざわめく諸将。
そのとき、上様は言った。
「――このことに関して、罪などあるわけがなかろう」
上様が僕の肩を掴んで起こし、そして僕の手を握った。
「よくやってくれた。竹中半兵衛と共に、主命違反は不問といたす!」
自分の非を認める潔さは流石としか言いようがない。
「むしろ褒美をやりたいくらいだ」
「あ、でしたら竹中家と黒田家をお引き立てくだされば」
しれっと言うと上様は目を丸くして「貴様には利がないではないか」と言う。
「責任は負うけど、利得は得ない。そう半兵衛さんと約束したのです」
「……無欲な奴だ! その望み、叶えてやる! 竹中家と黒田家の両家を引き立ててやる!」
すると黒田が「ふひひひ! ありがとうございます!」と大声で笑った。
「雨竜殿には、とても世話になったな!」
「それを言うのなら、半兵衛さんだよ」
僕はこっそりと耳打ちした。
「身体が良くなったら、三木城攻めの本陣に来なさい」
そして黒田の目を見る。
怪訝そうな顔をしたけど、察したようで、力強く頷いた。
◆◇◆◇
それから二週間後。
身体がある程度癒えた黒田と共に三木城近くの農村に向かう。家臣の栗山と母里も一緒だ。
「本陣に行かなくてよろしいのですか?」
栗山が首を傾げながら問う。
「雨竜さまが竹中さまの墓があるって言っていたからな。まずは墓参りしねえと」
母里が神妙なことを言う。聞いたところによると、半兵衛さんを責めたことを悔やんでいるらしい。
「ふひひひ。もう一度だけ、会いたかったなあ」
どうやら笑い声はやめられないらしい。黒田は笑いながら言う。
農村の奥にその墓はあった。
墓と言うより塚と言うべき無骨の岩が置かれている。
「さあ。手を合わせてくれ」
三人は僕の言ったとおり、手を合わせて、目を閉じた――
その隙に墓の前に出る人が居た。
「……どわあああああ!?」
初めに目を開けたのは母里だった。大声を上げて後ろに飛び退く。
「――っ!?」
次は栗山だった。あまりの衝撃に腰が砕けてしまった。
「……あははは。まさかの策略だ!」
黒田は愉快そうに笑った。
「ちょっと! 官兵衛ちゃん! 反応悪いわよ!」
そう。死んだはずの半兵衛さんがそこに立っているのだから、驚くのは無理もない。
「し、死んだはずじゃ……?」
「栗山ちゃん。もしあたしが生きてたら、上様に叱られちゃうかもしれないじゃない」
青白い顔でにやにや笑う半兵衛さん。
僕は呆れながら言う。
「まったく。『死ぬときは誰かを驚かせて死にたい』だなんて。悪趣味にもほどがあるよ」
「ふふふ。叶えてくれてありがとうね。雲之介ちゃん」
そのとき、身体を崩しかけたので、さっと支える。
とても軽かった。
「二ヶ月と二週間。この村で暮らしていたけど、そろそろ限界ね」
「そうだね。秀吉たちが待っているよ。行こう」
僕は半兵衛さんを支えて歩く。
「ふひひひ。羽柴殿も居るのか?」
「羽柴家全員居るよ。半兵衛さんが淋しくないようにね」
「本当に気のいい仲間よ」
そして半兵衛さんは黒田に言う。
「官兵衛ちゃん。これからあたしの代わりに、秀吉ちゃんを支えてあげて」
黒田は笑いながら応じた。
「ふひひひひ。任せてくれ。太平の世になるまで、支えてやるよ!」
◆◇◆◇
それから五日後。
半兵衛さんはこの世から去った。
羽柴家と黒田家、そして竹中家のみんなに見送られながら逝った。
「楽しかったわよ、秀吉ちゃん」
それが最期の言葉だった。
秀吉は半兵衛さんの手を握って、死んだ後も握り続けた。
稀代の軍師、竹中半兵衛重治。
戦場ではなく、畳の上で安らかに亡くなった。
一年もの間、土牢に閉じ込められていたらしく、話せる状態まで回復するのに、時間がかかっているようだ。
僕も昔、地下牢に閉じ込められていたことがある。しかしたった数ヶ月のことなので、一年間という長い月日は想像できなかった。
「上様。黒田官兵衛孝高さまがこちらに――」
「すぐに通せ」
家来の言葉を待たずに、上様は神経質そうに言う。
当然と言えば当然だ。
上様は、黒田の息子、松寿丸を殺しているのだから――
「ふひ、ひひひひ、ふひひひひひひひひひ――」
不気味な笑い声と共に、本陣に入ってきたのは黒田だった。
左右の肩を栗山と母里に抱えられながら、骨と皮に成り果てながら、奇妙に笑う。
「あひゃひゃひゃ。織田さま。久しぶりだあ……」
二人の家臣は、居たたまれないという顔をしていた。
僕は一目見て、ああ、狂ってしまったのだなと思ってしまった。
周りの武将もそう感じたのか、笑う黒田を咎めたりしない。
「……よくぞ、生きていたな」
「えへへへ。おかげさまでな……っと、失礼。足を悪くしているんでね」
黒田は無造作に地面の上に座る。
「殿。どうか――」
「分かっているぜえ、善助……ふひひ、織田さまに一つお願いがあるんだあ」
狂った笑みを見せながら、黒田は上様に言う。
「黒田家は小寺家を見限って、織田家の傘下に付く。ひひひ、聞いてくれるよなあ」
上様は、ごくりと唾を飲み込んで、それから恐る恐る言う。
「……松寿丸のことを、知っての上か?」
黒田は「ふひひ、当たり前だろ」とおかしくもないことで笑った。
「息子が殺されたのは、土牢に閉じ込められて三ヶ月の時点で、なんとなく分かったよ……いや、諦めがついたというべきかぁ? 俺が織田さまの立場でも、殺すだろうってな」
「俺に、恨みはないのか?」
上様が厳しく問う。
すると黒田は――身体を痙攣させた。震えるほど、笑っていた。
「ふひひひひひ! あるに決まってるぅ! 当たり前だぁ! でもなあ、それ以上に怒っているのは、自分の無能具合だ!」
笑いながら、黒田は――身体をくねらす。
「主君の裏切りを見抜いた上で罠にはまったことぉ! ふひひ。主君を心変わりさせた重臣への説得ぅ! そもそも、俺が捕まらなければ、こんなことにはならなかった! あははは!」
黒田は、自分を苛んで、責めて、苦しませて。
そうして――笑うしかなくなったんだ。
「ふひひひひひひひひひひ! 俺は無能な男だ! 息子を殺してしまった、最低の父親だ! あははははは! そうして、今も生き恥を晒している!」
黒田は、はあはあと息を乱して、それが落ち着くまで黙った。
そして、顔を上げる――
「……ごめんな、松寿丸」
笑顔のまま、涙を流す黒田――
異様な光景に、誰も何も言えなかった。
まるで村八分にされた農民が、地べたに投げられた残り物を貪るような、見ていて不快な姿だった。
「……俺の子に産まれて、不幸だったな。あはは、本当にごめん」
「何を馬鹿なことを言うか……」
それまで黙っていた上様が、世間から畏れられている上様が――
「松寿丸が死んだのは、俺のせいだ」
――自分の非を認めて、涙を流した。
「自分を責めるな。俺に怒りを、憎しみを、敵意をぶつけろ」
「お、織田さま……」
「貴様が壊れてまで、俺への恨みを消すほどのものではない……」
黒田と上様は、同じように泣いている。
壊れてしまった黒田。
壊してしまった上様。
彼らは松寿丸を想って、泣いていた――
「申し上げます。上様と黒田殿に言っておかねばならぬことがございます」
僕は膝をつきながら、二人に言う。
二人とも、僕のほうを、呆然と眺めている。
「松寿丸は生きております。竹中家が匿っていました」
この場に居る者全て、僕の言葉に何も言えなかった。
「く、雲之介、そ、それは真なのか?」
いち早く回復したのは、上様だった。
信じられないといった顔で見つめていた。
「詳しくは、竹中家当主、竹中久作殿からお聞きください」
僕は隣に座っていた久作を促した。
「雨竜殿が言ったことは、真にございます。我が家臣の不破に、松寿丸殿を隠させて、匿っていました」
「な、何故、そのようなことを――」
「今は亡き、兄上がそういたしました。黒田殿はこれからの織田家に必要な人である。だから松寿丸殿を殺すわけにはいかぬと」
「で、では、あの首は?」
「病で死んだ子の首――偽首でございます!」
上様の全身から力が抜けた。
黒田は、泣きながら笑った。
「うひひひひひ、じゃあ、松寿丸は――」
「竹中家の居城にて、暮らしております」
僕はこの機会を見計らって、上様に言う。
「これは竹中半兵衛と僕しか知らなかったことです。死の間際、僕に打ち明けたのです。ですから、上様を欺いた責は――僕一人が負います」
それに驚いたのは、上様でも黒田でもなく、久作だった。
「馬鹿な! これは竹中家の問題ですよ!?」
「いえ。竹中家は当主の命令に従ったまでのこと。どうか沙汰は僕に下されますように」
深く頭を下げる。
ざわめく諸将。
そのとき、上様は言った。
「――このことに関して、罪などあるわけがなかろう」
上様が僕の肩を掴んで起こし、そして僕の手を握った。
「よくやってくれた。竹中半兵衛と共に、主命違反は不問といたす!」
自分の非を認める潔さは流石としか言いようがない。
「むしろ褒美をやりたいくらいだ」
「あ、でしたら竹中家と黒田家をお引き立てくだされば」
しれっと言うと上様は目を丸くして「貴様には利がないではないか」と言う。
「責任は負うけど、利得は得ない。そう半兵衛さんと約束したのです」
「……無欲な奴だ! その望み、叶えてやる! 竹中家と黒田家の両家を引き立ててやる!」
すると黒田が「ふひひひ! ありがとうございます!」と大声で笑った。
「雨竜殿には、とても世話になったな!」
「それを言うのなら、半兵衛さんだよ」
僕はこっそりと耳打ちした。
「身体が良くなったら、三木城攻めの本陣に来なさい」
そして黒田の目を見る。
怪訝そうな顔をしたけど、察したようで、力強く頷いた。
◆◇◆◇
それから二週間後。
身体がある程度癒えた黒田と共に三木城近くの農村に向かう。家臣の栗山と母里も一緒だ。
「本陣に行かなくてよろしいのですか?」
栗山が首を傾げながら問う。
「雨竜さまが竹中さまの墓があるって言っていたからな。まずは墓参りしねえと」
母里が神妙なことを言う。聞いたところによると、半兵衛さんを責めたことを悔やんでいるらしい。
「ふひひひ。もう一度だけ、会いたかったなあ」
どうやら笑い声はやめられないらしい。黒田は笑いながら言う。
農村の奥にその墓はあった。
墓と言うより塚と言うべき無骨の岩が置かれている。
「さあ。手を合わせてくれ」
三人は僕の言ったとおり、手を合わせて、目を閉じた――
その隙に墓の前に出る人が居た。
「……どわあああああ!?」
初めに目を開けたのは母里だった。大声を上げて後ろに飛び退く。
「――っ!?」
次は栗山だった。あまりの衝撃に腰が砕けてしまった。
「……あははは。まさかの策略だ!」
黒田は愉快そうに笑った。
「ちょっと! 官兵衛ちゃん! 反応悪いわよ!」
そう。死んだはずの半兵衛さんがそこに立っているのだから、驚くのは無理もない。
「し、死んだはずじゃ……?」
「栗山ちゃん。もしあたしが生きてたら、上様に叱られちゃうかもしれないじゃない」
青白い顔でにやにや笑う半兵衛さん。
僕は呆れながら言う。
「まったく。『死ぬときは誰かを驚かせて死にたい』だなんて。悪趣味にもほどがあるよ」
「ふふふ。叶えてくれてありがとうね。雲之介ちゃん」
そのとき、身体を崩しかけたので、さっと支える。
とても軽かった。
「二ヶ月と二週間。この村で暮らしていたけど、そろそろ限界ね」
「そうだね。秀吉たちが待っているよ。行こう」
僕は半兵衛さんを支えて歩く。
「ふひひひ。羽柴殿も居るのか?」
「羽柴家全員居るよ。半兵衛さんが淋しくないようにね」
「本当に気のいい仲間よ」
そして半兵衛さんは黒田に言う。
「官兵衛ちゃん。これからあたしの代わりに、秀吉ちゃんを支えてあげて」
黒田は笑いながら応じた。
「ふひひひひ。任せてくれ。太平の世になるまで、支えてやるよ!」
◆◇◆◇
それから五日後。
半兵衛さんはこの世から去った。
羽柴家と黒田家、そして竹中家のみんなに見送られながら逝った。
「楽しかったわよ、秀吉ちゃん」
それが最期の言葉だった。
秀吉は半兵衛さんの手を握って、死んだ後も握り続けた。
稀代の軍師、竹中半兵衛重治。
戦場ではなく、畳の上で安らかに亡くなった。