残酷な描写あり
取引と責め苦
「……どういうことか説明してもらいましょうか」
「ふふ。意外と冷静なんですね。このような状況なのに」
明智さまは「いや、このような状況だから、でしょうか」と軽く笑った。
そのとおり。生殺与奪が目の前に居る明智さまに握られていることは明らかだった。
だから――己に冷静さを強いる。
「私は雲之介殿に説明をする義務があるでしょう。しかしそれはできません」
「何故――ですか?」
「駆け引きなしで言います。私はいずれ、あなたをここから出すつもりです」
思わぬ解放の宣言。一瞬だけ安心した――すぐさま引き締める。
明智さまの言葉が真実である確証はない。油断大敵だ。
「だからこそ、あなたの置かれている状況や理由を説明することはできないのですよ。知ってしまえば、殺さざるを得ない」
「……一切話すことはできませんか?」
「私にも立場がありますから。しかしそれでは雲之介殿が不憫ですね。言える範囲なら、答えましょう」
僕は囚われの身になって一番気にかかっていることを訊ねる。
「僕の家族――志乃や子供たちは、無事なのですか?」
「……ほう。あの場に居た公方さまのことは心配なさらないのですか?」
少々面食らってしまったらしい明智さま。僕は「確かに義昭殿のことも心配です」と返す。
「僕は武士になりきれていないようです。家族を第一に考えてしまう」
「……気持ちはよく分かりますよ」
何故か明智さまは悲しそうな顔をした。僕を同情しているのだろうか。
「あなたの家族は、私が保護しています。安心してください」
「……閉じ込めておいて、その言葉はないんじゃないですか?」
「それでもあなたは信じるしかない。そうでしょう?」
信じ難い。しかし信じるしかない。
僕は頷いた。
「ちなみに公方さまも無事ですよ。一覚殿もね」
明智さまが次に聞きたかったことを先回りして言ってくれた。
となると明智さまの謀反ではない……ではどうして僕は囚われているんだ?
「僕を閉じ込めた理由は?」
「言えません」
「ここはどこなんですか?」
「言えません」
「明智さまの企みですか?」
「言えません」
むう。何一つ答えてくれない。
しかし分かったこともある。一連の問いこそが『知ったら殺さなければならない理由』かもしれない。
それに『言えません』と答えた。『言いません』でも『答えません』でもない。
微妙な言い回しだけど、何か手がかりになりそうだ。
「雲之介殿。これからあなたに外の情報を伝えることはないでしょう。というより、私がもうここに来ることはない」
「ずっと一人きりってことですか?」
「ええ。決まった時刻に食せるものを運ばせますから。一人でも耐えてください」
こんな場所に居たら気が変になりそうだ。耐えろと言っても耐え切れるかどうか……
「雲之介殿。取引しませんか?」
不意に明智さまが言い出した。
取引?
僕は何を差し出すのか。
見返りに何をくれるのか。
「もしも私が死んだら、妻と子供たち、家臣たちを頼まれてくれませんか?」
それは、死ぬ可能性があるということ。
加えて、死ぬようなことをするということ。
「……閉じ込めておいて、都合の良い話ですね。それに代価は? 代わりにここから出すとでも言うんですか?」
「それは関係なしにいずれ出してあげますよ。代価は……あなたの記憶に関することです」
僕の記憶? まさか――失った記憶のことか!?
「ど、どういうことですか? そもそも、どうしてそのことを?」
「公方さまから聞きました。それと私はあなたの『秘密』を知っている――」
秘密? 記憶ではなく?
「それは一体、どういう――」
「……どうやら時間切れのようですね」
確かに足音がする。こちらにやってくる……
「明智さま。そろそろお時間です」
来たのは、足軽だった。口調からして明智さまの部下らしい。
「そうか。すぐに行く――雲之介殿、先ほどの取引、了承してくれますか?」
僕は……悩んでいた。悪い取引ではない。明智さまの家族を思う気持ちは痛いほどよく分かる。
「……ま、ゆっくり考えてください。時間ならたっぷりとある。あなたが応じてくださったら、私も約束を遵守しますよ」
そう言って、明智さまは足軽を伴って、歩き出す。
「待ってください! 最後に一つだけ聞かせてください!」
僕の問いに足を止める明智さま。
「……なんでしょうか?」
「今回の一連の出来事の黒幕は、あなたですか?」
明智さまは振り返ることなく、端的に答えた。
「違います。私ではありません」
「……では誰が?」
「最後に一つだけ、ですよね」
そう言い捨てて、今度こそ去ってしまう。
後に残されたのは僕一人。
「くそ! どういうことなんだ!」
愚痴っても誰も応じてくれない。
でも分かったことがある。明智さまは黒幕ではない。
『私にも立場がありますから』
確かにそう言った。ということは誰かに従っているということで。
黒幕は他に居る――
◆◇◆◇
食事は日に二回運ばれてくる。日に二回というのは腹の空き具合からの推測だった。
牢屋の端に石ころが数個置かれていて、僕は壁に傷を付けて、運ばれてくる食事の回数をつけた。
あまりに退屈なので食事を運んでくる係の兵士に話しかける。でも口を利いてくれない。
書物などを要求しても応じてくれないので、子供の頃にお市さまから貸していただいた史記や西遊記の内容を思い返す。それでもすぐに飽きてしまった。
気が狂いそうになる。誰かと話したい。
次第に寒くなる牢屋。布団すらない。風呂にも入れないので、身体中が臭いし不快感で一杯だった。着物も悪くなっている。便所もないので隅でするしかなかった。
もしもあの世があり、地獄が存在するなら、何も無いところに閉じ込めることが最大の罰ではないだろうか?
そう錯覚するほどの責め苦だった。
志乃たちは大丈夫だろうか? 僕と同じ状況に陥っていないだろうか?
秀吉は? お屋形様は? 義昭殿は?
何一つ分からないことの苦痛。
◆◇◆◇
多大な負荷を心にかけられている生活が、九十二日――壁に百八十四個の傷をつけたところだった――が続いたとき、にわかに声が聞こえてくる。
何かが燃える音も聞こえる。争うような声も。
何が起きているんだろう。
よろよろと格子の前に立つ。
その音はずっと続いた。
音が続いてから、食事が一切運ばれなくなった。光も消えた。
空腹で、何も考えられない。
喉が酷く渇く。地下牢にできた水滴を舐める。吐き気がした。
自分の手を見つめる。肉だった。いやそれはできない。
それから、しばらく経って、音が大きくなったと思ったら。
「雲之介! ああ、ようやっと――」
誰だ……? 僕の名前を、呼んだ、のは……
「ひ、ひでえ! おい、水を持って来い!」
僕の肩を抱いて、ゆっくりと水を飲ませる、誰か。
「おい兄弟! しっかりしろ!」
空腹で、何も見えない。
でも助かったことは、分かった。
◆◇◆◇
起きたら牢屋ではなかった。
畳の上だった。もっと言えば布団に寝かされていた。
ごつごつとした岩の上ではない。
「ここ、は……」
「――っ! 秀吉さん! 兄弟が目を覚ました!」
はっきりとは分からないけど、正勝の声だ。
「雲之介! ほら、粥を食べてくれ!」
秀長殿、かな……
口に温かいものが運ばれる。ゆっくりと飲み込む。
美味しかった。
「雲之介! 良かった、生きていてくれたか!」
手を握られる。ようやくはっきりと見えた。
猿みたいな顔――秀吉だった。
「秀吉……ここは、僕は生きて……」
「ああ、生きておる! すまなかった、わしの憶測で、おぬしをこんな目に……!」
「お腹、空いた……」
「そうだな! 秀長、粥を食べさせろ!」
僕は生きている。粥を食べながら、それだけ感じられた。
「志乃は……? 晴太郎とかすみ……」
「大丈夫だ。三人とも無事だ!」
安心して、気を抜いて。
僕は再び眠ってしまった。
「ふふ。意外と冷静なんですね。このような状況なのに」
明智さまは「いや、このような状況だから、でしょうか」と軽く笑った。
そのとおり。生殺与奪が目の前に居る明智さまに握られていることは明らかだった。
だから――己に冷静さを強いる。
「私は雲之介殿に説明をする義務があるでしょう。しかしそれはできません」
「何故――ですか?」
「駆け引きなしで言います。私はいずれ、あなたをここから出すつもりです」
思わぬ解放の宣言。一瞬だけ安心した――すぐさま引き締める。
明智さまの言葉が真実である確証はない。油断大敵だ。
「だからこそ、あなたの置かれている状況や理由を説明することはできないのですよ。知ってしまえば、殺さざるを得ない」
「……一切話すことはできませんか?」
「私にも立場がありますから。しかしそれでは雲之介殿が不憫ですね。言える範囲なら、答えましょう」
僕は囚われの身になって一番気にかかっていることを訊ねる。
「僕の家族――志乃や子供たちは、無事なのですか?」
「……ほう。あの場に居た公方さまのことは心配なさらないのですか?」
少々面食らってしまったらしい明智さま。僕は「確かに義昭殿のことも心配です」と返す。
「僕は武士になりきれていないようです。家族を第一に考えてしまう」
「……気持ちはよく分かりますよ」
何故か明智さまは悲しそうな顔をした。僕を同情しているのだろうか。
「あなたの家族は、私が保護しています。安心してください」
「……閉じ込めておいて、その言葉はないんじゃないですか?」
「それでもあなたは信じるしかない。そうでしょう?」
信じ難い。しかし信じるしかない。
僕は頷いた。
「ちなみに公方さまも無事ですよ。一覚殿もね」
明智さまが次に聞きたかったことを先回りして言ってくれた。
となると明智さまの謀反ではない……ではどうして僕は囚われているんだ?
「僕を閉じ込めた理由は?」
「言えません」
「ここはどこなんですか?」
「言えません」
「明智さまの企みですか?」
「言えません」
むう。何一つ答えてくれない。
しかし分かったこともある。一連の問いこそが『知ったら殺さなければならない理由』かもしれない。
それに『言えません』と答えた。『言いません』でも『答えません』でもない。
微妙な言い回しだけど、何か手がかりになりそうだ。
「雲之介殿。これからあなたに外の情報を伝えることはないでしょう。というより、私がもうここに来ることはない」
「ずっと一人きりってことですか?」
「ええ。決まった時刻に食せるものを運ばせますから。一人でも耐えてください」
こんな場所に居たら気が変になりそうだ。耐えろと言っても耐え切れるかどうか……
「雲之介殿。取引しませんか?」
不意に明智さまが言い出した。
取引?
僕は何を差し出すのか。
見返りに何をくれるのか。
「もしも私が死んだら、妻と子供たち、家臣たちを頼まれてくれませんか?」
それは、死ぬ可能性があるということ。
加えて、死ぬようなことをするということ。
「……閉じ込めておいて、都合の良い話ですね。それに代価は? 代わりにここから出すとでも言うんですか?」
「それは関係なしにいずれ出してあげますよ。代価は……あなたの記憶に関することです」
僕の記憶? まさか――失った記憶のことか!?
「ど、どういうことですか? そもそも、どうしてそのことを?」
「公方さまから聞きました。それと私はあなたの『秘密』を知っている――」
秘密? 記憶ではなく?
「それは一体、どういう――」
「……どうやら時間切れのようですね」
確かに足音がする。こちらにやってくる……
「明智さま。そろそろお時間です」
来たのは、足軽だった。口調からして明智さまの部下らしい。
「そうか。すぐに行く――雲之介殿、先ほどの取引、了承してくれますか?」
僕は……悩んでいた。悪い取引ではない。明智さまの家族を思う気持ちは痛いほどよく分かる。
「……ま、ゆっくり考えてください。時間ならたっぷりとある。あなたが応じてくださったら、私も約束を遵守しますよ」
そう言って、明智さまは足軽を伴って、歩き出す。
「待ってください! 最後に一つだけ聞かせてください!」
僕の問いに足を止める明智さま。
「……なんでしょうか?」
「今回の一連の出来事の黒幕は、あなたですか?」
明智さまは振り返ることなく、端的に答えた。
「違います。私ではありません」
「……では誰が?」
「最後に一つだけ、ですよね」
そう言い捨てて、今度こそ去ってしまう。
後に残されたのは僕一人。
「くそ! どういうことなんだ!」
愚痴っても誰も応じてくれない。
でも分かったことがある。明智さまは黒幕ではない。
『私にも立場がありますから』
確かにそう言った。ということは誰かに従っているということで。
黒幕は他に居る――
◆◇◆◇
食事は日に二回運ばれてくる。日に二回というのは腹の空き具合からの推測だった。
牢屋の端に石ころが数個置かれていて、僕は壁に傷を付けて、運ばれてくる食事の回数をつけた。
あまりに退屈なので食事を運んでくる係の兵士に話しかける。でも口を利いてくれない。
書物などを要求しても応じてくれないので、子供の頃にお市さまから貸していただいた史記や西遊記の内容を思い返す。それでもすぐに飽きてしまった。
気が狂いそうになる。誰かと話したい。
次第に寒くなる牢屋。布団すらない。風呂にも入れないので、身体中が臭いし不快感で一杯だった。着物も悪くなっている。便所もないので隅でするしかなかった。
もしもあの世があり、地獄が存在するなら、何も無いところに閉じ込めることが最大の罰ではないだろうか?
そう錯覚するほどの責め苦だった。
志乃たちは大丈夫だろうか? 僕と同じ状況に陥っていないだろうか?
秀吉は? お屋形様は? 義昭殿は?
何一つ分からないことの苦痛。
◆◇◆◇
多大な負荷を心にかけられている生活が、九十二日――壁に百八十四個の傷をつけたところだった――が続いたとき、にわかに声が聞こえてくる。
何かが燃える音も聞こえる。争うような声も。
何が起きているんだろう。
よろよろと格子の前に立つ。
その音はずっと続いた。
音が続いてから、食事が一切運ばれなくなった。光も消えた。
空腹で、何も考えられない。
喉が酷く渇く。地下牢にできた水滴を舐める。吐き気がした。
自分の手を見つめる。肉だった。いやそれはできない。
それから、しばらく経って、音が大きくなったと思ったら。
「雲之介! ああ、ようやっと――」
誰だ……? 僕の名前を、呼んだ、のは……
「ひ、ひでえ! おい、水を持って来い!」
僕の肩を抱いて、ゆっくりと水を飲ませる、誰か。
「おい兄弟! しっかりしろ!」
空腹で、何も見えない。
でも助かったことは、分かった。
◆◇◆◇
起きたら牢屋ではなかった。
畳の上だった。もっと言えば布団に寝かされていた。
ごつごつとした岩の上ではない。
「ここ、は……」
「――っ! 秀吉さん! 兄弟が目を覚ました!」
はっきりとは分からないけど、正勝の声だ。
「雲之介! ほら、粥を食べてくれ!」
秀長殿、かな……
口に温かいものが運ばれる。ゆっくりと飲み込む。
美味しかった。
「雲之介! 良かった、生きていてくれたか!」
手を握られる。ようやくはっきりと見えた。
猿みたいな顔――秀吉だった。
「秀吉……ここは、僕は生きて……」
「ああ、生きておる! すまなかった、わしの憶測で、おぬしをこんな目に……!」
「お腹、空いた……」
「そうだな! 秀長、粥を食べさせろ!」
僕は生きている。粥を食べながら、それだけ感じられた。
「志乃は……? 晴太郎とかすみ……」
「大丈夫だ。三人とも無事だ!」
安心して、気を抜いて。
僕は再び眠ってしまった。