残酷な描写あり
交渉と寺小姓
「とても強く――なりましたね。お市さま」
帰り際、僕はお市さまと少しだけ話す機会があった。こんな状況なのに、城門の前まで見送りに来てくれたのだ。
「ええ。私が強くないとこの子が不安に思いますから」
抱えていた茶々を見せるお市さま。何の不安もないように、笑っている赤ん坊――茶々。
志乃もそうだったけど、守るべき子供がいると女性は男よりも強くなるし、覚悟もできる。
「雲之介さん。お兄さまはお市のことを許してくださるでしょうか?」
「それはどういう意味ですか?」
「織田家に戻らない私を、兄はどう思っているか……」
僕はお屋形様の気持ちを想像して、お市さまに伝える。
「きっと、淋しく思っています。しかし誇りにも思っているでしょうね」
「……えっ?」
「僕も同じ気持ちです」
最後に僕はお市さまに伝える。
「九才のときに出会ってから、ここまで強くなってくださって、僕はとても嬉しく思うのですよ」
お市さまはその言葉を噛み締めるように頷いて、僕が一番好きな笑顔を見せた。
「ありがとう。雲之介さん」
その後、横山城に戻ると、さっそく軍議が開かれた。
湖北十ヶ寺――福田寺を始めとする十の寺院は、北近江に多大な影響力を持つ一向宗である。彼らが率いる軍は小谷城を包囲している。それを打破するために、僕らの天才軍師竹中半兵衛はとある策を考えた。
「古今東西、寡兵が勝つには搦め手が必要よ」
そう語る半兵衛さんは時折咳をしながら、評定の間で僕たちに説明をする。
「大兵に軍略いらず。ならば寡兵こそ軍略が必要なのよ」
「それは分かったが、一体どうするつもりなんだ?」
秀長殿の戸惑いに半兵衛さんは「まず流言を広めるわ」と自信満々に返す。
「お屋形様の援軍三万が来ると、包囲している二万の軍勢に広めるのよ」
「まあ実際には武田家への備えで来られないがな。しかしどうやって流言を広めるのだ?」
「秀吉ちゃん。湖北十ヶ寺以外の寺院を使うわ。たとえ宗派が違っていても僧兵なら混ざっていてもおかしくない」
織田家の兵が潜入するよりは、だいぶマシだと思うけど、その他の寺院の連中が素直に従ってくれるか、ほんの少しだけ不安だった。
半兵衛さんは続けて「もう目星はつけているわ」と一つの寺の名を挙げる。
「伊吹山の観音寺。ここには五百の僧兵が居る。しかもあたしたち織田家に好意的だし、上手くやってくれるわ」
「そこまで調べているのなら、わしとしては不満も文句も無い。いいだろう。協力を得に向かおう」
秀吉の決断に皆は頷いた。
最後に半兵衛さんは僕に訊ねた。
「雲之介ちゃん。あなた足利家の家臣のとき、大山崎油座と懇意にしていたわね」
「うん? まあ献金の代わりにいろいろ便宜を図ったから」
大山崎油座とは山崎村にある寺を中心とした共同体で、鎌倉の時代から荏胡麻の栽培と精油をしている歴史ある場所だ。寺に仕える職人集団の寄人――地元では神人と呼んでいる――と僕は交渉して日の本全ての関所の通行を許す朱印状を渡す見返りに、献金させるようにしたのだ。日の本各地で荏胡麻の種の仕入れと油の売買を行なう彼らにとっては、朱印状は喉から手が出るほど欲しいものだった。
「そこに一筆書いて送ってほしいのよ。油を大量に輸送してほしいってね」
「えっ? 火計でもする気なのか?」
「馬鹿なこと言わないでよ。どこを焼く気? ここは浅井家の領地だから勝手に焼くのはご法度よ」
ならどうして油が必要なのだろうか?
僕は理解が出来なかった。あの秀吉さえよく分かっていないらしい。
「分かった。交渉してくる――」
「何言っているのよ。あたしは一筆書いて送ってほしいと言ったのよ? あなたは観音寺に行くのよ」
「えっ? 秀吉が行くんじゃないのか?」
意外な言葉に秀吉も「わしが行くとばかり思っていたが」と驚いた。
「大将が向かうほどじゃないわよ。それに他にもやることが山ほどあるんだから」
「ううむ。では雲之介に任せるか」
すると正勝が「あんまり甘くするなよ? 兄弟」と釘を刺してきた。
「お前は優しいから、譲歩しちゃうんじゃねえか?」
「あはは。京の商人相手に交渉してきた僕に言うのかい?」
強かな商人に比べれば、それほど難しい相手ではないだろう。それに僕は秀吉の交渉をずっと見てきたんだ
「まあ任せてくれよ。逆に協力をさせてくれと言わせてみせるからさ」
そう自信満々に答えた。
◆◇◆◇
伊吹山は確か、酒呑童子の伝説がある場所だったっけ? 大江山に最終的に移ったけど、一時住んでいたみたいな言い伝えを聞いたことがある。長益さまか一覚殿のどちらかに聞いたんだけど、思い出せない。
まあそんなことはどうでもいい。観音寺に着いた僕は本堂に案内された。
そこには僧たちが大勢居た。どうやら向こうも重要な交渉だと思っているらしい。
聡明そうな寺小姓から一杯の茶を貰う。これから交渉するときに相応しい程よい熱さの茶だった。
「それで、織田家からの見返りはなんですかな?」
僕の話を一通り聞いた住職が単刀直入に訊ねてきた。
「見返り……あなた方にとって目障りな湖北十ヶ寺の影響力を取り除けるかもしれないのは見返りになりませんか?」
「かもしれないというのは見返りとは言えませんな。こちらとしては確約が欲しいのです」
ふむ。しかし浅井家の領地で勝手に許可や褒美を与えるわけにはいかない。
だから空手形で交渉を進めるしかない。
秀吉だったら――
「そうですか。なら別の寺に頼むことにします。お茶ありがとうございました」
あっさりと立ち上がり帰ろうとすると住職が「お、お待ちください!」と慌てた様子で止めた。
「なんですか?」
「わ、我ら以外に――」
「ええ。他にも交渉相手はたくさん居ますから」
「しかし――」
「時勢の見えない人にはこれ以上は不要でしょう」
最後まで言わせずにこちらの言葉を端的に告げる。これで住職は焦りを感じるだろう。
僕は住職だけではなく、周りの僧侶にも聞こえるように声を張り上げた。
「いいですか? せっかく織田家と浅井家に協力ができて、しかも敵対勢力を排除できる絶好の機会なのですよ? これ以上望むような欲深い僧に、頼むことなんてないんです」
そしてそのまま帰るフリをしようとすると――
「住職さま。協力なさるべきです」
そう言ったのは、先ほどお茶を持ってきた寺小姓だった。
「佐吉! 余計な口を挟むな!」
「浅井家と織田家が本拠地である北近江国で本願寺に負ける道理はありません。もし小谷城を奪われても、いずれ奪還できます。早いか遅いかだけの話です」
思わぬ援護に僕は足を止めた。
「ですから、今のうちに二家に協力をして、湖北十ヶ寺の影響力を削いでおかねばいけません」
「……佐吉の言うことはもっともだ。しかし――」
「今なら協力させてあげてもいいですよ」
僕はここで賭けに出た。
「そこの佐吉という少年に免じて、先ほどの無礼で欲深い要求は聞かなかったことにします」
「…………」
「ここで協力をして観音寺を大きくするのか、断って没落するのか。選んでください」
住職はうろたえる僧たちの顔を見渡して、それから溜息を吐いて言う。
「……分かりました。協力させてください」
その一言で交渉はまとまった。
僕は半兵衛さんの策を伝えた。援軍が来るという流言。そしてもう一つ、別の流言を広めるように頼んだ。
帰るときに先ほどの寺小姓を見かけた。一人で庭の落ち葉を掃除している。
「君。佐吉と言ったね。なかなか賢い子だ」
庭を掃くのをやめてこちらを見る佐吉。
「いえ。もう落ちぶれるのは嫌ですから」
「……もしかして、武家の出なのか?」
佐吉は頭を下げて、丁寧に自己紹介した。
「私は――石田佐吉と申します。お武家さま」
これが僕と佐吉の出会いだった。
帰り際、僕はお市さまと少しだけ話す機会があった。こんな状況なのに、城門の前まで見送りに来てくれたのだ。
「ええ。私が強くないとこの子が不安に思いますから」
抱えていた茶々を見せるお市さま。何の不安もないように、笑っている赤ん坊――茶々。
志乃もそうだったけど、守るべき子供がいると女性は男よりも強くなるし、覚悟もできる。
「雲之介さん。お兄さまはお市のことを許してくださるでしょうか?」
「それはどういう意味ですか?」
「織田家に戻らない私を、兄はどう思っているか……」
僕はお屋形様の気持ちを想像して、お市さまに伝える。
「きっと、淋しく思っています。しかし誇りにも思っているでしょうね」
「……えっ?」
「僕も同じ気持ちです」
最後に僕はお市さまに伝える。
「九才のときに出会ってから、ここまで強くなってくださって、僕はとても嬉しく思うのですよ」
お市さまはその言葉を噛み締めるように頷いて、僕が一番好きな笑顔を見せた。
「ありがとう。雲之介さん」
その後、横山城に戻ると、さっそく軍議が開かれた。
湖北十ヶ寺――福田寺を始めとする十の寺院は、北近江に多大な影響力を持つ一向宗である。彼らが率いる軍は小谷城を包囲している。それを打破するために、僕らの天才軍師竹中半兵衛はとある策を考えた。
「古今東西、寡兵が勝つには搦め手が必要よ」
そう語る半兵衛さんは時折咳をしながら、評定の間で僕たちに説明をする。
「大兵に軍略いらず。ならば寡兵こそ軍略が必要なのよ」
「それは分かったが、一体どうするつもりなんだ?」
秀長殿の戸惑いに半兵衛さんは「まず流言を広めるわ」と自信満々に返す。
「お屋形様の援軍三万が来ると、包囲している二万の軍勢に広めるのよ」
「まあ実際には武田家への備えで来られないがな。しかしどうやって流言を広めるのだ?」
「秀吉ちゃん。湖北十ヶ寺以外の寺院を使うわ。たとえ宗派が違っていても僧兵なら混ざっていてもおかしくない」
織田家の兵が潜入するよりは、だいぶマシだと思うけど、その他の寺院の連中が素直に従ってくれるか、ほんの少しだけ不安だった。
半兵衛さんは続けて「もう目星はつけているわ」と一つの寺の名を挙げる。
「伊吹山の観音寺。ここには五百の僧兵が居る。しかもあたしたち織田家に好意的だし、上手くやってくれるわ」
「そこまで調べているのなら、わしとしては不満も文句も無い。いいだろう。協力を得に向かおう」
秀吉の決断に皆は頷いた。
最後に半兵衛さんは僕に訊ねた。
「雲之介ちゃん。あなた足利家の家臣のとき、大山崎油座と懇意にしていたわね」
「うん? まあ献金の代わりにいろいろ便宜を図ったから」
大山崎油座とは山崎村にある寺を中心とした共同体で、鎌倉の時代から荏胡麻の栽培と精油をしている歴史ある場所だ。寺に仕える職人集団の寄人――地元では神人と呼んでいる――と僕は交渉して日の本全ての関所の通行を許す朱印状を渡す見返りに、献金させるようにしたのだ。日の本各地で荏胡麻の種の仕入れと油の売買を行なう彼らにとっては、朱印状は喉から手が出るほど欲しいものだった。
「そこに一筆書いて送ってほしいのよ。油を大量に輸送してほしいってね」
「えっ? 火計でもする気なのか?」
「馬鹿なこと言わないでよ。どこを焼く気? ここは浅井家の領地だから勝手に焼くのはご法度よ」
ならどうして油が必要なのだろうか?
僕は理解が出来なかった。あの秀吉さえよく分かっていないらしい。
「分かった。交渉してくる――」
「何言っているのよ。あたしは一筆書いて送ってほしいと言ったのよ? あなたは観音寺に行くのよ」
「えっ? 秀吉が行くんじゃないのか?」
意外な言葉に秀吉も「わしが行くとばかり思っていたが」と驚いた。
「大将が向かうほどじゃないわよ。それに他にもやることが山ほどあるんだから」
「ううむ。では雲之介に任せるか」
すると正勝が「あんまり甘くするなよ? 兄弟」と釘を刺してきた。
「お前は優しいから、譲歩しちゃうんじゃねえか?」
「あはは。京の商人相手に交渉してきた僕に言うのかい?」
強かな商人に比べれば、それほど難しい相手ではないだろう。それに僕は秀吉の交渉をずっと見てきたんだ
「まあ任せてくれよ。逆に協力をさせてくれと言わせてみせるからさ」
そう自信満々に答えた。
◆◇◆◇
伊吹山は確か、酒呑童子の伝説がある場所だったっけ? 大江山に最終的に移ったけど、一時住んでいたみたいな言い伝えを聞いたことがある。長益さまか一覚殿のどちらかに聞いたんだけど、思い出せない。
まあそんなことはどうでもいい。観音寺に着いた僕は本堂に案内された。
そこには僧たちが大勢居た。どうやら向こうも重要な交渉だと思っているらしい。
聡明そうな寺小姓から一杯の茶を貰う。これから交渉するときに相応しい程よい熱さの茶だった。
「それで、織田家からの見返りはなんですかな?」
僕の話を一通り聞いた住職が単刀直入に訊ねてきた。
「見返り……あなた方にとって目障りな湖北十ヶ寺の影響力を取り除けるかもしれないのは見返りになりませんか?」
「かもしれないというのは見返りとは言えませんな。こちらとしては確約が欲しいのです」
ふむ。しかし浅井家の領地で勝手に許可や褒美を与えるわけにはいかない。
だから空手形で交渉を進めるしかない。
秀吉だったら――
「そうですか。なら別の寺に頼むことにします。お茶ありがとうございました」
あっさりと立ち上がり帰ろうとすると住職が「お、お待ちください!」と慌てた様子で止めた。
「なんですか?」
「わ、我ら以外に――」
「ええ。他にも交渉相手はたくさん居ますから」
「しかし――」
「時勢の見えない人にはこれ以上は不要でしょう」
最後まで言わせずにこちらの言葉を端的に告げる。これで住職は焦りを感じるだろう。
僕は住職だけではなく、周りの僧侶にも聞こえるように声を張り上げた。
「いいですか? せっかく織田家と浅井家に協力ができて、しかも敵対勢力を排除できる絶好の機会なのですよ? これ以上望むような欲深い僧に、頼むことなんてないんです」
そしてそのまま帰るフリをしようとすると――
「住職さま。協力なさるべきです」
そう言ったのは、先ほどお茶を持ってきた寺小姓だった。
「佐吉! 余計な口を挟むな!」
「浅井家と織田家が本拠地である北近江国で本願寺に負ける道理はありません。もし小谷城を奪われても、いずれ奪還できます。早いか遅いかだけの話です」
思わぬ援護に僕は足を止めた。
「ですから、今のうちに二家に協力をして、湖北十ヶ寺の影響力を削いでおかねばいけません」
「……佐吉の言うことはもっともだ。しかし――」
「今なら協力させてあげてもいいですよ」
僕はここで賭けに出た。
「そこの佐吉という少年に免じて、先ほどの無礼で欲深い要求は聞かなかったことにします」
「…………」
「ここで協力をして観音寺を大きくするのか、断って没落するのか。選んでください」
住職はうろたえる僧たちの顔を見渡して、それから溜息を吐いて言う。
「……分かりました。協力させてください」
その一言で交渉はまとまった。
僕は半兵衛さんの策を伝えた。援軍が来るという流言。そしてもう一つ、別の流言を広めるように頼んだ。
帰るときに先ほどの寺小姓を見かけた。一人で庭の落ち葉を掃除している。
「君。佐吉と言ったね。なかなか賢い子だ」
庭を掃くのをやめてこちらを見る佐吉。
「いえ。もう落ちぶれるのは嫌ですから」
「……もしかして、武家の出なのか?」
佐吉は頭を下げて、丁寧に自己紹介した。
「私は――石田佐吉と申します。お武家さま」
これが僕と佐吉の出会いだった。