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作者: 橋本洋一
残酷な描写あり
その高僧、有徳につき
 石山本願寺――堺で茶の湯修行をする際に寄ったのを覚えている。はっきり言って昔のことなので、いまいち覚えていない。しかしあまり良い印象を持ったとは言えない。

 それは森さまやお師匠さまの言葉や政秀寺のときに聞いた話に影響されていると言ったほうが正確かもしれないが、僧侶なのに矢銭を徴収されるほど銭を蓄えている事実に嫌悪感を覚えているのも少なくない要因だろう。
 あまり気の進まない主命だったけど、義昭殿とお屋形様が命じたことだ。そういった嫌悪感は隠すようにしよう。

 そういえば、お屋形様は一度、本願寺の法主ほっすである本願寺顕如ほんがんじけんにょに会ったことがあるという。村井さまからの又聞きなので、詳細は定かではないが『敵に回したら恐ろしい』と近習に漏らしていたらしい。
 あのお屋形様にそこまで言わせるほどの人物、本願寺顕如。
 どれほど恐ろしいのだろうか。

 小者たちを引き連れて、僕は石山本願寺に向かった。道中、一向宗らしき僧侶とすれ違う。それは近づくにつれて増えていく。数年前よりも多く見かけるようになった気がする。

 石山本願寺は山の上に建てられた寺院――いや城そのものだった。周りには堀があり、柵や逆茂木さかもぎで防備が施されていた。そして城下町ならぬ寺内町が広がり、家々や住人たちで活気に満ちていた。
 半兵衛さんならどうやってこの寺院を攻め落とすんだろうか。並みの軍師なら匙を投げるほどだけど、あの天才軍師だったらとんでもない奇策を思いつくかもしれない。

 寺の入り口で僧に足利家の者だと伝えると、すぐさま奥の間に案内された。
 通されたのは僕一人だった。小者たちは別の間で休んでもらっている。

「初めまして。私が本願寺の住職、顕如です」

 少しの間も置かずに、襖が開いて、一人の僧が入ってきた。
 高僧である。素人目でも分かる。いや認識させられてしまう。
 徳の高さがひしひしと伝わる。後光が差しているのではないかと錯覚するほど――

「おや。どうかしましたか?」

 首を傾げる顕如。見とれてしまっていたようだ。
 僕は「なんでもないです」と何気なく言った。

 正面に座る顕如。座り方にも品と言うか、徳を感じる。
 改めて顕如を見る。目が大きく、鼻は小さい。たおやかな笑みを浮かべている。背はそれほど高くない。賢そうな顔立ち。中肉中背。だけど少しだけ太っている――

「ふふふ。まるで値踏みしているようですね」

 微笑みを崩さずにどきりとすることを言う顕如。
 僕は「失礼しました」と頭を下げた。

「さっそくですが、公方さまへの矢銭の準備は整っております」

 顕如が柏手を打つと、襖が開いて大きな箱を持った僧が三人現れる。
 僕の前にどかりと置かれたのは、おそらく矢銭が入っているだろう――箱。
 三人の僧が去ってから、顕如は余裕で言う。

「五千貫です。どうぞお納めください」
「ありがたくいただくが、よろしいのですか? これはお布施でしょう?」

 僕の疑問に「あなたさまは浄土真宗の教えをご存知ですか?」と逆に訊ねてきた。

「悪人正機ぐらいしか……」
「それでは王法為本おうほういほんという教えは聞いたことはありませんか?」

 僕は「聞いたことはありません」と答えた。

「王法為本とは統治者を助けるという教えです。この場合は統治者とは公方さまであり、織田信長殿であられるのです。ですから、矢銭を献じるのは当然なのですよ」

 にっこりと微笑む顕如。なるほど、それなら納得がいく。

「素晴らしい教えですね」

 これは世辞のつもりだった。顕如もおそらく分かっていたが「ありがとうございます」と笑顔で礼を述べた。

「あ、そういえば公方さまから書状を預かっております」

 うっかり義昭殿と呼ばないように気をつけながら、僕は書状を手渡した。
 顕如は受け取ってさっそく中身を読む。
 ぴくりと眉が動いた。

「ふむ。石山本願寺を明け渡すように、ですか」

 思わぬ内容に息を飲むが、それを悟られないように平静を装った。

「しかしながら私の一存では決められぬことですので、返答は後日にさせていただきます」

 まあそう答えるしかないだろう。

「それでは使者殿。他にご予定は?」
「いえ。すぐに帰ろうと――」
「もう日が暮れております。何もないところですが、是非お泊りください」

 有無を言わせない言葉だった。
 僕は矢銭をもらっている以上、応じないわけにはいかなかった。

「ではお言葉に甘えて」
「部下の方々にも食事を用意させます――使者殿、少しお話しましょう」

 顕如は唐突に話し出した。

「使者殿は織田信長殿をどう見ますか?」

 いきなりの問いに面食らったが、僕は「信用できます」と答えた。

「それは足利家の臣としての発言ですかな?」
「僕個人の思いです。ああ、断っておきますが、僕は足利家の家臣ではなく、織田家の者です」

 そう言えばお屋形様批判はできないだろうと思っていたが、顕如は「ではあなたさまが雨竜雲之介秀昭さまですか?」と素性を言い当てられた。

「何故僕の名を?」
「あはは。それで確信に変わりましたよ」

 ぬう。半兵衛さんみたいなことをする。

「雨竜殿。あなたは陪臣でありながら有名であらせられる。特に京の商人の間ではね」
「そうですか。僕も有名になったものだ」
「あなたに問います――織田信長殿とはいかなる人物ですか?」

 僕は――迷わず答えた。

「戦国乱世を終わらせられる、唯一無二の存在です」

 顕如は――惑わず応じた。

「はたしてそうでしょうか?」

 僕は怪訝な表情で訊ねた。

「それは、侮辱しているのですか?」
「いえ。しかし一度会ったことのある私には、とてもそのような方とは思えませんでした」
「……侮辱と取りますよ」

 思わず刀を手にかけた――

「あの方は、身内に優しい」

 動きを止めてしまった。
 またしても言い当てられたからだ。

「織田家はこれから大きくなる存在です。その頂点に立つお方が、身内に優しいのはいかがなものか」
外様とざまを――排斥すると?」
「可能性はあります」

 僕は秀吉のことが思い浮かんだ。
 一門衆いちもんしゅうではなく、譜代ふだいの家臣ではない、秀吉。

「まああなたがどう思うかは、任せますが」
「……ではあなたに問います」

 反撃のつもりで――顕如に問う。

「どうして仏の教えは、戦国乱世を救わない?」

 顕如は――笑いながら言う。
 無邪気な――笑いだった。
 高僧には似合わない、子どものような、笑い。

「それが分かれば、三千世界さんぜんせかいは救われます」
「じゃあ浄土真宗は、仏教は、無意味じゃないのか?」
「それでも、一握りの人は救えます」

 顕如は手のひらを差し出した。

「私に救えるのは、これだけ。しかし私の教え、先達の教えは残ります。そして続く。それらは幾年か少しずつの人を救う。それを繰り返せば多くの人を救えます」
「救えない人はどうするんだ?」

 顕如ははっきりと言った。

「救いがたい、いえ救いようの無い人は居ます。それらを救うのは、もはや人では成せぬことです」
「そ、それが僧の言うことか!?」

 信じられずに立ち上がる。そして言ってしまった。

「戦国乱世に、あなたはどう折り合いを付けるんだ!」

 顕如はそこで初めて、悲しい顔をした。

「私は折り合いを付けません。一生をかけて向かい合います」

 そして手を合わせて、祈る。

「――南無阿弥陀仏」

 詭弁だ――そう言いたかったけど、なぜか納得させられる。
 不思議と――話に引き込まれる。
 これが、顕如なのか。浄土真宗の頂点なのか。

「ただ一心に。ひたすらに祈ります。雨竜殿。あなたは仏の教えを軽んじているようですが、信じる者は救われることを知らないだけなのです」

 そして最後に、顕如は言った。

「仏教を、浄土真宗をあまり舐めないでいただきたい」

 その言葉の意味を――僕はまだ知らなかった。
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