残酷な描写あり
出立前夜
政秀寺にて、久しぶりに信行さまと会った。
あの日以来の再会だった。
寺の本堂で正座をして、僕たちは向かい合う。
「ずいぶんとさっぱりしましたね。信行さま」
「やめておくれ。もう私は信行でも『さま』を付けられる身分でもない」
法衣を身に纏い、頭を丸められた信行さま。
元が美男子だから服装も髪型も似合っている。というか似合い過ぎている。
まるで元々僧侶だったみたいだ。
「傷はすっかり癒えたみたいだな」
「ええ。信行さま――えっと、まだ法名を聞いてないのですが」
すると信行さまは「ああ。そうだったな」と微笑みながら手を合わせた。
「行雲という」
「行雲……」
「禅の教えで行雲流水という言葉があってな。雲は留まることなく行き、水は留まることなく流れる。転じて苦難や悲しみも留まることはない。そんな意味もある」
初めて聞いた言葉なのに、すっと心に入る。とても良い法名だと素直に思った。
「信行の行とおぬしの雲を合わせた、というこじつけでもある」
茶化すように信行さま――行雲さまは言う。
「それはとても光栄ですね」
「おぬしには命を助けられたな。礼を言う」
「僕じゃなくて藤吉郎のおかげです。もっと言うならお市さまがきっかけですし」
「それでも、ありがとう」
にこりと優しく微笑む行雲さまを見ていると、本当に徳の高い高僧のように思える。それと憑き物が取れたような感じもする。実の兄と争わずに済んだおかげかもしれない。
「それと申し訳ないが、いずれ私の息子の坊丸も織田家の一家臣として仕えることになる。面倒を見てやってくれ」
「分かりました。確か織田家の庶流の津田を名乗られる予定でしたね」
「ああ。兄上が約束してくださった」
そういえば、坊丸さまは柴田さまが養育するらしい。武芸のことは柴田さまから学べるから、それ以外のことをいつか教えてあげよう。
「それではお暇いたします」
「ああ。忙しいのに訪ねてくれてすまなかったな」
「いえ。実を言うとお屋形様に呼ばれていまして」
行雲さまは「兄上に?」と不思議そうな顔をした。
「何の用事だろう? ああ、もしかすると褒美がもらえるかもしれないな」
「それはないでしょう。藤吉郎ももらってないのですから」
「ならば直臣に昇格か?」
直臣、つまり直属の家臣になるということで、それはとても名誉なことだろう。
でも――
「もしそれだったら丁重にお断りします」
「何故だ? おぬしなら上手くやれそうだが」
「僕は藤吉郎の家来ですから」
藤吉郎のおかげで織田家に仕えられて、こうして何事も無く暮らせているのだ。
その恩をまだ返していないのに、直臣にはなれない。
「藤吉郎か……」
行雲さまはしばし考えて、結局何も言わずに「それでは達者でな」と言った。
少しだけ気になったけど、僕は「それではおさらばです」と本堂から立ち去った。
行雲さまが言いかけたこと。
そのことは清洲城に着いた頃にはすっかり頭から消え去っていた。
◆◇◆◇
「雲之介。お前は堺に行ったことはあるか?」
清洲城の大広間でお屋形様が僕に訊ねた。お屋形様のほかに柴田さまと丹羽さまが居た。そしてどこかで見たような人が一人居た。その人はお屋形様よりも年上な武士だった。
「いえ。ございませぬ」
もしかしたら記憶を失くす以前に行ったことがあるかもしれないけど、覚えてないので行ってないのも同然だった。
「そうか。まあ良かろう。雲之介、お前に命ずる。源五郎の供として堺に向かえ」
僕は訳の分からぬままに平伏して「ははっ。慎んでお受けいたします」と応える。
「うむ。良い返事ぞ」
お屋形様は満足そうに頷く。
「しかしお屋形様。堺で僕は源五郎さまのお供として、何をすればよいのですか?」
藤吉郎から言われたことは、まず命じられたら受けて、それから分からぬことを問うだった。
まず分かっていることはお屋形様の弟君の源五郎さまのこと。確かお市さまと同年に生まれたと聞いている。側室の子らしい。
それ以外はまったく分からなかった。
「目的は源五郎に茶の湯を学ばせることよ」
「はあ。茶の湯ですか?」
茶の湯のことは風の噂で聞いたことがあった。
なんでも京や堺で盛んに行なわれているものだ。
「そうだ。俺も多少は嗜んでいるが、きちんと習っていない。ゆえに源五郎に習わせて、茶の湯とはいかなるものかを学ばなければならん」
「茶の湯を……」
「俺は近い将来、茶の湯は重要な道具となると睨んでいる。鉄砲と同じくな」
よく分からないけどお屋形様がそう断言したのだから、そのとおりだろう。
「千宗易なる商人に渡りを付けている。堺にてそやつを訪ねよ。ついでにお前も習ってこい」
「えっ? よろしいのですか?」
「許す。源五郎だけでは不安でもある。あやつは気まぐれだからな。一緒に習う者が居たほうが良いだろう」
僕は深く頭を下げた。茶の湯を習うのはとても名誉なことだった。
「かしこまりました」
「それから堺までの道中は可成と共に行け」
すると初見だった武士が頭を下げた。
もしかすると、この方は森可成さまだろうか?
織田家で武勇の誉れ高い、森可成さま。
お屋形様と似た雰囲気の美男子だった。もしもお屋形様がお年を召されたらこんな感じになるのだろう。そう思えるような人だった。
「お屋形様。源五郎さまの護衛、お任せくだされ」
森さまは大声で言った。
「よし。出立は明日とする。準備は怠るなよ」
お屋形様が柴田さまと丹羽さまと一緒に立ち去った後、森さまは僕に向かって言った。
「しかし線の細い子供だな。よし、道中でいろいろ教えてやろう!」
豪快に笑う森さま。少しだけ、不安になった。
◆◇◆◇
「堺で茶の湯修行か。頑張って励めよ」
藤吉郎は羨ましそうな顔で言う。
出立の晩。僕は藤吉郎の部屋で食事をしていた。
何故かいつもよりも豪勢な料理が並んでいて、とても美味しい。
「茶の湯なんか習って、どうするんだろうな」
「決まっておろうが。政治に利用するのだ」
藤吉郎は簡単に言ったけど僕にはピンと来なかった。
「どういうこと?」
「そうだな。まあ茶は庶民でも飲んでいるし、闘茶など賭け事にも使われていたが、それら下賎なものと線引きしたのが、村田とか言う人物らしい。以来、公家や京や堺の商人の間で流行っている。ま、やんごとなきお方の文化でもある」
「うん。それで?」
「尾張国を統一したお屋形様が次に狙うのは美濃国だが、その先に目指すものはなんだ?」
僕は少し考えて「天下を治めること?」と答えた。
「そうだな。この場合の天下とは京、あるいは畿内のことだ」
「うん。そうだね……あ、上洛ってことか」
「上洛するということはやんごとなきお方たちと関わるということだ」
だんだんと分かってきた。
「じゃあそのやんごとなきお方との交流を深めるために茶の湯を習う必要があるのか」
「おっ。察しがよくなってきたな。茶の湯を知らぬ大名は田舎者扱いされる。だから否応なく習う必要があるのだ」
藤吉郎は賢いなあと尊敬の眼差しで見つめると「これは丹羽さまの受け売りだがな」と顔を背けた。
黙っていればいいのに。意外と正直者だった。
「だから一門の源五郎さまに習わせるのか。でも僕も習っていいのかな」
「いいんじゃないか? 一応わしにお屋形様が話を通してきたしな」
「うん? 家臣の家臣にいちいち許可なんているのか?」
「当たり前だ。そもそも陪臣に命令などできぬわ」
呆れたように言う藤吉郎。武士の慣習はよく分からない。
「でも茶の湯を習えば、役に立つってことだな」
「そうだな。お屋形様のために――」
「違うよ。藤吉郎のためだよ」
僕のこの一言に藤吉郎はきょとんとした。
「だって僕は藤吉郎の家臣なんだから。それに信行さま――じゃなかった、行雲さまを助けてくれた恩もあるし」
「……恥ずかしいことを恥ずかしげなく言うものだな。おぬしは」
ぽりぽりと頬をかく藤吉郎。どうやら照れているようだった。
「まあよい。明日出立だったな。遅れぬように気をつけろよ」
「うん……それにしても今日の料理は美味しいな」
とても藤吉郎が作ったものとは思えない。
すると何故か嬉しそうな顔をした藤吉郎。
「ふふふ。これはおなごが作ってくれたのよ」
「おなご? 誰だよ?」
「浅野長勝さまの養女、ねね殿よ」
しまりのないにやけ顔で自慢が始まった。
「気立ての良いおなごよ。歳は若いが、数年後には美女になるだろう。しかもわしを好いておる」
「ふうん。珍しいね」
「……珍しいとはどういう意味だ?」
「えっ? えっと、その、気立てが良くて美しいって人は珍しいから」
藤吉郎は「そうだろうなあ」と笑顔で頷いた。
なんとか誤魔化せたみたいだ。
「おぬしが懸想しているお市さまもお美しいがな。ねね殿もそれなりに美しい」
「懸想なんてしてないよ!」
「ふふふ。何を照れておるのだ?」
「べ、別に照れてなんか――」
「わしにお市さまへの好意を示しても意味はないぞ?」
そんな会話をしつつ、夜は更けていった。
藤吉郎を何の打算もなしに好いているねね殿。
どんな人だろうと興味が湧いた。
あの日以来の再会だった。
寺の本堂で正座をして、僕たちは向かい合う。
「ずいぶんとさっぱりしましたね。信行さま」
「やめておくれ。もう私は信行でも『さま』を付けられる身分でもない」
法衣を身に纏い、頭を丸められた信行さま。
元が美男子だから服装も髪型も似合っている。というか似合い過ぎている。
まるで元々僧侶だったみたいだ。
「傷はすっかり癒えたみたいだな」
「ええ。信行さま――えっと、まだ法名を聞いてないのですが」
すると信行さまは「ああ。そうだったな」と微笑みながら手を合わせた。
「行雲という」
「行雲……」
「禅の教えで行雲流水という言葉があってな。雲は留まることなく行き、水は留まることなく流れる。転じて苦難や悲しみも留まることはない。そんな意味もある」
初めて聞いた言葉なのに、すっと心に入る。とても良い法名だと素直に思った。
「信行の行とおぬしの雲を合わせた、というこじつけでもある」
茶化すように信行さま――行雲さまは言う。
「それはとても光栄ですね」
「おぬしには命を助けられたな。礼を言う」
「僕じゃなくて藤吉郎のおかげです。もっと言うならお市さまがきっかけですし」
「それでも、ありがとう」
にこりと優しく微笑む行雲さまを見ていると、本当に徳の高い高僧のように思える。それと憑き物が取れたような感じもする。実の兄と争わずに済んだおかげかもしれない。
「それと申し訳ないが、いずれ私の息子の坊丸も織田家の一家臣として仕えることになる。面倒を見てやってくれ」
「分かりました。確か織田家の庶流の津田を名乗られる予定でしたね」
「ああ。兄上が約束してくださった」
そういえば、坊丸さまは柴田さまが養育するらしい。武芸のことは柴田さまから学べるから、それ以外のことをいつか教えてあげよう。
「それではお暇いたします」
「ああ。忙しいのに訪ねてくれてすまなかったな」
「いえ。実を言うとお屋形様に呼ばれていまして」
行雲さまは「兄上に?」と不思議そうな顔をした。
「何の用事だろう? ああ、もしかすると褒美がもらえるかもしれないな」
「それはないでしょう。藤吉郎ももらってないのですから」
「ならば直臣に昇格か?」
直臣、つまり直属の家臣になるということで、それはとても名誉なことだろう。
でも――
「もしそれだったら丁重にお断りします」
「何故だ? おぬしなら上手くやれそうだが」
「僕は藤吉郎の家来ですから」
藤吉郎のおかげで織田家に仕えられて、こうして何事も無く暮らせているのだ。
その恩をまだ返していないのに、直臣にはなれない。
「藤吉郎か……」
行雲さまはしばし考えて、結局何も言わずに「それでは達者でな」と言った。
少しだけ気になったけど、僕は「それではおさらばです」と本堂から立ち去った。
行雲さまが言いかけたこと。
そのことは清洲城に着いた頃にはすっかり頭から消え去っていた。
◆◇◆◇
「雲之介。お前は堺に行ったことはあるか?」
清洲城の大広間でお屋形様が僕に訊ねた。お屋形様のほかに柴田さまと丹羽さまが居た。そしてどこかで見たような人が一人居た。その人はお屋形様よりも年上な武士だった。
「いえ。ございませぬ」
もしかしたら記憶を失くす以前に行ったことがあるかもしれないけど、覚えてないので行ってないのも同然だった。
「そうか。まあ良かろう。雲之介、お前に命ずる。源五郎の供として堺に向かえ」
僕は訳の分からぬままに平伏して「ははっ。慎んでお受けいたします」と応える。
「うむ。良い返事ぞ」
お屋形様は満足そうに頷く。
「しかしお屋形様。堺で僕は源五郎さまのお供として、何をすればよいのですか?」
藤吉郎から言われたことは、まず命じられたら受けて、それから分からぬことを問うだった。
まず分かっていることはお屋形様の弟君の源五郎さまのこと。確かお市さまと同年に生まれたと聞いている。側室の子らしい。
それ以外はまったく分からなかった。
「目的は源五郎に茶の湯を学ばせることよ」
「はあ。茶の湯ですか?」
茶の湯のことは風の噂で聞いたことがあった。
なんでも京や堺で盛んに行なわれているものだ。
「そうだ。俺も多少は嗜んでいるが、きちんと習っていない。ゆえに源五郎に習わせて、茶の湯とはいかなるものかを学ばなければならん」
「茶の湯を……」
「俺は近い将来、茶の湯は重要な道具となると睨んでいる。鉄砲と同じくな」
よく分からないけどお屋形様がそう断言したのだから、そのとおりだろう。
「千宗易なる商人に渡りを付けている。堺にてそやつを訪ねよ。ついでにお前も習ってこい」
「えっ? よろしいのですか?」
「許す。源五郎だけでは不安でもある。あやつは気まぐれだからな。一緒に習う者が居たほうが良いだろう」
僕は深く頭を下げた。茶の湯を習うのはとても名誉なことだった。
「かしこまりました」
「それから堺までの道中は可成と共に行け」
すると初見だった武士が頭を下げた。
もしかすると、この方は森可成さまだろうか?
織田家で武勇の誉れ高い、森可成さま。
お屋形様と似た雰囲気の美男子だった。もしもお屋形様がお年を召されたらこんな感じになるのだろう。そう思えるような人だった。
「お屋形様。源五郎さまの護衛、お任せくだされ」
森さまは大声で言った。
「よし。出立は明日とする。準備は怠るなよ」
お屋形様が柴田さまと丹羽さまと一緒に立ち去った後、森さまは僕に向かって言った。
「しかし線の細い子供だな。よし、道中でいろいろ教えてやろう!」
豪快に笑う森さま。少しだけ、不安になった。
◆◇◆◇
「堺で茶の湯修行か。頑張って励めよ」
藤吉郎は羨ましそうな顔で言う。
出立の晩。僕は藤吉郎の部屋で食事をしていた。
何故かいつもよりも豪勢な料理が並んでいて、とても美味しい。
「茶の湯なんか習って、どうするんだろうな」
「決まっておろうが。政治に利用するのだ」
藤吉郎は簡単に言ったけど僕にはピンと来なかった。
「どういうこと?」
「そうだな。まあ茶は庶民でも飲んでいるし、闘茶など賭け事にも使われていたが、それら下賎なものと線引きしたのが、村田とか言う人物らしい。以来、公家や京や堺の商人の間で流行っている。ま、やんごとなきお方の文化でもある」
「うん。それで?」
「尾張国を統一したお屋形様が次に狙うのは美濃国だが、その先に目指すものはなんだ?」
僕は少し考えて「天下を治めること?」と答えた。
「そうだな。この場合の天下とは京、あるいは畿内のことだ」
「うん。そうだね……あ、上洛ってことか」
「上洛するということはやんごとなきお方たちと関わるということだ」
だんだんと分かってきた。
「じゃあそのやんごとなきお方との交流を深めるために茶の湯を習う必要があるのか」
「おっ。察しがよくなってきたな。茶の湯を知らぬ大名は田舎者扱いされる。だから否応なく習う必要があるのだ」
藤吉郎は賢いなあと尊敬の眼差しで見つめると「これは丹羽さまの受け売りだがな」と顔を背けた。
黙っていればいいのに。意外と正直者だった。
「だから一門の源五郎さまに習わせるのか。でも僕も習っていいのかな」
「いいんじゃないか? 一応わしにお屋形様が話を通してきたしな」
「うん? 家臣の家臣にいちいち許可なんているのか?」
「当たり前だ。そもそも陪臣に命令などできぬわ」
呆れたように言う藤吉郎。武士の慣習はよく分からない。
「でも茶の湯を習えば、役に立つってことだな」
「そうだな。お屋形様のために――」
「違うよ。藤吉郎のためだよ」
僕のこの一言に藤吉郎はきょとんとした。
「だって僕は藤吉郎の家臣なんだから。それに信行さま――じゃなかった、行雲さまを助けてくれた恩もあるし」
「……恥ずかしいことを恥ずかしげなく言うものだな。おぬしは」
ぽりぽりと頬をかく藤吉郎。どうやら照れているようだった。
「まあよい。明日出立だったな。遅れぬように気をつけろよ」
「うん……それにしても今日の料理は美味しいな」
とても藤吉郎が作ったものとは思えない。
すると何故か嬉しそうな顔をした藤吉郎。
「ふふふ。これはおなごが作ってくれたのよ」
「おなご? 誰だよ?」
「浅野長勝さまの養女、ねね殿よ」
しまりのないにやけ顔で自慢が始まった。
「気立ての良いおなごよ。歳は若いが、数年後には美女になるだろう。しかもわしを好いておる」
「ふうん。珍しいね」
「……珍しいとはどういう意味だ?」
「えっ? えっと、その、気立てが良くて美しいって人は珍しいから」
藤吉郎は「そうだろうなあ」と笑顔で頷いた。
なんとか誤魔化せたみたいだ。
「おぬしが懸想しているお市さまもお美しいがな。ねね殿もそれなりに美しい」
「懸想なんてしてないよ!」
「ふふふ。何を照れておるのだ?」
「べ、別に照れてなんか――」
「わしにお市さまへの好意を示しても意味はないぞ?」
そんな会話をしつつ、夜は更けていった。
藤吉郎を何の打算もなしに好いているねね殿。
どんな人だろうと興味が湧いた。