残酷な描写あり
R-15
四話︰奴隷解放作戦②
軍事帝国アドラー東部の大都市ゴッテスフルス。
深夜二時。地下遺跡は霧に沈んでいた。海からの潮の匂いと錆びた鉄の匂いが混じり、遠くで木材と石造りの建築物が軋む音だけが規則的に響く。
街灯の光は霧に呑まれてぼんやりと滲み、地面に落ちる影すら頼りない。
地下遺跡付近の民家の屋根。
そこに二つの影があった。
ラスティ・ヴェスパーは青と白のアーキバスの外套の襟を立て、屋根の上で静かに身を潜めていた。
街灯の光が彼の横顔を冷たく照らす。完璧に整えられた黒髪、感情を排した横顔、まるで彫刻のような端正さ。だがその瞳は、闇の奥を射抜くように鋭く、静かに燃えている。
「……三分遅れていますが、何かトラブルでも?」
低く、抑揚のない声で呟く。その背後から、静かな靴音が近づいた。
「ごめんね、奴隷商人の監視網を沈黙させるのに手間取っちゃった」
アロラ・バレンフラワーは黒のロングコートを羽織り、長い黒髪を風になびかせていた。血のように赤い瞳が、霧の中で妖しく光る。彼女は小さく肩をすくめると、地下遺跡に通じるの鉄扉を一瞥した。
アロラは静かに名乗った。
「初めまして。私はアロラ・バレンフラワー。所属は帝国内部監査粛清機関という部署の責任者だ。よろしくね、ラスティくん」
彼女はわずかに微笑み、赤い瞳を細める。
ラスティが一歩前に出る。
「私はラスティ・ヴェスパー。アドラー中央直属治安維持組織アーキバス黒曜騎士団特務隊長だ。よろしくお願いするよ、バレンフラワー女史」
短く、冷たく、それだけで十分だった。
アロラは言う。
「今回の目的は、奴隷商人が所有している荷物。つまり、あの遺跡にいる全ての奴隷の即時解放と身柄の引き取りです。
私は暴力は好みません。できれば平和的に済ませたい」
彼女は懐から一枚の書類を取り出し、ラスティへ見せる。帝国直属の正式な押印が輝いていた。
「これは帝国法に基づく強制収容解除命令。彼らに拒否権はありません。ただし私は彼らを今すぐ殺すつもりも、逮捕するつもりもないんだ」
ラスティは怪訝そうに疑問をぶつける。
「……どういうことか、説明がほしいが」
アロラは静かに、しかし確実に告げる。
「奴隷商人は、帝国アドラーにとって“必要悪”です。下層社会の不満のはけ口、経済の闇の循環、貴族たちの娯楽……表社会が綺麗事を言うために、裏で必ず必要とされる存在」
眼科では、手足を鎖で繋がれ、同じ服を着せられた奴隷たちが地下遺跡に連行されている途中だった。奴隷達は涙を流しながら、絶望し、怯えて、奴隷商人達に従っている。
転んだ奴隷いた。その少女は奴隷商人に踏み潰されて、鎖で無理矢理立ち上がらせられる。
それを捕らえないと、アロラは言う。
「だからこそ、私は今夜、貴方たちを殺さない。殺せば、また新しい奴隷商人が生まれるだけ。組織ごと根絶やしにすれば、別の形で闇が再生する」
アロラの声が、少しだけ冷たくなる。
「私がやるのは“浄化”です。奴隷商人を皆殺しにするのではなく、奴隷を売る行為そのものを、帝国アドラーから完全に無意味なものにする」
彼女は指を一本立てる。
「方法は簡単。これから私が回収する奴隷たちは、全員、帝国が直接保護し、教育・職業訓練・身分保証を与えた上で、合法的な市民として社会に送り出す。それは同時に、奴隷商人の商品価値をゼロにする」
「不可能だろう。そんなことをしたら」
「大丈夫さ。もう始まっているから」
アロラは静かに告げた。
「この奴隷解放作戦は帝国全土で、同時に同じ作戦が進行中だからね。奴隷解放ネットワークの構築済みだ。一年後には、奴隷市場は売っても利益が出ない存在になる。私達粛清機関によって、奴隷の商売は経済的に死ぬ」
彼女は微笑んだ。それは、どこか哀れむような笑みだった。
「暴力で滅ぼすのではない。経済と法と教育で、彼らたちの存在意義を根こそぎ奪う。それが、私達のやり方」
静寂が落ちる。ラスティが静かに口を開いた。
「了解した」
彼は剣の柄から手を離す。
「私は護衛に徹しよう。交渉が決裂しても、奴隷の安全を最優先。商人への攻撃は、奴隷に危害が及ぶ場合のみに限定する」
アロラは小さく頷いた。
「ありがとう、ラスティ」
「具体的な鎮圧方法はあるのだろうか?」
「目標は地下遺跡。ロイヤルダークソサエティの奴隷商人が中にいる。奴隷はケージにまとめられている。奴隷の総勢は三十七人。その中に上物がいるらしい」
「上物?」
「純血エルフ。しかも王族の魔力反応。奴隷商人の連中は興奮していたよ。値段がつけられないってね」
ラスティの眉が、ほんの一瞬だけ動いた。
「交渉は貴方が担当ことで大丈夫ですか? 私は武力特化、護衛を最優先のスタイルで挑もうと思う」
「うん、大丈夫。お姉さんに従ってくれて嬉しいよ。正義と秩序の光にしては随分と慈悲深い作戦だからね。従ってくれるか心配だったんだ」
「命令ですから」
アロラはくすりと笑った。
「はいはい。さあ、始めましょうか。闇の浄化を」
鉄扉が軋みながら開く。地下遺跡をゆっくりと降りていく。中は数十年前に設置された薄汚れた蛍光灯がチカチカと点滅し、潮と汗と血の匂いが充満していた。
床には鎖が這い、壁際には檻のようなケージが並ぶ。そこに、数十人の奴隷たちが押し込まれている。人間、獣人、エルフなどの人類種が基本だ。
皆、虚ろな目で床を見つめている。
その最奥。
一人の少女が、鎖に繋がれたまま膝を抱えて座っていた。プラチナブロンドの髪は汚れ、かつての輝きを失っている。だがそれでも、腰を優に超える長さの髪は、まるで月光を紡いだように美しかった。透けるような白磁の肌は傷だらけで、しかし気高さだけは決して失われていない。
サファイアブルーの瞳は虚ろで、まるで魂が抜け落ちた人形のようだった。
エクシア・ザシアン。
古代エルフ王家の最後の末裔。彼女はゆっくりと顔を上げた。鉄扉が開いた気配に、かすかに反応しただけだ。地下遺跡の会議室。
その中央、粗末なテーブルを囲んで三人の男がいた。
ロイヤルダークソサエティの幹部たち。酒を飲み、笑いながら札束を数えている。
ゆっくりと音を立てながら歩いていって、アロラが一歩前に出た。
「夜分恐縮。荷物は全部引き取らせてもらうけど、構わないね。これが国からの正式な書類」
静かな、しかし絶対の声音だった。男の一人が顔を上げ、嘲笑う。
「こいつら殺すぞ」
男達がナイフを手にした次の瞬間、音もなく男の喉を貫いていた。血が噴き出し、テーブルに赤い花を咲かせる。ラスティは、いつの間にか男の背後に立っていた。
動いた瞬間すら、誰も捉えられなかった。
「交渉は決裂したようだ」
アロラがため息をつく。
「残念だね。でも、仕方ない」
銃声が鳴った。だが弾丸は空中で静止し、ぽとりと床に落ちる。アロラの気化させた血の防壁によって防がれたのだ。
「闇の諸君、光のよる審判の時だ」
「光? はっ、闇の方が強いぜ。無能の犬は黙って雑魚を捕まえてろ」
「認めたな、己が闇だと」
■協力強制・発動■
発動者側と対象者が同じ認識を抱いた瞬間に発動し、それに準じたルールや現象が発動する。この場合、ラスティが光、奴隷商人が闇と認めたことで『同じ認識』を抱いたことで、発動側のラスティの力が一気に増大する。
光属性を示す青と白の外套が翻る。次の十秒間、地獄だった。剣閃が走り、血が飛び、悲鳴が上がる。だがそれは一瞬のこと。すぐに静寂が戻った。残ったのは、血の海と、鎖の切れた奴隷たちだけ。
ラスティは静かに剣を納め、奥の奴隷を納めたケージへ歩み寄る。
「あ、増援」
「私が前へ出よう。そして奴隷達の壁に」
「壁扱いかー、お姉さん悲しいな」
アロラの緊張感のない言葉が響く。
裏口の扉を蹴破り、黒い戦闘服に身を包んだ二十名近い武装集団が雪崩れ込んできた。全員、首筋にロイヤルダークソサエティの蛇と薔薇の刺青。重機関銃、魔力強化ブレード、対魔導榴弾。
明らかに奴隷商人達の奴隷を確保するための武装部隊だ。
「目標確認! 黒曜騎士団のヴェスパーと粛清機関! 生け捕りは不要、即時殺害!」
先頭の男が咆哮し、銃口が火を噴く。刹那。倉庫全体が白い光に呑まれた。
ラスティ・ヴェスパーが、一歩だけ前に出た。
「油断せず、確実に潰していこう」
低く、静かな声。だがその瞬間、彼の全身から迸ったのは、純粋なまでに澄んだ「秩序の光」だった。漆黒の髪が逆立ち、瞳が灼熱の銀に変わる。
アーキバスの青と白の外套が無風で翻り、背後に巨大な光の円環が浮かび上がる。まるで夜明けそのものが倉庫の中に降臨したかのようだった。
「この場にいる全ての罪を、公正なる裁定をもって焼き払う」
魔力エネルギーが奔流となって周囲に広がる。床の遺跡石が熱でひび割れ、霧が一瞬で蒸発する。最初の銃弾が飛んできた。だが、光の膜に触れた途端、溶けて消えた。
次の瞬間、ラスティが動いた。一歩踏み込むたびに、純白の光の軌跡が残る。細剣すら抜かず、ただ右手を振るだけで、光の奔流が一直線に走り、先頭の三人が蒸発した。
肉体ごと、装備ごと、存在ごと。
「な、なんだありゃ……!?」
「魔力値が計測不能! 回避! 回避しろ!」
遅い。ラスティは静かに、しかし確実に歩を進める。そのたびに光が爆ぜ、武装構成員が次々と消し飛ぶ。銃弾も、榴弾も、魔導障壁も、すべてが光の前では紙のように無力だった。
「不正は正さなければならない。秩序は守らなければならない。貴方達はその外側に身を置いた。故に、ここで終わる。暴力によって討滅されるのだ」
声は静かなりせ静かだった。怒りではなく、ただ「当然の結末」を告げるような、冷たく澄んだ響き。
光が収束する。
ラスティの背後に、巨大な光の剣の幻影が顕現した。
長さは十メートルを超える。
純白の刃は、まるで世界を裁く天秤の剣のようだった。
『正しき怒りと無垢なる刃/ジャッジメント・オーダー』
一閃。地下遺跡の会議室の天井が吹き飛び、夜空に巨大な光の柱が立ち昇る。二十名の武装構成員は、跡形もなく消滅した。残ったのは、焦げた床に刻まれた円環の紋様だけ。
光が収まり、静寂が戻る。
(うーん、若い。彼の所属する治安維持組織は捕まえるまで。裁くのは別なんだけどねぇ。溢れる正義と秩序、光属性へメンタリティをここまで現実に持ち出すのは尊敬するけど、ちょっと極端過ぎるんだよね)
ラスティはゆっくりと振り返った。
銀の瞳はすでに元の黒曜石に戻り、表情は変わらず静かだった。
「……怪我は?」
アロラが、呆れたように息を吐く。
「君、本当に護衛に徹するって言ったよね?」
「奴隷に危害が及ぶ状況だった。必要最小限の対応だと思いますが」
彼は外套の埃を払い、奥にいる奴隷たち。特にまだ立ち上がれないエクシアの前へ歩み寄る。光の残滓が、まだ彼の周囲で小さく煌めいていた。
エクシア・ザシアンは、まだ膝をついたまま動けずにいた。長い睫毛が震え、サファイアブルーの瞳が、まるで壊れた万華鏡のように光を乱反射している。
焦点が合わない。
呼吸が浅く、速く、まるで溺れているかのように。彼女の脳裏に焼きついたのは、あの瞬間の一閃だけだった。漆黒の髪が逆立ち、銀の瞳が世界を裁くように輝いた姿。
背後に広がった純白の光輪。
十メートルの光の剣が夜を裂いた一撃。
すべてがあまりにも完璧で、あまりにも絶対で、あまりにも神々しかった。長い監禁の日々。
暗い檻の中で、いつ終わるとも知れない絶望。
肉体に刻まれた無数の傷と、魂に刻まれた諦め。
すべてが、あの光の前では塵のように吹き飛んだ。ああ、これが……これが救いというものなのか。
彼女の思考は、もうまともに繋がらない。ただ、繰り返されるのはたった一つの感情。
この人以外、何もいらない。
(この人だ。この人が、私の運命。私の救世主)
「……は……あ……」
掠れた息が漏れるたび、彼女の体が小刻みに震えた。鎖の跡が残る細い手首から、ぽたぽたと血が落ちる。それでも痛みなど感じない。痛みなど、もうどうでもいい。エクシアは這うようにして前に進んだ。指先が床を掻き、爪が剥がれても、止まらない。
ラスティがゆっくりと歩み寄る。ブーツの音が一つ一つ、彼女の鼓膜を直接殴るように響く。
止めて。
もっと近づいて。
触れて。
どうか、私を見て。
彼女は必死に顔を上げた。
涙で視界が滲んでいる。
それでも、確かに見えた。
黒曜石の瞳。感情を排した、しかしどこまでも澄んだ美貌。まだ微かに光を帯びた輪郭。
(ああ、私だけの救世主)
エクシアの体が、びくりと跳ねた。
喉の奥から、掠れた声が零れる。
「……主……人、さま……」
その瞬間、彼女の中で何かが完全に崩壊した。
自我の最後の壁が、音を立てて崩れ落ちた。彼女は両手を伸ばし、這いながら、這いながら、ラスティのブーツの先に、額を擦りつけるように押し当てた。熱い。まだ光の余熱が残っている。
それだけで、彼女の全身が震え、涙が止まらなくなった。
「私の……私の……すべて……どうか……どうか、私を……お側に……置いてください……」
声は震え、言葉は途切れ、ただただ懇願する。長いプラチナブロンドの髪が床に広がり、血と涙と埃で汚れていく。それでも彼女は離れない。離れられない。アロラは、少し離れた場所で静かに腕を組んでいた。
赤い瞳が、どこか哀れむように細められて、小声で呟く。
「光が強すぎた。ああいう子には、毒だよ」
だが、彼女は止めに入らない。ただ、静かに見守るだけだった。ラスティは立ち止まり、エクシアを見下ろした。わずかに眉を寄せる。だが、その表情に拒絶の色はない。彼はゆっくりと膝を折り、震えるエクシアの顎に、静かに指を添えた。
「静かに、ゆっくりと、体に負担をかけてはいけない」
その声が、彼女の脳髄を直接貫いた。エクシアの体がびくんと跳ね、涙が溢れる。ゆっくりと、ゆっくりと顔を上げさせられる。焦点の合わない瞳。
蕩けた表情。
頬は涙で濡れ、唇は震えている。
「君の名前は?」
問われた瞬間、彼女は必死に言葉を紡ごうとした。
「……エク……シア……エクシア・ザ……シアン……これより……あなたの……ものです……」
声は掠れ、ほとんど息になっていた。それでも、確かに届いた。彼女は震える手で、ラスティの指に自分の頬を擦りつけた。まるでそれだけで生きていける、と言わんばかりに。
「どうか……どうか私を……捨てないで……私はもう……あなた以外……何も……」
涙が止まらない。
嗚咽が漏れる。だがその瞳に、狂気的なまでの光が宿っていた。信仰。それも、極端なまでに純粋な、絶対的な信仰。ラスティは静かに立ち上がった。そして、エクシアの手を取る。
エクシアは立ち上がろうとして、膝をついた。長い監禁で足が痺れ、力が入らない。ラスティは無言で、剣を振るう。鎖が断ち切られる音。金属が床に落ちる乾いた音。
「ゆっくりで構わない。君の命は私が保障する」
エクシアはゆっくりと顔を上げた。
初めてしっかりと見る人間の顔。
黒曜石のように深い瞳。
整いすぎて、どこか非現実的な美貌。その瞳に、確かに何かが映った。
「……貴方の、お名前を」
掠れた、ほとんど声にならない声。ラスティは静かに言う。
「ラスティ・ヴェスパーだ。大丈夫。もう、大丈夫だ」
安心させるように何度も言葉をかけて自分の外套を脱ぎ、少女の肩にかけた。まだ温もりの残る布が、震える体を包む。
「もう、大丈夫だ」
大丈夫。
それだけの言葉。だがエクシアの瞳に、確かに光が灯った。彼女は震える手で、外套の裾を掴んだ。それだけで世界が繋がったかのように。
その一言で、エクシアの顔に、狂おしいほどの笑みが浮かんだ。
「はい……! はい、ご主人様……!」
彼女はよろめきながら立ち上がり、ラスティの腕に、必死にしがみついた。もう離さない。
たとえ世界が滅びようとも。
たとえ自分が壊れようとも。この温もりを、この光を、永遠に、永遠に、独占する。
霧が再び地下遺跡を包み込む頃。
エクシア・ザシアンは、もう完全に生まれ変わっていた。かつての気高さは、ただ一人の男に向けた、狂おしいまでの忠誠へと、完全に塗り替えられたのだ。
アロラは他の奴隷たちを誘導したり、治療しつつ、『光に焼かれた者達』を見て、アドラーに対する脅威が増えたのを実感した。