R-15
死の灰
次の日の告別式のことはあまり記憶にない。二日も連続して大人を演じるのは想像以上に悲しい。ただ、最期のお別れだけはきちんとした。
棺に弟の好きだったおもちゃをたくさん入れてあげた。あたしが宝物にしている安物のジュエリーも入れた。これはねえたんの身代わりだよ。これをねえたんだと思って大事にしてね。天国に逝ったらそれをつけてね。あたしもすぐにそっちに逝くから少しの間だけ待っていてね。
いよいよ岳人の身体が焼かれるときがきた。それは堪えがたい苦しみなのだがあたしはこの子の姉なのだ。この世にたったひとりの姉で、両親よりも弟に近い、愛し合う存在なのだ。
あたしの身体のふたつの穴からなにかが流れ出ようとしていた。ひとつは涙。だけど、あたしが泣いてはいけない。岳人が天国に逝けなくなるから。もうひとつは口からゲロが出そう。いくら死んでいるからといって人の身体を焼いていいものだろうか。愛おしい岳人の姿を見て吐き気がするなんてあたしはナニカが壊れたままなのだろう。
「さようなら。」
家族で順番に最期のお別れをしたけれど、あたしは両親より先にお別れを済ませた。最後にしなくて良かったのかって?いいの。もうこれ以上岳人の顔を見るのも辛かったから。岳人が目を覚ましてしまうのではないかと疑ったから。それは良いことではないの。死んだ人間は甦ったりしてはいけない。それは決まりごとなのだから。おそらくそらがそう決めたのだろうから。
みなが見守る中棺の岳人を顔を覗く為の窓が締められた。これでいいのか。まだ、なにか弟に伝えることがあったのではないか。思わず足が一歩を踏み出そうとしたけれどなんとか止まった。棺は真っ暗な炉にいれられたが、数分もしないうちに炉の中は明るい橙色に染まる。
それから一時間半後。岳人は帰ってきた。再び棺が開けられてもお父さんもお母さんも近付こうとしない。躊躇っていたのだろう。あたしは普段よりも歩幅を大きくして堂々と近寄った。別に度胸があったわけではない。ただ早く弟を見てあげないと気の毒な気がしたのだ。
死の灰とわりかし大きな骨が同じくらいの割合で散らかっている。これからはこれが岳人の姿なのだ。想い出の中にある元気に走る周る姿はもう、過去のもので今日からは白い骨を愛してあげなければならない。灰であっても、骨であっても目の前にあるのがあたしの大切な弟なのだ。
純白とは決して言えない。白とは美しい色だと思っていたけど、怖ろしい色である。死に絶えた者はすべからず白くなるのだ。黒や赤の方がずっと生命力がある。闇や血は悍しいけれど、それでも命の力強さがある。白は無力だ。
骨壺に岳人の骨を移し替え、それをあたしが抱えて我が家に帰った。骨を扱ったときに誰にもばれないように小さな欠片を取り出し、それを飲み込んだ。
自宅の和室の仏間に壺を納めた。そのとても簡素な空間が一時的な岳人の居場所になるのだ。飾っている写真は一年前のもの。夏に家族で遊びに行ったときのものだとはっきり覚えている。
白いポロシャツに麦わら帽子。あの子のお気に入りの恰好だ。写真には納まりきらないくらいの笑顔で、大きなピースサインを作っていた。この世にこんなに可愛らしい遺影が存在するだろうか。しばらく遺影を眺めた。あの子が生まれてきた日から、つい先日まで楽しそうに身体を動かしていた日まで想い出は溢れて止まらない。
なぜあの子が死ななければならなかったのだろう。あたしの命では物足りなかったのか。それともあの子もデッドのような悪魔に憑依をされていたのだろうか。悪魔もそらもあまりに理不尽だ。この世には死んでもいい人間なんていくらでもいるだろう。もちろん、あたしを含めて。なぜ、そんな者を残して清く生きているあの子の魂を奪うのか。なぜ正しい審判を下さないのか。
親族達はそれぞれに帰っていく。家族三人だけが残された家の空気は異常に重たく、冷えて、静かだった。あたしは今日も晩御飯も食べずに自分の部屋に籠ることにした。
そんなことをしなければいいのに、岳人の部屋に足を踏み入れる。いつもと変わらずおもちゃや絵本が散らかっている。あたしも岳人と同じくらいの歳の頃は、ちゃんとお片付けをしなさいとお母さんに怒られていたものだ。だけど、
岳人は殆んど怒られることがなかった。お母さんの顔色を伺って怒られる前に、
「ぼく、いい子だからこれからちゃんとお片付けするね。」
と言ってお母さんをいなすのだ。口だけじゃない。きちんとお片付けするのだ。そうしてからお母さんを部屋に招いて、綺麗になったでしょうと笑顔で知らせるのだ。
そのときに見せる笑顔は得意気でも自慢気でもない。部屋を綺麗にすればお母さんが喜んでくれると知っていたのだろう。そんな岳人を可愛らしいとお母さんは感じていたのだろう。だから、お母さんはやたらと岳人をしからない。でも部屋が綺麗なのは一時のことなのだ。すぐに弟は部屋を散らかす。おもちゃは遊ばれた場所にすぐに置き去りにされるのだ。
主がいなくなってしまったこの部屋を今度は誰が片付けるのだろう。
机の上の飾られた弟の顔を見ていたら涙がこぼれた。ずっと我慢してきたのに。肩肘に力を込めてきちんとした岳人の姉として振る舞おうとする気力が萎えた。
いつもの虚弱な小猿に戻ってしまうのを身体で感じた。岳人のベッドの上にある枕に顔を沈めて泣いた。両親に嗚咽が届かないように口と鼻を枕に押し付けて泣いたけど、小さな枕には納まりきらなかった。枕が使い物にならなくなると布団に顔を埋めるしかない。あたしが泣くべく場所はお通夜でも斎場でもない。あまりに長い時間を岳人と過ごしてきたこの部屋こそが等身大の自分でいられる小さな空間だった。