R-15
死は目の前にあるより遠くにある方が恐ろしく見えるのだ
ゆっくり気持ちを整えてからいつもより一時間程遅れて登校した。まずは、大葉先生に挨拶をしにいかなければならない。遅れてしまってすいませんでしたと。先生は職員室にいた。頭を下げて、謝罪をしなければならない。
「無理はするなよ。身体には充分気を付けるように。」
先生なりの気遣いなのだろう。ほんの数十秒程の言葉を交わして解放された。
それでも、あたしは毒づかずにはいられない。無理ってなんですか?みんな口にはしなくても多少の無理はしていますよ。身体に気を付けるってなにをどう心がければ良いのですか?あたしはあの先生が嫌いだ。好きではない人はいくらかいるけれど、憎らしいと感じる人はひとりしかいない。
教室に辿り着いたのは丁度一時間目の国語の授業が終わった頃合いだった。果歩ちゃんと美羽ちゃんは教室の一番後ろの窓際にいた。ここはあたし達三人の居場所。日当たりも良くて、風通しが良い教室の中で一等居心地の良い場所だ。
ここを独占する為に小さな努力を積み重ねた。あたしは常にこの場所に立っていた。三人一緒のときも、休み時間の僅かな時間も、放課後も。それを繰り返していると、ここには人が集まらなくなった。ふたりにおはようの挨拶をしたらすぐに二時間目の家庭科の授業の始まりを告げるチャイムが鳴った。女の先生が裁縫の仕方を訓導している。みんな退屈そう。もちろん、あたしも退屈だ。結婚することすら叶わないあたしには一番縁遠い授業のような気がする。
あたしは生きているうちに恋愛などすることがあるのだろうか。こんなに捻くれた性格をしているのに。そもそも恋愛ってなんだろう。亮君に焦がれる気持ちは恋愛だと言い切って良いものだろうか。小学生の頃から憧れは感じ続けている。強くて、逞しい存在だとは認識している。まるで太陽みたいに。ただ、これが恋心なのかと問い質されるとどう答えて良いのか分からない。
やはり今日は体調がすぐれない。動悸が続いている。自分の心音がやけに大きく聞こえる。幻聴や幻覚には慣れているが、身体の不具合はやけに落ち着かない。
病魔が身体に潜んでいるのであれば、しばらくは姿を現さずに隠れていて貰えないだろうか。あまりに気分が悪かったので、先生の了解を得て教室を出た。保健室に行ってきますと言ったけど、少し歩きたい。
死ぬことに大分恐怖を感じなくなってきた。しかし、相変わらず不安は大きい。静かに死ねればいいのだけれど、どんな形で死ぬのか分からないからね。自分の心に尋ねてみる。死ぬのが不安なのかと。
「違うよ。そうじゃない。」
なら、なぜこんなに不安なの。落ち着かないの。
「死が少しずつ近付いているからだよ。死は目の前にあるより、少し遠くに見える方が不安になるんだ。」
ゆえは随分落ち着いて答えた。
その通りかもしれない。死を受け容れることと、死に方を受け容れることはまったく違う。死を受け容れるのだから、死に方くらいはあたしの自由にさせて貰いたいものだが、そういうわけにはいかないのだろうか。
今日はもうおとなしく授業を受けるのは無理だ。そんな気分になる日があってもいいでしょう。受験を目前に控えているのなら、一分一秒無駄にせず机に向かおうと気力が増すのかもしれないけど、あたしの目の前にぶら下がっているのはそれじゃあない。
教室に戻ったときは理科の授業中だった。物理系の内容。丁度いい。あたしは物理が嫌いだ。なんの興味も抱かないのでずっと窓から庭を眺めていた。物理の世界で使われる標準状態というものが好きではない。そんな状態があるのならあたしを標準状態において欲しい。
突然、教室の前のドアが大きな音を立てて開いた。ドアを開けたのは大葉先生。鬱陶しい。静かな時間を邪魔しないで貰いたいものだ。普段から行儀も悪いし、品のない大人だけど今はいつも以上に落ち着きがない。
大葉先生は理科の先生に配慮する様子もなく大きな声を出した。大声で叫んだのはあたしの名前だった。
勘弁してくれ。なんだというのか。出来るだけあなたには係わりたくないんだよ。
「弟さんが小学校の帰りに事故にあって病院に。」
その言葉以外はなにも覚えていない。眠りかけていたあたしの脳は急激に目を覚ました。それでも出来ることは限られている。必死で自転車のペダルを回すことと神様に祈るだけだ。神様に問う。なぜ、岳人がそんな目にあわなくてはならないの。毎晩祈っていたじゃない。家族に不幸が起きるのであれば身代わりにあたしの身体を差し出すからそれで許して欲しいのだと。
信じていたんですよ。願っていたのですよ。神様の存在を。大袈裟な願いではない。差し出すものもあるのだから。今まで届いていなかったのであれば、今こそ聞いてくれ。岳人の無事を約束してくれ。あたしの命はもちろん、お父さんとお母さんの命を少し削っても構わない。だから、あの子にだけは不幸が降りかからないようにしてくれ。心の中で呟くより祈りが神様に通じると思って、あたしは声を出して神様に呼びかけた。だけど頭が煮えたぎっているから、いつのまにか神の名を呼ぶことしか叶わなくなっていた。
「無理はするなよ。身体には充分気を付けるように。」
先生なりの気遣いなのだろう。ほんの数十秒程の言葉を交わして解放された。
それでも、あたしは毒づかずにはいられない。無理ってなんですか?みんな口にはしなくても多少の無理はしていますよ。身体に気を付けるってなにをどう心がければ良いのですか?あたしはあの先生が嫌いだ。好きではない人はいくらかいるけれど、憎らしいと感じる人はひとりしかいない。
教室に辿り着いたのは丁度一時間目の国語の授業が終わった頃合いだった。果歩ちゃんと美羽ちゃんは教室の一番後ろの窓際にいた。ここはあたし達三人の居場所。日当たりも良くて、風通しが良い教室の中で一等居心地の良い場所だ。
ここを独占する為に小さな努力を積み重ねた。あたしは常にこの場所に立っていた。三人一緒のときも、休み時間の僅かな時間も、放課後も。それを繰り返していると、ここには人が集まらなくなった。ふたりにおはようの挨拶をしたらすぐに二時間目の家庭科の授業の始まりを告げるチャイムが鳴った。女の先生が裁縫の仕方を訓導している。みんな退屈そう。もちろん、あたしも退屈だ。結婚することすら叶わないあたしには一番縁遠い授業のような気がする。
あたしは生きているうちに恋愛などすることがあるのだろうか。こんなに捻くれた性格をしているのに。そもそも恋愛ってなんだろう。亮君に焦がれる気持ちは恋愛だと言い切って良いものだろうか。小学生の頃から憧れは感じ続けている。強くて、逞しい存在だとは認識している。まるで太陽みたいに。ただ、これが恋心なのかと問い質されるとどう答えて良いのか分からない。
やはり今日は体調がすぐれない。動悸が続いている。自分の心音がやけに大きく聞こえる。幻聴や幻覚には慣れているが、身体の不具合はやけに落ち着かない。
病魔が身体に潜んでいるのであれば、しばらくは姿を現さずに隠れていて貰えないだろうか。あまりに気分が悪かったので、先生の了解を得て教室を出た。保健室に行ってきますと言ったけど、少し歩きたい。
死ぬことに大分恐怖を感じなくなってきた。しかし、相変わらず不安は大きい。静かに死ねればいいのだけれど、どんな形で死ぬのか分からないからね。自分の心に尋ねてみる。死ぬのが不安なのかと。
「違うよ。そうじゃない。」
なら、なぜこんなに不安なの。落ち着かないの。
「死が少しずつ近付いているからだよ。死は目の前にあるより、少し遠くに見える方が不安になるんだ。」
ゆえは随分落ち着いて答えた。
その通りかもしれない。死を受け容れることと、死に方を受け容れることはまったく違う。死を受け容れるのだから、死に方くらいはあたしの自由にさせて貰いたいものだが、そういうわけにはいかないのだろうか。
今日はもうおとなしく授業を受けるのは無理だ。そんな気分になる日があってもいいでしょう。受験を目前に控えているのなら、一分一秒無駄にせず机に向かおうと気力が増すのかもしれないけど、あたしの目の前にぶら下がっているのはそれじゃあない。
教室に戻ったときは理科の授業中だった。物理系の内容。丁度いい。あたしは物理が嫌いだ。なんの興味も抱かないのでずっと窓から庭を眺めていた。物理の世界で使われる標準状態というものが好きではない。そんな状態があるのならあたしを標準状態において欲しい。
突然、教室の前のドアが大きな音を立てて開いた。ドアを開けたのは大葉先生。鬱陶しい。静かな時間を邪魔しないで貰いたいものだ。普段から行儀も悪いし、品のない大人だけど今はいつも以上に落ち着きがない。
大葉先生は理科の先生に配慮する様子もなく大きな声を出した。大声で叫んだのはあたしの名前だった。
勘弁してくれ。なんだというのか。出来るだけあなたには係わりたくないんだよ。
「弟さんが小学校の帰りに事故にあって病院に。」
その言葉以外はなにも覚えていない。眠りかけていたあたしの脳は急激に目を覚ました。それでも出来ることは限られている。必死で自転車のペダルを回すことと神様に祈るだけだ。神様に問う。なぜ、岳人がそんな目にあわなくてはならないの。毎晩祈っていたじゃない。家族に不幸が起きるのであれば身代わりにあたしの身体を差し出すからそれで許して欲しいのだと。
信じていたんですよ。願っていたのですよ。神様の存在を。大袈裟な願いではない。差し出すものもあるのだから。今まで届いていなかったのであれば、今こそ聞いてくれ。岳人の無事を約束してくれ。あたしの命はもちろん、お父さんとお母さんの命を少し削っても構わない。だから、あの子にだけは不幸が降りかからないようにしてくれ。心の中で呟くより祈りが神様に通じると思って、あたしは声を出して神様に呼びかけた。だけど頭が煮えたぎっているから、いつのまにか神の名を呼ぶことしか叶わなくなっていた。