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作者: konoyo
R-15
あたしは蝶になりたい
まったく有り難くない家庭訪問の日がやってきた。お母さんが気を利かせてケーキと珈琲を用意してくれたが、先生は手をつけようとはしない。それが大人の振る舞いなのかもしれないけど、無粋だと思った。

 まずは入学してからのあたしの生活態度や素行について語られた。誰とも分け隔てなく仲良くしており、明るい性格でクラスで中心的人物だと言う。いったい、どこをどう見ればそう受け取れるのか。この人の目は節穴なのか、それとも平気で嘘をついているのか。勘弁してくれ。お母さんが勘違いしてしまうではないか。

 成績も非常に優秀で、このまま努力を続ければ有名高校への進学も期待出来ると言う。その頃には、あたしは死んでいるよ。そんなことはもう信じていないのに、先生に悪態をつきたくて仕方がなかったのだ。
 
 一通り先生からの報告が終わったら、いよいよ夢の話になる。少しだけ冷や汗が出る。

「的間。ちゃんと書いておいてくれたか。先生とお母さんに見せてくれないか。」

 あたしは夢の用紙を差し出した。真面目に取り組んだつもりだが、少し委縮する。「将来のわたしの夢」という表題の用紙には、蝶と書き込んである。そう。花と花を行ったりきたり、空を美しく舞うあの蝶のことで間違いない。

 あたしはその紙から視線をずらすことが能わず。先生とお母さんの視線も動きも確認するのが怖かった。心の中で繰り返した。

「あたしは蝶になりたい。」

 沈黙を破ったのはお母さん。声は怒りとか恥じとか優しさを含んでいた。とても力強かった。

「優江。どうしてこんなことを書いたの。」

 首を持ち上げるとお母さんの複雑な顔色が映った。先生はまったく違う。哀れみの視線で見下ろしている。

 すぐに、ごめんなさい、とは言えなかった。唇を噛締めて必死で声を押し殺す。なぜ、先生はなにも言わないのか。卑怯ではないか。約束が違うではないか。応えがどんなに愚かしくても今度はあなたがなにか口にするべきではないのか。

 怒鳴られるならましだ。その覚悟もしていたのだし。沈黙の方が苦しい。先生とふたりきりなら、このまま黙っていられただろうけど不安そうなお母さんをひとりにはしておけない。

「ごめんなさい。今まで将来のことなんて真剣に考えたことなどなかったんです。懸命に考えてもなにも分からなかったんです。だけどこれからも真面目に考え続けます。そして、きちんと目標を持ちます。」

 紙を掴んでくちゃくちゃに丸めようとしたけれど、先生にそれを取り上げられた。

「的間、すまなかったな。ひとりで苦しい思いをさせて。お前の言う通りだな。未来の目標を持つとは難しいことだな。これから少しずつ経験を積んで先生と一緒にやりたいことを探していこうな。」

 これまで聞いたことのない優しい声で、優しい言葉をかけてくれた。思わず憎しみを忘れてしまいそうになるくらいに。

 お母さんが立ち上がって、申し訳ありませんと先生に頭を下げる。先生も立ち上がって、なにも謝ることではありませんよと頭を下げた。多分、先生はもうここにいてもろくな話にならないと判断したのだろう。だから立ち上がったのだ。

 我が家を出て行く先生を見送った。不思議なものだ。あんなに嫌いな先生が去っていくのが心細く感じる。なぜだろうか。お母さんとふたりきりになるのが悍ましいのだ。先生はあたしが未来に希望を持たないことを知っている。


 だけど、お母さんには驚くべきことで、残念に思われるかもしれない。殺伐とした空気に堪えられなくて、もう一度頭を下げた。お母さんはわざとらしく首を傾げた。

「どうして誤るの。なにか疾しいことでもあるのかしら。」

 お母さんは余計な気配をすべて消して、いつもの優しい声に戻っている。

「いいのよ。お母さんは優江の言うことが分かるわ。しっかりしていてもまだ中学一年生なんだものね。将来のことなんて今から決めつける必要なんてないわ。ゆっくり探しなさい。そんなことより、あなたが学校でお友達と仲良く元気にすごしていることを聞けて嬉しかったわ。それが一番大事なことでしょう。」

 思わずお母さんに抱きついた。そうすれば言葉にでは伝えられない本音を伝えられるような気がして。お母さんもしっかりと抱き寄せてくれた。
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