中華料理を食べに行こう
ジュエルソフトウェアからそう遠くない場所にある中華料理店に、冴川はチームメンバーと共に昼食に来ていた。
前回のファン感謝祭の埋め合わせという名目で、店は福田の提案だ。
「直島さん中華苦手って言ってましたけど、いつもカップ麺ですよね」
「すぐ食べて会議室でゲームしてるみたいよ」
「今日は土屋さんは来ないんですか?」
「紗和子ちゃんは最近自分でお弁当作ってるんだって」
月本と福田が話している。特に歓迎会ということでもなければ全員が集まるわけでもなく、外食派やコンビニ派など、皆それぞれ思い思いに休み時間を楽しんでいるということだろう。
「じゃあ今日は冴川君のおごりということで!みんな好きなの食べてね」
「全員分は勘弁してください、ということになったのではありませんでしたか」
容赦なく場を仕切る福田に反論するも、片付けも放り出して突然飛び出した負い目がある手前、強気には出づらい。
「私と月本君と野間ちゃんだけだし、いけるでしょ。まあ、どうしてもって言うなら考えないでもないけど……」
そう言って、いかにも今初めて気づきましたという体で彼女が指さした先に、『激辛麻婆豆腐丼 5辛まであります』と書かれた紙が壁に貼られている。更にその上には数枚の写真が貼られており、完食したであろう猛者たちの勇姿がそこにはあった。
辛い食べ物はけして苦手ではなく、割と得意な冴川だったが、あまりにも刺激が強くては午後の仕事に差し障る。むしろ、時間差で来るダメージのほうが場合によっては問題だ。
「あっ、こんなところに面白そうなメニューが!せっかく良いことあったんだし、一つ上野男を見せてくれるって話だったでしょ?というわけで、これに挑戦してもらおうかな」
わざとらしいやり取りを経て、福田から事前に聞いていた通り本題に入る。
「確かにそんな内容のやり取りをした気もしますが、その誤字は意図的ですか」
噂好きの福田には根掘り葉掘り尋問されたが、結果的に雪乃と会うことができたとだけ伝えてある。なんだかんだで祝福しているようにも、からかっているようにも思えるが、悪意は感じられないのが救いではある。
「僕は辛いの駄目なんですよ。チャーハンにしようかな」
「私は3辛が限界でしたので、少し辛さ控えめにしますね」
月本と野間が横でメニューを見ながら呑気に話している声が聞こえてくる。
午前中、福田が提案してきたのは激辛麻婆丼の完食だった。いつもであればただの無茶振りだと断っていたかもしれないが、何故か今日はあえて進むべきだと本能が告げており、成功しようと失敗しようと話のネタにはなるだろうと快諾したのだった。心なしか、ファン感謝祭の出来事を経てから日々の生活が大胆になっている気がしている。
「いいでしょう、受けて立ちましょう」
冴川は手を挙げて店員を呼び、それぞれが好きなものを注文する中、壁を指差し「激辛麻婆豆腐丼、5辛でお願いします」とはっきりと告げた。
「えっ、これ本当に辛いだよ、2辛がちょうどいいよ。あなた大丈夫?」
「大丈夫です」
直前にコンビニで買った牛乳を飲み、胃へのダメージに備えている。準備は万端だ。
「本当に辛いからね」
そう言って店員は厨房に戻っていった。
「なるほど、頑張りますね。骨は拾いますから存分に戦ってください」
2辛が丁度いいからと注文した野間が、冴川の背中を叩いて励ます。
冴川が目を閉じて深呼吸をしながら来るべき戦いに備えていると、先程の店員が険しい顔をしてこちらに向かってくる。
「お兄さん、これ本当に辛いよ!」
「ええ、望むところです」
3度目の確認をしにきた店員に、不敵な笑みで答えるのだった。
◆◆◆
「はいお兄さん、激辛ね」
そして運ばれてきた麻婆豆腐丼が目の前に置かれた。強烈な匂いが食欲をそそる。豆板醤にラー油と唐辛子だろうか、とにかく赤いというのが初見の印象だった。
細かく輪切りにされた鷹の爪も大量に入っているのが見える。刻みネギが彩りを添えるが、この刺激の中では正直あまり目立たなそうだった。
「うおっ」
そう言って、丼から匂い立つ蒸気を吸い込んでしまった野間が激しく咳き込む。
「匂いだけでヤバいですよ」
月本も顔をしかめている。
「本当に食べられるの?これは店員さんも三回確認するわ」
福田も自分から食べさせておいて、若干引いている様子がうかがえる。彼女にとっては冗談で笑い飛ばすにはあまりにも強烈な匂いだったようだ。
そんな三人の様子を意に介さず、冴川は淡々と戦いの始まりを告げた。
「では、いただきます」
まずは一口、レンゲで豆腐とひき肉、白米をバランス良くすくい、少し吹いて冷ましてから口の中に入れる。
旨い。その感想を持ったのもつかの間、直後にに強烈な唐辛子の辛みが口の中に広がった。
濃すぎる味付けなのは間違いないが、白米との相乗こうかはばつぐんだ。
「なるほど、これは確かに辛いですが、味自体は…悪くないですね。止まりません」
「辛いのを抜きにしても、これはご飯がススムくんですよ」
そう言って野間がボケながら二辛大盛りをものすごい勢いで平らげているが、今の冴川にそれを拾う余裕はなかった。
「冴川君大丈夫?めっちゃ汗出てるけど」
まだ食べ始めてすぐだというのに、顔が赤くなって汗が溢れてきているのが自分でもわかる。それでも手が止まらず次々とかきこむ。癖になる独特の味だ。
食べ進むに従って口の中が熱いのか辛いのか、もしくは痛いのかわからなくなってくる。その全てかもしれない。
「ええ、なかなか手ごわいですね」
本来、激辛料理の攻略はスピードが勝負なところがある。長引けば長引くほど、口内がダメージを受ける時間が長くなり、精神的にも消耗してしまう。
そうなる前に、短期決戦を仕掛けるのが彼のやり方だった。
「しかしここまでとは、一旦小休止を取らざるを得ませんね」
何口か食べたところで思わずコップを手に取り、水でなんとか流し込む。だが、飲み干したところでなにか違和感に気づいた。食べたときに感じたものとはまた違った酸っぱいような不思議な味が、口の中に残っている。
飲んだのはただの水のはずだ。
「この感じは……唐辛子だけではありません。なるほど、花椒(ホアジャオ)ですか」
大量の唐辛子と花椒の、辛さの二段構えが、この激辛麻婆丼を唯一無二のものにしていた。
「ねえ、本当に大丈夫?なんかめっちゃ辛(つら)そうだけど、無理しなくていいよ、なんかごめんね」
鬼気迫る表情と顔の色、汗を見て完全に引いてしまったのか、福田が優しい言葉をかけてくる。
「辛いし辛いですが、男には引いては、ゴホッ、失礼しました、引いてはいけない時があるんです」
むせながらも、自分で決めた道を進み切る覚悟を表明する。誰に褒められるためでもなく、ただ自身の心に従い、苦難に抗い続けるその姿は、確かに見る者を勇気づけるのだった。
「ですが、流石にこれは……!」
既に半分以上を食べ終えたが、それでもあまりの刺激に手が止まり、ただ痛みに耐える時間が続く。思わず顔が歪み、下を向く。
もしかすると完食できないかもしれない、そんな弱気の虫が顔を出す。
「冴川君、根性ありますね。こっちも結構美味しいですよ」
月本は相変わらずのマイペースだ。
「チャーハンを食べている場合ではありませんよ、今が一世一代の勝負の時とあれば応援しないわけにはいきません。頑張れ!君ならできる!」
既に食べ終えた野間が応援を始める。
「あとちょっとだ、がんばれ❤がんばれ❤」
「そういうの、いいですから」
急に応援モードに切り替えた福田にツッコミを返し、一旦水を飲み干し、腹を括る。
自分を信じてくれている人たちがいるから、逆境を乗り越える力が湧いてくる。萎えた心を奮い立たせ、再び戦場に赴く。
「一気に終わらせます……!」
痛みに耐えながら、残りの麻婆丼を流し込むという表現が相応しいほどの勢いで取り入れる。ある程度冷めて少し食べやすくなっているのが、希望を感じさせる。
(これは、行ける……!)
「いけますよ!ここ乗り切ればきっと『イセワン』100万ダウンロードいけます!」
今現在の苦しみとは全く関係ないが温かい月本の声援を聞きながら、レンゲを動かし続ける。もはや味わうことも忘れ、完食という一つの目標のための装置となり、ただひたすらに突き進む。
そして、最後の一口を確かに飲み干す。
「任務、完了――」
そう言って、空になった丼を傾けて3人に見せつける。そこには米の一粒さえ残っておらず、まさに激闘の末に掴んだ勝利の証だった。
「すごい、完食おめでとう!」
「えっ、まさか本当に完食したの、惚れてまうやろ!冴川君の分、私達で払うね!」
朝に話していた内容より、条件の良い申し出を受ける。それだけのことを成し遂げた、ということだろう。
「お疲れ様でした。君ならできると信じていましたよ」
それぞれが賛辞の言葉を口にする。未だに口全体から刺激が消えず、食道と胃も燃えているような気がする。まだまだ耐える時間は長引きそうだ。
テーブルの盛り上がりに気づいた先程の店員が、大きな声で冴川の激辛チャレンジ達成を告げる。
「お兄さん、すごいね。激辛完食いただきました!」
店中から感嘆の声が上がり、拍手に包まれる。
「ここまでとは予想外でした、二度とやりませんよ……!」
そう言いつつも、冴川は心からの達成感に包まれていたのだった。
◆◆◆
その後、夕方からのミーティングに現れない冴川を心配した桃山が、横に座っている野間に話しかけていた。
「賢のやつ、どうした?珍しいな」
「桃さん、どうか責めないでやってください。彼は全力で戦い切りました。立派な最期でした」
そう野間が答えたところで、桃山のスマホにメッセージが届く。
『もう少しかかりそうです、先に始めていてください』
「おいおい死んでないだろ、一体何かあったんだ」
「ええ、5辛を完食しました」
「なんだって?!あの5辛を?あの写真貼ってあるやつだろ?俺は1でもかなりキツかったし、その日ずっと腹下して大変だったわ」
桃山の驚きようは尋常ではない。どうやら以前に挑戦したことがあるらしい。
「やはりやる時はやる、根性あるヤツだったな。俺の目に狂いはなかった。惜しい人を亡くした……じゃあミーティング先始めてるか」
「だから死んでませんって桃山さん」
月本はそう言いながらも、5辛がどれほどすごいことなのかはあまりわかっていなそうである。
結局、冴川がやつれた顔をして戻ってきたのは、そのミーティングが始まって30分を過ぎたころだった。
前回のファン感謝祭の埋め合わせという名目で、店は福田の提案だ。
「直島さん中華苦手って言ってましたけど、いつもカップ麺ですよね」
「すぐ食べて会議室でゲームしてるみたいよ」
「今日は土屋さんは来ないんですか?」
「紗和子ちゃんは最近自分でお弁当作ってるんだって」
月本と福田が話している。特に歓迎会ということでもなければ全員が集まるわけでもなく、外食派やコンビニ派など、皆それぞれ思い思いに休み時間を楽しんでいるということだろう。
「じゃあ今日は冴川君のおごりということで!みんな好きなの食べてね」
「全員分は勘弁してください、ということになったのではありませんでしたか」
容赦なく場を仕切る福田に反論するも、片付けも放り出して突然飛び出した負い目がある手前、強気には出づらい。
「私と月本君と野間ちゃんだけだし、いけるでしょ。まあ、どうしてもって言うなら考えないでもないけど……」
そう言って、いかにも今初めて気づきましたという体で彼女が指さした先に、『激辛麻婆豆腐丼 5辛まであります』と書かれた紙が壁に貼られている。更にその上には数枚の写真が貼られており、完食したであろう猛者たちの勇姿がそこにはあった。
辛い食べ物はけして苦手ではなく、割と得意な冴川だったが、あまりにも刺激が強くては午後の仕事に差し障る。むしろ、時間差で来るダメージのほうが場合によっては問題だ。
「あっ、こんなところに面白そうなメニューが!せっかく良いことあったんだし、一つ上野男を見せてくれるって話だったでしょ?というわけで、これに挑戦してもらおうかな」
わざとらしいやり取りを経て、福田から事前に聞いていた通り本題に入る。
「確かにそんな内容のやり取りをした気もしますが、その誤字は意図的ですか」
噂好きの福田には根掘り葉掘り尋問されたが、結果的に雪乃と会うことができたとだけ伝えてある。なんだかんだで祝福しているようにも、からかっているようにも思えるが、悪意は感じられないのが救いではある。
「僕は辛いの駄目なんですよ。チャーハンにしようかな」
「私は3辛が限界でしたので、少し辛さ控えめにしますね」
月本と野間が横でメニューを見ながら呑気に話している声が聞こえてくる。
午前中、福田が提案してきたのは激辛麻婆丼の完食だった。いつもであればただの無茶振りだと断っていたかもしれないが、何故か今日はあえて進むべきだと本能が告げており、成功しようと失敗しようと話のネタにはなるだろうと快諾したのだった。心なしか、ファン感謝祭の出来事を経てから日々の生活が大胆になっている気がしている。
「いいでしょう、受けて立ちましょう」
冴川は手を挙げて店員を呼び、それぞれが好きなものを注文する中、壁を指差し「激辛麻婆豆腐丼、5辛でお願いします」とはっきりと告げた。
「えっ、これ本当に辛いだよ、2辛がちょうどいいよ。あなた大丈夫?」
「大丈夫です」
直前にコンビニで買った牛乳を飲み、胃へのダメージに備えている。準備は万端だ。
「本当に辛いからね」
そう言って店員は厨房に戻っていった。
「なるほど、頑張りますね。骨は拾いますから存分に戦ってください」
2辛が丁度いいからと注文した野間が、冴川の背中を叩いて励ます。
冴川が目を閉じて深呼吸をしながら来るべき戦いに備えていると、先程の店員が険しい顔をしてこちらに向かってくる。
「お兄さん、これ本当に辛いよ!」
「ええ、望むところです」
3度目の確認をしにきた店員に、不敵な笑みで答えるのだった。
◆◆◆
「はいお兄さん、激辛ね」
そして運ばれてきた麻婆豆腐丼が目の前に置かれた。強烈な匂いが食欲をそそる。豆板醤にラー油と唐辛子だろうか、とにかく赤いというのが初見の印象だった。
細かく輪切りにされた鷹の爪も大量に入っているのが見える。刻みネギが彩りを添えるが、この刺激の中では正直あまり目立たなそうだった。
「うおっ」
そう言って、丼から匂い立つ蒸気を吸い込んでしまった野間が激しく咳き込む。
「匂いだけでヤバいですよ」
月本も顔をしかめている。
「本当に食べられるの?これは店員さんも三回確認するわ」
福田も自分から食べさせておいて、若干引いている様子がうかがえる。彼女にとっては冗談で笑い飛ばすにはあまりにも強烈な匂いだったようだ。
そんな三人の様子を意に介さず、冴川は淡々と戦いの始まりを告げた。
「では、いただきます」
まずは一口、レンゲで豆腐とひき肉、白米をバランス良くすくい、少し吹いて冷ましてから口の中に入れる。
旨い。その感想を持ったのもつかの間、直後にに強烈な唐辛子の辛みが口の中に広がった。
濃すぎる味付けなのは間違いないが、白米との相乗こうかはばつぐんだ。
「なるほど、これは確かに辛いですが、味自体は…悪くないですね。止まりません」
「辛いのを抜きにしても、これはご飯がススムくんですよ」
そう言って野間がボケながら二辛大盛りをものすごい勢いで平らげているが、今の冴川にそれを拾う余裕はなかった。
「冴川君大丈夫?めっちゃ汗出てるけど」
まだ食べ始めてすぐだというのに、顔が赤くなって汗が溢れてきているのが自分でもわかる。それでも手が止まらず次々とかきこむ。癖になる独特の味だ。
食べ進むに従って口の中が熱いのか辛いのか、もしくは痛いのかわからなくなってくる。その全てかもしれない。
「ええ、なかなか手ごわいですね」
本来、激辛料理の攻略はスピードが勝負なところがある。長引けば長引くほど、口内がダメージを受ける時間が長くなり、精神的にも消耗してしまう。
そうなる前に、短期決戦を仕掛けるのが彼のやり方だった。
「しかしここまでとは、一旦小休止を取らざるを得ませんね」
何口か食べたところで思わずコップを手に取り、水でなんとか流し込む。だが、飲み干したところでなにか違和感に気づいた。食べたときに感じたものとはまた違った酸っぱいような不思議な味が、口の中に残っている。
飲んだのはただの水のはずだ。
「この感じは……唐辛子だけではありません。なるほど、花椒(ホアジャオ)ですか」
大量の唐辛子と花椒の、辛さの二段構えが、この激辛麻婆丼を唯一無二のものにしていた。
「ねえ、本当に大丈夫?なんかめっちゃ辛(つら)そうだけど、無理しなくていいよ、なんかごめんね」
鬼気迫る表情と顔の色、汗を見て完全に引いてしまったのか、福田が優しい言葉をかけてくる。
「辛いし辛いですが、男には引いては、ゴホッ、失礼しました、引いてはいけない時があるんです」
むせながらも、自分で決めた道を進み切る覚悟を表明する。誰に褒められるためでもなく、ただ自身の心に従い、苦難に抗い続けるその姿は、確かに見る者を勇気づけるのだった。
「ですが、流石にこれは……!」
既に半分以上を食べ終えたが、それでもあまりの刺激に手が止まり、ただ痛みに耐える時間が続く。思わず顔が歪み、下を向く。
もしかすると完食できないかもしれない、そんな弱気の虫が顔を出す。
「冴川君、根性ありますね。こっちも結構美味しいですよ」
月本は相変わらずのマイペースだ。
「チャーハンを食べている場合ではありませんよ、今が一世一代の勝負の時とあれば応援しないわけにはいきません。頑張れ!君ならできる!」
既に食べ終えた野間が応援を始める。
「あとちょっとだ、がんばれ❤がんばれ❤」
「そういうの、いいですから」
急に応援モードに切り替えた福田にツッコミを返し、一旦水を飲み干し、腹を括る。
自分を信じてくれている人たちがいるから、逆境を乗り越える力が湧いてくる。萎えた心を奮い立たせ、再び戦場に赴く。
「一気に終わらせます……!」
痛みに耐えながら、残りの麻婆丼を流し込むという表現が相応しいほどの勢いで取り入れる。ある程度冷めて少し食べやすくなっているのが、希望を感じさせる。
(これは、行ける……!)
「いけますよ!ここ乗り切ればきっと『イセワン』100万ダウンロードいけます!」
今現在の苦しみとは全く関係ないが温かい月本の声援を聞きながら、レンゲを動かし続ける。もはや味わうことも忘れ、完食という一つの目標のための装置となり、ただひたすらに突き進む。
そして、最後の一口を確かに飲み干す。
「任務、完了――」
そう言って、空になった丼を傾けて3人に見せつける。そこには米の一粒さえ残っておらず、まさに激闘の末に掴んだ勝利の証だった。
「すごい、完食おめでとう!」
「えっ、まさか本当に完食したの、惚れてまうやろ!冴川君の分、私達で払うね!」
朝に話していた内容より、条件の良い申し出を受ける。それだけのことを成し遂げた、ということだろう。
「お疲れ様でした。君ならできると信じていましたよ」
それぞれが賛辞の言葉を口にする。未だに口全体から刺激が消えず、食道と胃も燃えているような気がする。まだまだ耐える時間は長引きそうだ。
テーブルの盛り上がりに気づいた先程の店員が、大きな声で冴川の激辛チャレンジ達成を告げる。
「お兄さん、すごいね。激辛完食いただきました!」
店中から感嘆の声が上がり、拍手に包まれる。
「ここまでとは予想外でした、二度とやりませんよ……!」
そう言いつつも、冴川は心からの達成感に包まれていたのだった。
◆◆◆
その後、夕方からのミーティングに現れない冴川を心配した桃山が、横に座っている野間に話しかけていた。
「賢のやつ、どうした?珍しいな」
「桃さん、どうか責めないでやってください。彼は全力で戦い切りました。立派な最期でした」
そう野間が答えたところで、桃山のスマホにメッセージが届く。
『もう少しかかりそうです、先に始めていてください』
「おいおい死んでないだろ、一体何かあったんだ」
「ええ、5辛を完食しました」
「なんだって?!あの5辛を?あの写真貼ってあるやつだろ?俺は1でもかなりキツかったし、その日ずっと腹下して大変だったわ」
桃山の驚きようは尋常ではない。どうやら以前に挑戦したことがあるらしい。
「やはりやる時はやる、根性あるヤツだったな。俺の目に狂いはなかった。惜しい人を亡くした……じゃあミーティング先始めてるか」
「だから死んでませんって桃山さん」
月本はそう言いながらも、5辛がどれほどすごいことなのかはあまりわかっていなそうである。
結局、冴川がやつれた顔をして戻ってきたのは、そのミーティングが始まって30分を過ぎたころだった。