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作者: 矢賀地 進
私の名前は、冴川賢
 冴川は、即売会・コミックティアの会場を見渡し、けしていい匂いとはいえない独特の空気を吸い込みながら歩いていた。

(この空気、帰ってきた感じがするな。ま、良くも悪くもだけど)

 多くの人が、それぞれの好きを求めて行き交う。

(みんな、眩しいな)

 それが、冴川の素直な感想だった。

 皆、思い思いにそれぞれの場所で輝いている。売る側、買う側、もしくはその両方。ただ、それが好きだから、それだけの単純な理由で何かに本気で打ち込んでいる。その純粋さが羨ましくもあった。

 自身が選んできた道も、見方を変えればまた一つの正解かもしれない。それでも今日からは、自分に正直な生き方に少しでも近づきたい。

(さて、『サークルRK』はどこかな、と)

 SNSで改めて確認すると、今回の販売物について告知があった。

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サークルRK コミックティア1XX @Circle_RK_

新作は設定集のみ、体験版はまた次回になります。
その他旧作もあります!
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ハデス太郎 @hadesu_desu_

@Circle_RK_ あれ、頑張って作ったけど体験版はなし?
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 誰かがリプライしている内容に引っかかるものがあったが、ゲーム制作となると色々と大変なのだろうとあまり深くは考えずに、本来の目的地であるブースを目指すことにした。

 事前にメッセージもしていたが、やはりSNSの文字だけではなく、話して直接感想を伝えたい。そしてーー。

(まだメンバー募集中、だったよな)

 自分の出来ることで、人のために何かをする。仕事という形ではなくても、自分の技術があれば、なにかできることがあるのではないか。兄の言葉を思い出しながら、冴川は今まさにそのための新しい一歩を踏み出そうとしていた。

 ◆◆◆

 冴川が『サークルRK』のブースに近づくと、以前に一度即売会で話した青年がブースに居るのが見える。その横で、体格の良い大柄な男が話しているようだが、何か様子がおかしかった。どうも口論になっているような雰囲気だ。

(取り込み中か?)

 少しタイミングが悪かったかと、一旦周辺のブースでも見て回るかと踵を返したときに、何かが倒れて物が散らばるガシャンという大きな音を聞いた。

「俺が……体験版……無いんだよ!ふ……ベタベタしやがってっ……」

 振り返ると、ブースの机が倒れ、CDのケースと中身、設定集のコピー本が床に散らばっていた。細かい内容は聞こえないが、明らかに尋常でない男の様子に、突如冴川の頭の中にフラッシュバックする記憶があった。

 抵抗できない相手を、一方的に蹂躙する暴力。そして、それを止められなかった、弱かった自分。

 その時の匂い、映像が蘇り、古傷をかばいながらその場にうずくまる。ここにいるはずのない人の、助けを求める声まで聞こえてくる。

『痛い……たす……けて……』

(やめろ……やめてくれ……!)

 汗が吹き出し、鼓動が早くなっていくのがわかる。吐き気もしてきた。ここがどこなのかもわからなくなりそうになるが、なんとかギリギリのところで意識を保っていた。落ち着けと自分に言い聞かせ、深呼吸をする。

 何事か、叫んでいる声が聞こえる。

「誤解です、落ち着いてください!」

 気づくと、その男は馬乗りになり、右手にはカッターナイフが握られているのが見えた。

 その瞬間、思考がクリアになる。

 今日ここに来た目的。たかがゲームと言われても、一歩踏み出す勇気をもらえた。やっと本気で向き合えるかもしれないものを思い出せた。だから、その感謝を伝えて、自分のできる何かを始めなくては。そうしなくては、きっと今後も似たようことを繰り返す。自身の本心を偽り、失意のまま帰国する羽目になったのと同じようなことを。

 やるべきことは明確だった。周りを見回しても、誰もがあっけにとられて固まっている。瞬時に自分が行くしかないと結論付けると、冴川は危険も顧みず、自分より二周りも大きいその男に一直線に向かっていった。

(二度と奪わせはしない……!俺はまだ、何も伝えられていないんだ!)

 男を後ろから羽交い締めにして引き離そうとすると、抵抗して暴れた肘が顔面に当たってメガネが床に落ちたが、構わず全力で締め上げる。

「なんだてめえは?関係ねーだろ!」

「やめろおおおぉぉぉあぁぁ!!!」

 話し合っている余裕はないと、とにかく必死だった。気持ちで負けないよう声を張り上げる。常軌を逸した冴川の気迫に、男が一瞬ひるんだのがわかった。

「痛っ、やめろ、わかったから、やめてくれって!」

 それでも力を緩めず、声で威圧する。

「邪魔をするなあああああぁあぁぁあ!!!」

「ひー!助けて、痛い痛い、ごめんなさい!」

 男はあっさりと戦意を失い、カッターナイフが床に転がる。
 
 もはや加減というものを知らない冴川だったが、隙を見て抜け出した青年から「あの、僕はもう大丈夫ですから!」とかけられた声に我に返って手を放した。

 人が集まってきて騒ぎになりそうな様子を察したのか、男は冴川を振り払うと「覚えてろよ!」と小物臭のする捨て台詞を残して逃げていった。とりあえずの危機は去ったようだ。

 気が緩むと一気に痛みが戻ってきた。もしかするとどこか挫いたかもしれない。メガネを拾ってみたが、フレームが歪んでしまったようだ。

「ははは、ああ言って逃げていく人、本当にいるんですね。参ったな……」

 その青年は冗談めかして言うが、動揺の色は隠せておらず、どこか瞳にも生気が無いように冴川には感じられた。不幸中の幸いか、少し顔が腫れている以外に目立った怪我は無いようだ。

 床を見ると机が倒れて物が散乱している。呼吸を整えて机を立て直し、CDとコピー本を拾うのを手伝いながら、話をする。

「すみません、取り乱しました。大げさになってしまって。何事も、なければ、良かったです」

「いえ、こちらこそみっともないところを見せてしまって、すみません。助かりました。あの、もしかしてメッセージくれた方ですか?」

「ああ、はい、そうです。私の名前は……」

 冴川はその時なぜだか、ハンドルネームではなく本当の名前を伝えなくてはならない気がした。自分がかつて、雪乃に明かしたように。

「私の名前は、冴川賢です」

 そう名乗ると、その青年が「けん……さん?」と呟き、その目に生気が戻ったように見えた。

「ああ、ブログも読みましたよ!以前、一度お話ししましたよね?」

「ええ、覚えています。普段は、エンジニアをしています。あの、ただ、伝えたかったんです。感動して、私も頑張らなきゃって、だから、ありがとう。それと、なにか協力させてもらえないかなと」

 興奮も冷めやらず、いまいち要領を得ない言葉になってしまったが、それでも確かに気持ちは伝わったようだった。

「それは、ありがとうございます……僕は、月本亮太っていいます。前にちょっとだけゲーム会社でプランナーやってたこともあるんですよ。よろしくお願いします!」

 一瞬、どこか寂しそうな表情が見えた気もしたが、次の瞬間には月本が自然な笑顔で自己紹介を始めたのを見て、冴川は安堵した。

「ええ、こちらこそ」

 言いながら右手を差し出すと、月本もしっかりとその手を握り返してくれた。固く握手を交わしながら、この人なら自分を新しい世界に連れて行ってくれるのではないかと、二人でならどこまででも行けるのではないかと、冴川は根拠もなくそんなことを思った。

 ◆◆◆

 後日、月本からの『紹介したい人がいる』との連絡を受け、冴川は待ち合わせ場所に向かっていた。到着すると、既に月本の他にもう一人女性も来ているのに気づいた。

「お忙しい中すみません。あの、月本さん、この方が?」

「えっと、こちらはキャラクターデザインをしてくれてる文江先生です!」

「初めまして!冴川君かな?私、福田文江っていいます。文江って呼んでくれていいからね。こないだはごめんね、即売会は仕事で行けなくて。私が美人すぎるせいで、二人があんなことに……なんて罪な私……」

 芝居がかった言い方に戸惑ったが、さすがに自称するだけのことはある外見だなというのもまた正直な感想だった。

「あはは……」

 月本も呆れているのか、乾いた笑いが出ている。

 福田のことをあまりジロジロ見すぎないよう気をつけながら、「それは、この間の件ですか?」と冴川は問いかけた。

 自分が助けなければどうなっていたかわからない。果たしてそんなに軽く扱ってよい出来事だったかと多少の違和感を覚えたものの、当人は全く悪気はないようだった。

「うん、ちょっと思い込みの激しい人みたいで。月本君と私がやり取りしてたのが気に入らなかったみたい。人妻なのにね」

「まあでも、僕も実装を頼んでおいて体験版出さないのもちょっと悪いことしたかなって」

(え、人妻情報って今必要?しかも完全にスルーされた?)
 
 思わず心のなかでツッコミを入れる冴川だったが、月本は福田の扱いに慣れているのか、ごく自然に会話を続ける。

「でもさ、月本君が頼んだのと全然違うの出してきたんでしょ?」

「それはそうですけど……立ち話もなんだから、例の場所に移動しましょうか」

「そうだね、ちょっと歩くけど、冴川君もついてきてね!」

 なにかを企んでいそうな二人の気配に訝しみながらも、冴川は後に着いて歩いていった。
 
 ◆◆◆

(オフィスビルってことは、ここ、会社?)
 
 状況が理解できないまま連れてこられたビルに入り、エレベーターで上っていく。案内には『ジュエルソフトウェア』との文字があった。

「ではこちらのお部屋になりまーす、頑張ってね~冴川君!」

「ちょっと、文江さん、これは一体どういう!」

 文江と月本の二人がかりで、半ば無理やり会議室に押し込まれる。

「おう、二人共おかえり。じゃあ早速始めるか」

 中では、中年の男性が待っていた。

「どうも、はじめまして、桃山です。まあとりあえず座って。えっと、エンジニアで、アプリ開発経験もあるんだっけ」

「はい、そうですが、えっと、これは一体」

「面接だが。あれ、聞いてない?」

「え?いや、一応もう就職は決まってるんですが……ちょっと、二人ともどこ行くんですか!?」

(もしかして、ハメられた?)

 部屋の入口の方を見たが、二人は手を振ると扉を閉めて去っていってしまった。

「そうなの?だったら話だけでも聞いてってよ。じゃあ俺から軽く自己紹介と。桃山広太朗、ここジュエルソフトウェアで新規タイトルのディレクターを……」

 桃山と名乗った男が話すのを聞きながら、なぜだか心の底からの笑いがこみ上げてきた。もしかしたら、この人たちとなら、為すべきことを為せるかもしれないと。難しく考える必要はなくて、ただ直感に従えば良いのかもしれないと、冴川はそう素直に思った。

「くくっ……あはははっ」

「どした?」

(これくらいの状況楽しめなくて、良いゲームが作れますかってことだろ?)

 そういうことなら、流されるのもけして悪いことじゃない。先程までの戸惑いは既に無く、すぐに気持ちを切り替える。今は目の前の男に自分を知ってもらう必要があるのだと、それがやるべきことなのだと、そう心から思えていた。

 唯一の心配は、来週に迫った入社日までに、どうやって断りを入れようかということだけだった。

「いえ、失礼しました。あの二人、面白いですよね。では私も自己紹介を」

 そして、冴川は桃山に向けて自身の名前を告げた。
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