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作者: 京泉
草を抜いた、その先で。
 メイフィルド子爵邸の応接室に、午前の陽が射していた。

 その場に並ぶのは、私とエルンスト。そして、父──メイフィルド家当主、エドワード。
 背筋を伸ばし、まっすぐに私たちを見る父の眼差しは、いつになく静かだった。

 街の演奏会から一週間。
 その後すぐに、父のもとへ一通の書状が届けられた。
 差出人は──ハイベルグ侯爵家。
 私とエルンストの婚約を正式に申し込むという内容だった。

 けれど、その申し出には、もう一つの重要なことが記されていた。
 エルンストを、メイフィルド家の婿養子として迎えてほしいと。
 父は、手元の書状に一度だけ目を落とし、それを静かに机上へ戻した。
 視線を上げたとき、その眼差しはまっすぐエルンストに向けられていた。

「まず、確認しておきたいことがある」

 父の声は低く穏やかでありながら、言葉の奥に確かな重みを感じた。
 その響きに、応接室の空気がすっと張りつめる。

「侯爵家の人間が、我が子爵家に婿入りする⋯⋯本当に、抵抗はないのか?」

 父の問いは率直で、飾り立てた言い回しはなかった。
 だがそれだけに、問いかけの真意がまっすぐに伝わってくる。
 貴族社会における家格、名声、そして世間の視線。それらを踏まえた上での確認だった。
 エルンストは、静かに、はっきりとした声で答えた。

「はい。まったく問題ありません。私はハイベルグ侯爵家の次男であり、家を継ぐ立場ではありません」

 そして、迷いのない口調で続ける。

「私の選ぶ未来に、リアーナがいてほしいのです。身分や家名に左右されず、ひとりの人間として、彼女と歩んでいく道を望んでいます」

 その言葉に、父は短く息を吐いた。
 わずかに眉を緩め、目を細める。緊張が解けていくのが、私にもわかった。

「⋯⋯そうか。ならば、私から言うことは一つだけだ」

 視線を私へと移し、父はごく穏やかに微笑んだ。

「リアーナの父として、お前たちの選んだ道を、心から祝福しよう。──どうか、幸せになりなさい」

 その声に、胸の奥がふっと温かくなる。
 言葉以上に伝わってくるものがあって、私はそっと頷いた。

──────────────────

 父から正式に婚約の承諾を得て、私はまっすぐ二人のもとへ向かった。
 報告したいという気持ちが先に立っていたのかもしれない。気づけば足は自然と早まり、胸の奥が少しだけ高鳴っていた。

 アルフレッド殿下とロザリンがいる一角は、ちょうど日差しがやわらかく差し込む王宮中庭。遠目にその姿を見つけたとき、不思議と胸の奥に、確かな実感がわいた。

「リアーナ様!」

 ロザリンの駆け寄るでもなく、けれど心が弾んでいるのが伝わる笑顔。
 その柔らかな仕草に、私は自然と頬がゆるんだ。

「本当に、おめでとうございます。リアーナ様が幸せそうで、私も嬉しいです」

 涙がにじむほど喜んでくれていることが、心にまっすぐ伝わってくる。
 思わず、ぎゅっと手を握り返した。

「ありがとう、ロザリン。あなたにそう言ってもらえるのが、一番嬉しい」

 そしてもう一人──肘掛けに肘を乗せたまま、アルフレッド殿下が、ニヤリと口角を上げた。

「いやあ⋯⋯やっと決めたか。おめでとう、堅物」

 軽く笑うアルフレッド殿下の言葉に、エルンストは静かに目を細める。

「堅物が、自ら望んで誰かを選ぶなんて、国の記録に残すべき珍事だ」

 揶揄いの混じった声音。それでも、その眼差しはどこか柔らかかった。

「アルフレッド、少し黙っていてくれ」
「ははっ。こんな場で不機嫌とは頂けないな。祝ってやってるんだぞ?」

 エルンストは何も言わずに肩をすくめた。どうやら、本気で怒っているわけではないらしい。二人のやり取りには、長い付き合いならではの遠慮のなさが滲んでいた。

 アルフレッド殿下はふと視線を外し、窓の外に目をやる。

「エルンストが、誰かの手を取るときが来るとは。長い付き合いだけどその日が訪れるかどうか、正直、分からなかったよ」

 その言葉に、エルンストは眉をわずかに動かしただけだった。

「リアーナだから、そうなっただけだ」

 その声は、ことさらに強調されることも、飾られることもなかった。ただ、事実を淡々と述べただけの声音。けれどそれは、どんな愛の言葉よりも深く私の胸に届いた。

 アルフレッド殿下はふっと笑うと、口元に指を添えた。

「うん、僕はそれが嬉しいんだよ」
「⋯⋯アルフレッド、前に言っていたな。「リアーナを婚約者候補に選んだらどうする?」と」

 不意に向けられた言葉に、アルフレッド殿下は一瞬目を瞬かせた。

「ん? ああ、あれ? はははっ!」

 数秒の間を置いて、堪えきれぬといった様子で笑い声を上げる。そしてそのまま立ち上がると、呆れたように肩をすくめてみせる。

「エルンスト、まさかあれを気にしていたのか?」

 そして次の瞬間、ぱん、と乾いた音が室内に響く。アルフレッド殿下が軽くエルンストの背を叩いたのだ。

「あれは──お前があまりにも動かないから、ほんのちょっと、火をつけてやろうと思ったんだ」
「ちょっと、の気分で王族の発言を使うな」

 エルンストは僅かに目を細めるが、その口調に怒りはなく、呆れと諦めが混ざっていた。

「昔からそうだ。お前は、考えすぎて踏み出すのが遅い。⋯⋯で、結果としてチャンスを逃しかける」
「それを余計な一言でかき乱すのがお前の悪い癖だ」
「余計だなんて。おかげでこうして、動けたのだろう?」

 アルフレッド殿下はどこまでも戯けた口ぶりで言いながら、肘でエルンストの腕を軽くつついた。

「⋯⋯それは、否定しない」

 エルンストは吐き捨てるように言ったが、その頬にはほんのわずかな紅が差している。本人が気づいていないらしいのが、また面白い。

 それを見たアルフレッド殿下は、面白がるようににやりと笑った。

「ふふん、僕に感謝してもいいんだよ」
「アルフレッド──やっぱりお前⋯⋯わざとだったんだな」
「もちろん。でなきゃ何年もお前と付き合っていられないさ」

 その言葉に、エルンストはついにため息をつく。

「付き合ってるつもりはない」
「照れ隠し、照れ隠し。真面目で、律儀で、感情なんて脇に置いているような顔をしてるくせに──リアーナ嬢のことになると、視線は少しだけ緩むし、声の調子が柔らかくなる。そういうの、僕は見逃さないよ」
「そう見えていたのか」
「見えていたとも。誰よりもな」

 アルフレッド殿下は、今度はどこか穏やかな笑みを浮かべた。からかいの裏に、揺るぎない友情の気配が宿っている。

 エルンストはわずかに眉をひそめたまま、黙ってアルフレッド殿下を見つめ返す。けれど、その瞳に宿る光は怒りでも否定でもなかった。ただ、静かに受け止めるような、そんな色。

 やがて彼は、小さく息を吐き、わずかに目を伏せる。

「自分では、そんなつもりじゃなかったんだがな」
「うん、そういうところも含めて「らしい」んだよ」

 アルフレッド殿下の声は、もう冗談めいた響きではなかった。

「だけど、ようやく少しは、素直になれたみたいで安心したよ。ずっと──何かを置いてきたままでいる気がしてたから」

 その言葉に、エルンストの指がわずかに動いた。目を伏せたままの彼の横顔には、ほんの少し、陰が混じっていた。

「置いてきたもの、か。そうかもしれないな」
「それでも、今は違うだろ?」

 問いかけではない、静かな断言だった。

 そのまま数秒の沈黙のあと、エルンストはゆっくりと顔を上げ、視線を未来へと向けた。

「ああ。違うな。今は」

 その言葉は、ただ、心の奥にある確信を、そっと言葉にしたようだった。

 和やかな笑い声が収まるころ、私はそっと視線をエルンストに向けた。彼の横顔は変わらず穏やかで、けれどどこか──少しだけ照れているようにも見えた。
 きっと、こうして冗談を交わせる関係が、ずっと続いてきたのだろう。

──私は、まだ知らない。

 エルンストのことを、本当の意味ではまだ何も知らない。
 でも、これからは知っていける。少しずつ、彼のことを知っていけるのだと思うと、その未来が、静かに胸をあたためた。

──────────────────

 あの日、ロザリンとアルフレッド殿下に婚約を報告したときのことを、私は今も鮮明に覚えている。
 笑い合う声、冗談めいた言葉の中に隠れた祝福。
 それは、私たちの選んだ道をあたたかく照らしてくれた。

 そして今日。婚約披露の日。

 私は窓際に立ち、薄くカーテンを引いた外を見つめていた。
 いつも通りに息を整えようとしても、今日はなぜか胸の奥がざわついて、落ち着かない。
 ふと背後に気配を感じて振り向けば、そこにいたのはエルンストだった。

「緊張しているのか?」

 その問いかけに、私は小さく頷いた。

「少しだけ⋯⋯」

 私の言葉に、エルンストはわずかに口元を緩めた。けれどその微笑みは、どこか遠くを見るような翳りを帯びていた。

「俺もだよ」
「えっ、エルンスト様も?」

 思わず聞き返すと、彼はゆっくりと視線を落としながら、静かに頷いた。

「婚約を公にする。たったそれだけのことなのに、これほど重く感じるとはな」

 その声には、戸惑いと、わずかな迷いが混ざっていた。普段の彼からは想像もできないほど、正直な声音だった。

「俺はずっと、ハイベルグ侯爵家の次男として生きてきた。兄は立派で、家族も温かい。それでも備えとして見られていた。言葉にされずともわかるんだ。兄に何かあったときの「代わり」。そうでなければ、自分がいる理由なんてないと、どこかで思い込んでいた」

 その横顔は淡く射す光に照らされ、静かに揺れていた。

「備えである間は、自分で選ぶ必要も責任を負う必要もなかった。ただ与えられたことをやればいい⋯⋯それだけの存在だった」

 私は、静かにその言葉を噛み締める。
 これまでの彼の言動の端々に見えた理知的で冷静な態度の裏に、そんな思いがあったのだと、今ようやく気付かされる。

「アルフレッドは、ずっと見ていたと思う。俺が備えとして立ち回ることで、自分を守っていたことも──誰にも期待されない立場でいる方が、楽だったことも」

 エルンストは静かに、けれどどこか照れくさそうに続けた。

「だから、あいつは時々、わざと余計なことを言って来ていた。俺が誤魔化して生きているのを分かっていたからだろうな」

 思い返すように目を細めたその顔には、憎まれ口を懐かしむような、微かな笑みが浮かんでいた。

「俺が誰かの代わりでいる方が気楽だと、自分に言い聞かせていたことにも」

 エルンストとアルフレッド殿下との長い関係性を想い、どこか胸の奥がざわついた。
 私の知らない時間と関係が、確かにそこにある。

 私は嫉妬していると気付いて慌てて目を伏せる。
 けれど、その一瞬の戸惑いを、エルンストは見逃さなかったらしい。

「⋯⋯リアーナ、今、少しだけ睨んだだろう?」

 ふいにそう言われて、思わず顔を上げる。
 エルンストは、ほんの僅かに唇の端を上げていた。真顔のままなのに、どこか嬉しそうに見えるのが悔しい。

「睨んでなどいません。ちょっとだけ、アルフレッド殿下に嫉妬したの」

 そう言いながら、私は視線を逸らす。
 恥ずかしさと、自分の感情に気付かれてしまった照れ隠し。

「俺がこうして本当の意味で変わろうと思えたのは、リアーナと出会ってからだ」

 そっと顔を上げると、彼の視線がまっすぐに私を見ていた。

「リアーナと出会って、自分の意志で選ぶことを知った。君と生きる未来を選ぶなら、備えなんて言い訳はできない。責任とは重いものなんだな」

 その言葉に、私は胸の奥がじんと温かくなるのを感じた。
 けれど、ふと込み上げてきた思いが、口をついて出た。

「でも⋯⋯エルンスト様は、今までも責任を背負ってこられたと思います」

 エルンストが小さく眉を寄せた。驚いたような、戸惑ったような表情。
 私は視線を彼に向けたまま、ゆっくりと続ける。

「たとえ備えとして育って来たとしても、エルンスト様は常に自分の立場を理解して、何が求められているかを考え、動いていた。その姿勢は、決して気が楽なだけのものではなかったと思います」

 少しだけ、彼の瞳が揺れた。

「私は、そういうエルンスト様の背中に惹かれたの。誰かのために黙って責任を果たそうとする姿に。誰の代わりでもない、エルンスト様自身の歩き方に──心を掴まれたの」

 エルンストは黙って私を見ていた。
 けれど、そのまなざしはやがて静かにほどけて、微かな光を宿す。

 エルンストがずっと背負ってきたものを、私はすべて知っているわけじゃない。
 けれど──これから、少しずつ知っていきたいと思った。

 彼が過去にどう生き、どんな思いを抱いてきたのか。
 そして、これからどんな未来を見ていくのかを──共に歩む者として、見つめていきたいと、そう思った。
 
「ありがとう、リアーナ」

 小さく呟かれたその一言は、長く張りつめていた彼の心の糸が、ようやく緩んだ証のように思えた。

 そんなとき──控室の扉が、控えめにノックされた。

「リアーナ様、失礼いたします」

 その声を聞いて、私の表情が自然とゆるむ。
 扉が開き、入ってきたのは私の世話係、アミだった。
 アミは両手に小さな花束──カランコエのブーケを抱えていた。

「これを、お持ちいたしました」
「これはカランコエ?」

 目に映ったその花々は、色とりどりの小さな花をぎゅっと咲かせていて──どこか懐かしいぬくもりを感じさせた。
 アミは、そっと私の手にブーケを渡しながら微笑む。

「リアーナ様が草を抜いた庭の一角。あの場所に、このカランコエを植えたのです。リアーナ様がほんの少しでも、心が軽くなりますようにと」

 言葉にならない思いを、土に触れることで昇華していた、あの時間。
 アミは私が言葉にできなかった想いに、そっと寄り添ってくれていた。

「ありがとう、アミ⋯⋯」

 声が震えないようにするのが精いっぱいだった。

 アミは小さく首を振る。

「カランコエは奥様──リアーナ様のお母様がお好きだった花なのです」
「お母様⋯⋯が」
「きっと、ご一緒に、祝福しておられますよ」

 その言葉が胸に沁みて、私は小さく目を閉じた。
 ブーケからふわりと立ちのぼる草の匂いと、カランコエの淡い香りが、どこか昔の記憶と重なっていた。

 エルンストが黙ってその様子を見守っていたのにも気付いていた。
 でも今は、それ以上の言葉はいらなかった。

 ブーケをそっと胸に抱いたまま、私はもう一度、エルンストの隣に並んで立つ。
 深く息を吸う。花の香りが、静かに胸の奥をくすぐった。

──あの頃、私はただ、心を落ち着けたくて草を抜いていた。

 誰かのためでも、何かの目的があったわけでもない。整った土を見つめながら、胸のざわめきをどうにかしたくて、静かな時間の中に身を置いていた。ただ、それだけだった。

 あのとき抜いた草の跡に、花が咲いてくれるなんて。

 カランコエのブーケは、あの時間が私には意味のあるものだったと、そっと教えてくれている気がした。

「さあ、リアーナ様お時間ですよ」

 アミの声に、私はゆっくりと深呼吸をひとつ。
 エルンストが、手を差し出してくる。私は迷わず、その手を取った。それだけのことが、どうしてこんなにも、胸に沁みるのだろう。

 エルンスト並んで、一歩ずつ歩く。
 扉の向こうには、人々の視線が待っている。名を問われ、立場を示される場。けれど今は、緊張はあっても不思議と怖くない。
 隣のエルンストを見上げて──ふと、笑みがこぼれた。

「何を笑っている」
「少しだけ、幸せだなって」
「少しだけ?」

 からかうような問いかけに、私はそっと首を傾けた。

「じゃあ、たくさん。とても」

 エルンストは、わずかに息を吐いて笑った。
 その笑みが私を安心させてくれる。

「でも、本当はまだ緊張しています」

 ぽつりと呟くと、隣で歩くエルンストが目を細める。

「俺もだ」
「嘘、全然そうは見えません」
「君の前だからな。落ち着いて見える」

 笑い合いながら、足を止めずに歩いていく。

 誰かと並んで歩くというのは、こんなにも心強いものだったのだと、今さらながらに知る。

 カランコエが、小さく揺れる。
 あの土の感触も、風の匂いも、沈黙の時間も。自分で選び、歩いてきた道の先に咲いた花。

 きっとこれからも、いくつもの季節を越えて、私たちはまた新しい芽を育てていくのだろう。
 そしてそのたびに、過去の土を耕しながら、未来へと足を運ぶ。
 その先には、たぶん、思うようにいかないことも、戸惑うことも待っている。
 けれど、私は知っている。
 それでも、歩いていける。
 また草を抜きたくなったら、抜けばいい。
 土に触れたあのときの自分が、ここまで連れてきてくれたのだから。

 あの日々の静けさも、この手のぬくもりも、全部連れて、私は今を歩いていく。
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