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作者: 京泉
傷と裁きのはじまり。
 学園に向かう前にロザリンの家を訪ねたのは、快晴の日だった。
 王都の外れにある男爵家の屋敷は、手入れが行き届いており、庭に咲く花々が風に揺れていた。

 ロザリンはベッドにもたれ、顔色はまだすぐれないものの、微笑みを見せてくれた。

「リアーナ様⋯⋯来てくださって、本当にありがとうございます」
「無理をしないで」

 ロザリンの隣に腰を下ろし、そっと毛布の上から彼女の手を取ると、細くて、少しだけ指先が微かに震えていた。

「怪我の具合は?」
「左の足をひどく捻ってしまって。骨には異常がなかったそうですが、しばらくは安静にしていなさいと」
「よかった、大怪我じゃなくて」

 私が安堵をにじませると、ロザリンはほんの少しだけ視線を伏せた。

「リアーナ様、話しておきたいことがあるんです」

 彼女は静かに息を整えながら語り始めた。

「事件の日のことです。私は⋯⋯ 教室に向かう途中の階段で、ラリッサ様の取り巻きの方々に声をかけられたんです」

 その言葉に、私の胸がざわめいた。

「突然でした──その日は、なぜか、誰の気配もなくて、彼女たちが「ラリッサ様のご友人にしてあげてもいい」って」

 彼女たちがほんの少しだけ口元を歪めて、見下ろすように言う──その表情まで、ありありと想像できてしまう。

「私、はっきり断ったんです。リアーナ様に助けていただいた、あの時からリアーナ様まで標的になってしまった」
「ロザリン⋯⋯それは──」
「申し訳なかったんです。本当に。だから、もう逃げないって決めて⋯⋯それで断りました」

 そう言ったロザリンの顔には、悔しさと決意が同時に浮かんでいた。
 怯えたような影をかすかに残しながらも、それでもまっすぐに私を見つめようとするその目に、私は胸の奥が締めつけられるような感覚を覚えた。

「そのときでした。ラリッサ様が現れて⋯⋯笑ったんです。「自分がどれほどの立場かわかっていない愚か者ね」って。「逆らってどうなるか、身をもって知るといいわ」って……」

 そこまで語ったあと、ロザリンは顔をこわばらせ、眉を寄せた。

「それから⋯⋯身体が、ふっと浮いたような感覚があって──それから先の記憶が、曖昧なんです。気がついたら⋯⋯もう、下に倒れていて⋯⋯」

 あの、ラリッサの見下しを帯びた笑みが、目に浮かぶ。
 そして、ロザリンがその場にいたことの意味。その全てを、私は重く受け止めるしかなかった。

「ありがとう、ロザリン。話してくれて」
「リアーナ様⋯⋯」

 ロザリンの瞳には、まだ言葉にしきれない感情が揺れていた。
 私はその手をそっと握り返す。伝えられるものが言葉だけでは足りないとき、人は触れることで想いを渡すのだと知っていた。

「無理はしないで。今は、ゆっくり休んで」
「はい。リアーナ様も、どうかお気をつけて」

 扉を閉めるとき、ロザリンがベッドの上で小さく頭を下げるのが見えた。

 男爵家をでて、私はゆっくりと深呼吸をして待たせていた馬車に乗り込む。
 車輪が静かに回り始め、窓の外の景色がゆっくりと流れていく。
 変わらないはずの日常が、今はどこか遠く感じられた。

──────────────────

 学園の空気は、確実に変わりつつあった。

 ロザリンの事故をきっかけに、普段はささやき声で済まされていた噂が、次第にざわつきを帯び始めている。

 談話室では、「さすがにあれはやりすぎでは?」「もう誰も何も言えないの?」といった、今までになかった声が漏れていた。そこには、これまでの沈黙に潜んでいた不満や怒りが、ようやく表面に出始めたような気配があった。

 教室の隅では、ラリッサの名前が出ただけで、言葉が途切れ、重苦しい沈黙が広がる。誰もが口をつぐみ、目を伏せる。声をあげることのリスクを、肌で感じ取っているのだろう。

 私が歩く廊下でも、すれ違う生徒たちの視線が一瞬だけこちらに向けられ、すぐに逸らされる。けれど、その視線には以前のような敵意はなく、どこか怯えと戸惑いが入り混じっていた。まるで、今までの支配関係が揺らぎ、誰もがこれからどうすればいいのか分からなくなっているようだった。

 重苦しい空気に包まれた学園の廊下を歩くうちに、騒がしい声から逃れるように、私は図書室へ自然と足を向けていた。

 古びた扉を開けて中に入ると、ほのかに紙の香りが鼻をくすぐった。整然と並ぶ本棚、開かれたままの窓から差し込む柔らかな光。まるで学園のざわめきから切り離された小さな避難所のようだった。

 カーテンの揺れる奥の席に腰を下ろし、目の前の本に指を伸ばしかけた、そのとき──。

「今日は裏庭じゃないんだね」

 どこか戯けた調子の声に、胸の奥が微かに跳ねた。

 振り向けば、金髪をさらりと撫でつけたアルフレッド殿下が、いたずらっぽく笑みを浮かべて立っていた。そのすぐ後ろには、銀灰色の髪を整えたエルンストの姿。

 その姿を見た瞬間、胸の内にふっと、静かな応接室で、真剣な眼差しを向けられたことを思い出してどこか気恥ずかしくて、つい視線を逸らしたくなった。

 けれど、彼はいつものように穏やかで、礼儀正しく、けれど確かな温度を持った瞳でこちらを見ていた。

「⋯⋯ロザリン嬢の様子はどうだった?」
「残るような傷はないようです。しばらく安静にしていなさいと言われたそうです」

 そう告げると、アルフレッド殿下は肩をすくめて言った。

「そうか⋯⋯本当によかった。大事に至らなくて」

 安堵を含んだ声音だった。けれど、ふとその瞳に、鋭い光が差す。

「階段から、なんてさ。ああいうのは──笑って済ませられる話じゃないよね」

その口調は軽くても、言葉の奥には冷静な怒りが垣間見えた。

「とうとうやってはならない一線を越えたよね。学園の華から、学園の毒になるのは一瞬だ」 

 アルフレッド殿下は名は出さなかったけれど、その矛先が誰に向けられているのか──言われるまでもない。

 学園の華。誰もが持ち上げ、従っていた存在。
 その影にあるものに、ようやく誰もが気づき始めている。

「さすがにもう、放ってはおけないんだ。王子としても動かないと」

 アルフレッド殿下の瞳は軽やかに見せかけたながらも、しっかりとした意志を宿す選ぶ者の目をしていた。
 アルフレッド王子は少しだけ口元を歪めて、いたずらっぽく笑った。

「近日中に、ラリッサとグレイ公爵を王宮に呼ぶつもりさ。君とロザリンにも、怖いだろうが⋯⋯同席してもらうよ」

 一瞬、胸の奥がきゅっと縮むような感覚が走った。

「⋯⋯私たちも、ですか?」

 そう返した自分の声が、わずかに掠れていた。驚きと、それに混ざるように、どこか落ち着かない気持ちが込み上げる。

 王宮に呼ばれる──その響きだけで、背筋がひやりとした。
 そこは、ただの場所ではない。
 選ばれた者だけが立ち入る、特別な場。
 そして、そこで語られる言葉は、時に誰かの運命を決める。

「その場で何かを強要するつもりはないけどね」
「リアーナが不安なら、俺が隣にいる。それだけは約束しよう」
「おや? エルンストがそんな台詞を口にするとはね」
「⋯⋯言葉にしなければ、伝わらない⋯⋯のだろう?」

 その静かな言葉に、アルフレッド殿下が目を細め、片眉を上げた。

「ふうん⋯⋯君がそんなことを言うなんて、ずいぶん風向きが変わってきたんだね」

 口元にはいつものいたずらっぽい笑みを浮かべていたけれど、その目元がほんのわずかに揺れた気がした。
 軽く投げかけるような言葉の中に、どこか見守るような温度と、それに混ざるわずかな切なさがにじんでいる。

「いいんじゃない? 伝えようとする君の方が、俺は好きだよ」

 それは軽く投げかけたようでいて、長い付き合いだからこその、確かな信頼が感じられる言葉だった。

 ──そのやり取りを聞きながら、私は静かに息を吸った。

 今までは、見て見ぬふりをしてきたこと。
 触れれば傷つくと思っていたこと。
 でも、それでも目を逸らすわけにはいかない。

 アルフレッド殿下の瞳に浮かぶ強さ。
 エルンストの言葉に込められた優しさ。

 そのすべてが、私の背をそっと押してくれる気がした。

 王宮で、すべてが明かされる。

──ラリッサが背負うべき「責任」が、いま、問われようとしていた。
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