仮面の微笑と、裏に潜む声。
ダンスを終えた後のホールは、先ほどまでとは異なる熱を帯びていた。
緊張と期待が交差していた舞踏の時間が過ぎ、今は社交の空気が会場を包んでいる。演奏はやわらかく調和に満ち、壁際のテーブルには繊細なフィンガーフードと色とりどりの飲み物。生徒たちはグラスを片手に談笑を交わし、それぞれの立場に応じた距離感を保ちながら場を楽しんでいた。
けれど、周囲の視線は相変わらず私たちに注がれている。それが好奇からくるものなのか、称賛なのか、それとも敵意や猜疑を含むものなのかは、簡単に測れない。私とロザリン、そしてエルンストの三人が揃って行動していること自体が、すでに周囲には異様に映っているのだろう。
そんな中、一人の少女がグラスを手にこちらへ近づいてきた。
「リアーナ、様⋯⋯あ、あの、私」
声をかけられた瞬間、思わず身構える。
何気ないように見える動作だったが、彼女の足取りはどこかぎこちなく、手元に持ったグラスの赤い液体がゆらりと揺れていた。
「──あっ」
目の前で、グラスが傾いた。深紅の液体が、まっすぐ私のドレスに向かった次の瞬間。
すっと、影が何の躊躇もなく私の前に滑り込み、片手で少女の手首をそっと制し、もう片方の手でグラスの底を支えた。
その所作は滑らかで、けれど確実に、液体の一滴たりとも地面にこぼさなかった。
「──危ないな」
その動きがあまりに自然で、淀みなく、誰もが目を見張るような速さだった。
「⋯⋯エルンスト様」
私が名前を口にするより先に、彼はグラスをそっと持ち直し、にこやかに言った。
「慣れない場では、不意の事故も起こりやすい。気をつけたほうがいい」
微笑みを浮かべながらも、その瞳の奥には一切の笑みがなかった。氷のような沈黙をまとったその眼差しに、彼女は一瞬、息をのんだように動きを止めた。
「あ、ああ、申し訳あり、ませんっ⋯⋯わざとじゃ、ないんですっ。本当にっ申し訳ありませんっ」
彼女は私と目を合わせることなく、小刻みに肩を震わせた。
その言葉は震え混じりで、けれどどこか上ずっていた。
逃げるように去るその姿に私の胸にざらついた違和感が広がる。
わざとじゃない── 手の震え、目の泳ぎ方、そして、エルンストと目を合わせることすらできずに逃げるように去っていった背中。
彼女は誰かに「命令」されていたのだろうと。
「次から次へと⋯⋯」
「本当に⋯⋯どこまでやるつもりなんでしょうね。あの子、怯えていました」
ロザリンとエルンストがぼそりと呟く。
「ええ⋯⋯でも、失敗ね。おそらくこれで、誰かさん、の機嫌は相当悪くなると思うけれど」
私は、わずかに眉をひそめた。張り詰めた緊張に、ようやくわずかな終わりが見えかけたと思っていた。けれど、それは逆だったのかもしれない。律儀に次から次へと手段を放つほどに、あの人は追い詰められている──そういうことでもあるから。
そして、だからこそ。
何かが、もう一段階「動く」気がしていた。
「⋯⋯少し、控え室に戻ってもいいかしら」
ふと、そう言葉がこぼれたのは、気が緩んだからではなく、張り詰めた心と体に限界が訪れていたからだった。足元に微かな重さを感じ、視界がわずかに霞む。脳裏に浮かぶのは、椅子と、冷たい水と、そして静寂だけ。
「私もご一緒します」
「当然だ」
エルンストの視線は鋭い。周囲をさりげなく見渡しながら、背後の動きにまで警戒してた。控室に行くというだけで、誰かに付け狙われる可能性があることを、私たち全員が知っていた。
私たちは並んでホールを後にし、石造りの静かな回廊を歩き始めた。外の空気が混ざるこの廊下は、先ほどまでの熱気とは異なり、どこか冷たい。けれど、その静けさに、呼吸が楽になる。
控室へと続く曲がり角に差しかかった頃──微かに声が聞こえた。
エルンストはその瞬間、私とロザリンの腕を軽く取ると、ほとんど反射のような素早さで歩みを止め、壁際の柱の影へと私たちを導いた。
そこは、ちょうど死角になる位置だった。回廊を進んでくる者からも、角を曲がった先にいる者からも視線が届かない。
まるで最初からそこを選んでいたかのような、無駄のない動きだった。
「⋯⋯やっぱり、変よ。ラリッサ様のドレスには濃紺が入ってたけど、アルフレッド殿下には紫がなかったわ」
「大丈夫なの? 私たち、こんなこと続けてて」
「言われた通りに動いただけなのに。結果が出なかったら、全部私たちのせいってことになるわ」
「前はもっと余裕があったというか⋯⋯今は、失敗を許さない空気が強いわよね」
「でも、もう引き返せないわよ。ここまで関わったんだもの」
「それが一番怖いのよ。どこまで巻き込まれるのか、わからないから」
その声に覚えがある。ラリッサの取り巻きたちだった。
彼女たち焦りと不安をにじませながら、ざわついていた。普段の余裕ある笑顔は消え、眉根を寄せ、互いの顔色をうかがいながら声を潜めている。
「全部うまくいってないじゃないの! 何のためにやってるのよ、これじゃ⋯⋯」
その言葉を遮るように、コツ、コツと規則的なヒールの音が響いた。
「──そうね。何のために、かしら」
静かな声がその場を貫いた。
ラリッサは完璧な微笑を貼りつけたまま、ゆっくりと取り巻きたちに近付く。彼女たちは息を詰めたように背を正した。
「あなたたち、ご自分の役目を忘れたわけではないわよね?」
「い、いえ⋯⋯その」
震える声に、ラリッサの瞳が細くなる。
「うまくいかなかった? それは、結果が悪かったという意味かしら。それとも、やり方が雑だったという意味?」
彼女の声音には、冷たい棘が含まれ、取り巻きたちは言葉を詰まらせたまま、誰も返事ができない。
「自分の立場を理解していない子たちに、任せるべきではなかったのかしら」
そして、表情を崩さぬまま告げた。
「──わたくしは、グレイ公爵家の令嬢。王家を支える家の名を背負っているの。そんなわたくしの名を背負った行動で、顔に泥を塗ったのなら──責任を取ってもらう覚悟は、当然あるわよね?」
その場の空気が一気に冷え込む。取り巻きたちは顔を青ざめさせ、誰も声を上げられなかった。
その言葉は、「警告」であり、「脅し」でもあった。身分を傘にし、責任を部下に押しつける構図。それが、ラリッサのやり方。
思わず、私の喉元にまで息がせり上がる。言葉にならないまま、それが音として漏れそうになった──そのときだった。
「しーっ⋯⋯」
ふいに、後ろから耳元に吹きかけるような声と、人差し指が目の前に差し出された。
驚いて振り向くと、そこに立っていたのは──アルフレッド王子だった。
人差し指を唇に当て、少しおどけたように「静かに」と告げている。ロザリンも息を呑み、エルンストは僅かに目を細めたまま、王子を見やっていた。
アルフレッド王子は、冗談めかした笑みを浮かべながら、小声で囁くように言う。
「ここで声を出したら、全部台無しだよ。ね?」
その瞳は茶目っ気を含みつつも、どこか冷静で、すべてを見通しているようだった。
ラリッサと取り巻きたちは、間もなく会話を終え、ホールへと戻っていく。その背を見送ってから、アルフレッド王子がようやく口を開いた。
「驚いた? ごめんね、驚かせるつもりはなかったんだけど」
「いえ、でも、なぜアルフレッド殿下がここに?」
私の問いかけに、アルフレッド王子はどこか意味ありげに笑う。
「君たちの様子を見たくなってね。さっきのダンス、よかったよ」
その声に混じるものを、私はまだ読みきれない。
王子の視線が、ふと隣のエルンストに向いた。
「⋯⋯エルンスト。君、あんな扱いを受けても、よく冷静でいられるよね」
「⋯⋯慣れているからな」
エルンスト様の返答は、あくまで静かだった。
王子の表情がわずかに曇る。
「僕はね、彼女が君に対してずっと「自分より下」って態度を取っていたのが、本当に不愉快だったんだ」
その言葉に、エルンスト様は小さく肩をすくめるだけだった。けれど、私には分かった。王子のその言葉には、真摯な怒りが込められていた。
「君は、僕の側近である前に、友人なんだよ。主従だからって、何を言ってもいいと思ってるような人に、僕の隣にいてもらいたくはない」
静かな声だった。ラリッサがエルンストに対して普段から滲ませていた見下すような態度──それを、アルフレッド王子は見逃していなかった。
「⋯⋯婚約者候補としてのふさわしさを、今後再考しなきゃならないかもね。僕自身の意思として」
断定ではなかった。けれど、そこには確かに、変化の兆しがあった。
ラリッサ・グレイという存在が、王子のそばにいることが当然ではなくなりつつある──その予感だけは、確かに感じられた。
控室の扉が見えてきたとき、私は一度、足を止めて振り返った。
背後にはまだ、仮面の笑顔と、言葉にできない気配が渦巻いている。
落とされた小さな石が、さざ波のように学園の空気を揺らし始め、その波紋は広がってゆく。
終わってはいない。
ただ、何かが静かに動き始めた気がしていた。
緊張と期待が交差していた舞踏の時間が過ぎ、今は社交の空気が会場を包んでいる。演奏はやわらかく調和に満ち、壁際のテーブルには繊細なフィンガーフードと色とりどりの飲み物。生徒たちはグラスを片手に談笑を交わし、それぞれの立場に応じた距離感を保ちながら場を楽しんでいた。
けれど、周囲の視線は相変わらず私たちに注がれている。それが好奇からくるものなのか、称賛なのか、それとも敵意や猜疑を含むものなのかは、簡単に測れない。私とロザリン、そしてエルンストの三人が揃って行動していること自体が、すでに周囲には異様に映っているのだろう。
そんな中、一人の少女がグラスを手にこちらへ近づいてきた。
「リアーナ、様⋯⋯あ、あの、私」
声をかけられた瞬間、思わず身構える。
何気ないように見える動作だったが、彼女の足取りはどこかぎこちなく、手元に持ったグラスの赤い液体がゆらりと揺れていた。
「──あっ」
目の前で、グラスが傾いた。深紅の液体が、まっすぐ私のドレスに向かった次の瞬間。
すっと、影が何の躊躇もなく私の前に滑り込み、片手で少女の手首をそっと制し、もう片方の手でグラスの底を支えた。
その所作は滑らかで、けれど確実に、液体の一滴たりとも地面にこぼさなかった。
「──危ないな」
その動きがあまりに自然で、淀みなく、誰もが目を見張るような速さだった。
「⋯⋯エルンスト様」
私が名前を口にするより先に、彼はグラスをそっと持ち直し、にこやかに言った。
「慣れない場では、不意の事故も起こりやすい。気をつけたほうがいい」
微笑みを浮かべながらも、その瞳の奥には一切の笑みがなかった。氷のような沈黙をまとったその眼差しに、彼女は一瞬、息をのんだように動きを止めた。
「あ、ああ、申し訳あり、ませんっ⋯⋯わざとじゃ、ないんですっ。本当にっ申し訳ありませんっ」
彼女は私と目を合わせることなく、小刻みに肩を震わせた。
その言葉は震え混じりで、けれどどこか上ずっていた。
逃げるように去るその姿に私の胸にざらついた違和感が広がる。
わざとじゃない── 手の震え、目の泳ぎ方、そして、エルンストと目を合わせることすらできずに逃げるように去っていった背中。
彼女は誰かに「命令」されていたのだろうと。
「次から次へと⋯⋯」
「本当に⋯⋯どこまでやるつもりなんでしょうね。あの子、怯えていました」
ロザリンとエルンストがぼそりと呟く。
「ええ⋯⋯でも、失敗ね。おそらくこれで、誰かさん、の機嫌は相当悪くなると思うけれど」
私は、わずかに眉をひそめた。張り詰めた緊張に、ようやくわずかな終わりが見えかけたと思っていた。けれど、それは逆だったのかもしれない。律儀に次から次へと手段を放つほどに、あの人は追い詰められている──そういうことでもあるから。
そして、だからこそ。
何かが、もう一段階「動く」気がしていた。
「⋯⋯少し、控え室に戻ってもいいかしら」
ふと、そう言葉がこぼれたのは、気が緩んだからではなく、張り詰めた心と体に限界が訪れていたからだった。足元に微かな重さを感じ、視界がわずかに霞む。脳裏に浮かぶのは、椅子と、冷たい水と、そして静寂だけ。
「私もご一緒します」
「当然だ」
エルンストの視線は鋭い。周囲をさりげなく見渡しながら、背後の動きにまで警戒してた。控室に行くというだけで、誰かに付け狙われる可能性があることを、私たち全員が知っていた。
私たちは並んでホールを後にし、石造りの静かな回廊を歩き始めた。外の空気が混ざるこの廊下は、先ほどまでの熱気とは異なり、どこか冷たい。けれど、その静けさに、呼吸が楽になる。
控室へと続く曲がり角に差しかかった頃──微かに声が聞こえた。
エルンストはその瞬間、私とロザリンの腕を軽く取ると、ほとんど反射のような素早さで歩みを止め、壁際の柱の影へと私たちを導いた。
そこは、ちょうど死角になる位置だった。回廊を進んでくる者からも、角を曲がった先にいる者からも視線が届かない。
まるで最初からそこを選んでいたかのような、無駄のない動きだった。
「⋯⋯やっぱり、変よ。ラリッサ様のドレスには濃紺が入ってたけど、アルフレッド殿下には紫がなかったわ」
「大丈夫なの? 私たち、こんなこと続けてて」
「言われた通りに動いただけなのに。結果が出なかったら、全部私たちのせいってことになるわ」
「前はもっと余裕があったというか⋯⋯今は、失敗を許さない空気が強いわよね」
「でも、もう引き返せないわよ。ここまで関わったんだもの」
「それが一番怖いのよ。どこまで巻き込まれるのか、わからないから」
その声に覚えがある。ラリッサの取り巻きたちだった。
彼女たち焦りと不安をにじませながら、ざわついていた。普段の余裕ある笑顔は消え、眉根を寄せ、互いの顔色をうかがいながら声を潜めている。
「全部うまくいってないじゃないの! 何のためにやってるのよ、これじゃ⋯⋯」
その言葉を遮るように、コツ、コツと規則的なヒールの音が響いた。
「──そうね。何のために、かしら」
静かな声がその場を貫いた。
ラリッサは完璧な微笑を貼りつけたまま、ゆっくりと取り巻きたちに近付く。彼女たちは息を詰めたように背を正した。
「あなたたち、ご自分の役目を忘れたわけではないわよね?」
「い、いえ⋯⋯その」
震える声に、ラリッサの瞳が細くなる。
「うまくいかなかった? それは、結果が悪かったという意味かしら。それとも、やり方が雑だったという意味?」
彼女の声音には、冷たい棘が含まれ、取り巻きたちは言葉を詰まらせたまま、誰も返事ができない。
「自分の立場を理解していない子たちに、任せるべきではなかったのかしら」
そして、表情を崩さぬまま告げた。
「──わたくしは、グレイ公爵家の令嬢。王家を支える家の名を背負っているの。そんなわたくしの名を背負った行動で、顔に泥を塗ったのなら──責任を取ってもらう覚悟は、当然あるわよね?」
その場の空気が一気に冷え込む。取り巻きたちは顔を青ざめさせ、誰も声を上げられなかった。
その言葉は、「警告」であり、「脅し」でもあった。身分を傘にし、責任を部下に押しつける構図。それが、ラリッサのやり方。
思わず、私の喉元にまで息がせり上がる。言葉にならないまま、それが音として漏れそうになった──そのときだった。
「しーっ⋯⋯」
ふいに、後ろから耳元に吹きかけるような声と、人差し指が目の前に差し出された。
驚いて振り向くと、そこに立っていたのは──アルフレッド王子だった。
人差し指を唇に当て、少しおどけたように「静かに」と告げている。ロザリンも息を呑み、エルンストは僅かに目を細めたまま、王子を見やっていた。
アルフレッド王子は、冗談めかした笑みを浮かべながら、小声で囁くように言う。
「ここで声を出したら、全部台無しだよ。ね?」
その瞳は茶目っ気を含みつつも、どこか冷静で、すべてを見通しているようだった。
ラリッサと取り巻きたちは、間もなく会話を終え、ホールへと戻っていく。その背を見送ってから、アルフレッド王子がようやく口を開いた。
「驚いた? ごめんね、驚かせるつもりはなかったんだけど」
「いえ、でも、なぜアルフレッド殿下がここに?」
私の問いかけに、アルフレッド王子はどこか意味ありげに笑う。
「君たちの様子を見たくなってね。さっきのダンス、よかったよ」
その声に混じるものを、私はまだ読みきれない。
王子の視線が、ふと隣のエルンストに向いた。
「⋯⋯エルンスト。君、あんな扱いを受けても、よく冷静でいられるよね」
「⋯⋯慣れているからな」
エルンスト様の返答は、あくまで静かだった。
王子の表情がわずかに曇る。
「僕はね、彼女が君に対してずっと「自分より下」って態度を取っていたのが、本当に不愉快だったんだ」
その言葉に、エルンスト様は小さく肩をすくめるだけだった。けれど、私には分かった。王子のその言葉には、真摯な怒りが込められていた。
「君は、僕の側近である前に、友人なんだよ。主従だからって、何を言ってもいいと思ってるような人に、僕の隣にいてもらいたくはない」
静かな声だった。ラリッサがエルンストに対して普段から滲ませていた見下すような態度──それを、アルフレッド王子は見逃していなかった。
「⋯⋯婚約者候補としてのふさわしさを、今後再考しなきゃならないかもね。僕自身の意思として」
断定ではなかった。けれど、そこには確かに、変化の兆しがあった。
ラリッサ・グレイという存在が、王子のそばにいることが当然ではなくなりつつある──その予感だけは、確かに感じられた。
控室の扉が見えてきたとき、私は一度、足を止めて振り返った。
背後にはまだ、仮面の笑顔と、言葉にできない気配が渦巻いている。
落とされた小さな石が、さざ波のように学園の空気を揺らし始め、その波紋は広がってゆく。
終わってはいない。
ただ、何かが静かに動き始めた気がしていた。