静寂の裏庭にて。(エルンスト)
午前の講義が終わると同時に、教室を出た。
講義そのものに不満はなかった。だが、教室に満ちていた空気が、今日はどうにも重たく感じる。王子の側近という立場がもたらす注目は、黙っていても視線を呼ぶ。
誰かがこちらを見ている──そう思えば思うほど、視界の端で人の目が動いた気がして、妙な煩わしさを覚えた。
このままでは、余計な思考に引きずられそうだ。
そう感じた瞬間、風の通る場所がふと脳裏をよぎる。
静かで、広くて、誰もいない場所。
気がつけば、廊下を抜け、校舎の裏手へと足が向いていた。
目指すのは、あの裏庭。空がわずかに開け、かつてアルフレッドが読書に使っていた一角。今ではほとんど人が来ることもない。騒がしさから逃れたいとき、自然とここを思い出すようになっていた。
草の匂いが微かに漂い、淡い風が頬を撫でる。
芝生の上で深く息を吐いた。ようやく肺の奥まで空気が届いたような、そんな気がした。
だが、その静けさは長くは続かなかった。
軽やかな足音が近づいてくる。気配を消すように歩いているのに、不思議とその音だけが耳に届く。
「誰だっ」
反射的に声を荒げていた。警戒というよりも、思考を中断された苛立ちが先に立ったのだろう。
振り返ると、そこに立っていたのは栗色の髪を編み込んだ少女。
それは今朝、ラリッサに呼び止められていた子爵令嬢だった。
地味な制服の着こなし、控えめな身のこなし。だがその所作一つひとつが、目立たぬために整えられているのが分かる。
目立たないことに、どこまでも徹している。
──意識的に、空気になろうとしている。
リアーナ・メイフィルドは足を止め、丁寧に頭を下げた。
「⋯⋯失礼いたしました。こちらの場所、使っていらしたのですね」
落ち着いた声。その調子にもまた、作為的な波立ちのなさがあった。
言葉を選ぶというより、存在そのものを調えている。そんな印象を受けた。
けれど何かが、引っかかる。
──あのラリッサが、どうして彼女に関わったのか。
リアーナのような存在に、ラリッサが興味を持つのは不自然だ。
彼女が好むのは目立つ者、もしくは利用価値のある者。だが、この令嬢からは、どちらの要素も感じ取れなかった。
「⋯⋯待て」
自分でも、なぜ引き留めたのか分からない。
「君は、メイフィルド子爵令嬢だな。今朝、ラリッサ嬢と話していただろう」
リアーナは、わずかに目を見開き、静かに頷く。
「はい。少しだけ⋯⋯ご挨拶をいただいただけです」
挨拶、か。それで済むのなら話は早い。
だが、ラリッサがただの挨拶で引き下がるとは思えなかった。
言葉の裏に、見えない意図を潜ませるのが、ラリッサだ。
リアーナはそれに気づかなかったのか。それとも、気づいたうえで、あえて平然と振る舞っているのか──。
「君は、あれに取り込まれるな」
注意でも、忠告でもない。ただの一言だった。
けれど、自分の声には余計な感情が滲んでいたことを、自覚していた。
俺の視界から逃げるよう、彼女は芝生の端に腰を下ろし、昼食の包みを広げる。控えめな動作で、スープを幸せそうに口元へ運んだ。
その様子は、誰にも気づかれないことを優先しているかのようだった。
ふと、彼女の視線が垣根の裏へと向かう。
草が伸び放題になった一角。人目の届かないその場所を、じっと見つめていた。
何かを探しているわけでもない。ただ、見ている。
やがて、彼女はゆっくりと手を伸ばした。
──何を⋯⋯。
思わず息を止めた。
令嬢が草に触れる理由など、あるはずがない。
だが、その手は確かに草に近づき──寸前で止まり、こちらを見た。
目が合う。
彼女は「しまった」と言いたげに、すぐに目を伏せた。
そして、草には触れず、何も言わずに食事を片付けて、その場を後にした。
残されたのは、風に揺れる草の葉と、わずかに動いたその痕跡。
それだけが、彼女の動作の痕を残していた。
──彼女は、一体何を見ていたのか。
理由を知る必要はない。
ただ、あの仕草の中にあった何かが、ずっと整えられていた彼女の輪郭を、かすかに浮かび上がらせたように思えた。
講義そのものに不満はなかった。だが、教室に満ちていた空気が、今日はどうにも重たく感じる。王子の側近という立場がもたらす注目は、黙っていても視線を呼ぶ。
誰かがこちらを見ている──そう思えば思うほど、視界の端で人の目が動いた気がして、妙な煩わしさを覚えた。
このままでは、余計な思考に引きずられそうだ。
そう感じた瞬間、風の通る場所がふと脳裏をよぎる。
静かで、広くて、誰もいない場所。
気がつけば、廊下を抜け、校舎の裏手へと足が向いていた。
目指すのは、あの裏庭。空がわずかに開け、かつてアルフレッドが読書に使っていた一角。今ではほとんど人が来ることもない。騒がしさから逃れたいとき、自然とここを思い出すようになっていた。
草の匂いが微かに漂い、淡い風が頬を撫でる。
芝生の上で深く息を吐いた。ようやく肺の奥まで空気が届いたような、そんな気がした。
だが、その静けさは長くは続かなかった。
軽やかな足音が近づいてくる。気配を消すように歩いているのに、不思議とその音だけが耳に届く。
「誰だっ」
反射的に声を荒げていた。警戒というよりも、思考を中断された苛立ちが先に立ったのだろう。
振り返ると、そこに立っていたのは栗色の髪を編み込んだ少女。
それは今朝、ラリッサに呼び止められていた子爵令嬢だった。
地味な制服の着こなし、控えめな身のこなし。だがその所作一つひとつが、目立たぬために整えられているのが分かる。
目立たないことに、どこまでも徹している。
──意識的に、空気になろうとしている。
リアーナ・メイフィルドは足を止め、丁寧に頭を下げた。
「⋯⋯失礼いたしました。こちらの場所、使っていらしたのですね」
落ち着いた声。その調子にもまた、作為的な波立ちのなさがあった。
言葉を選ぶというより、存在そのものを調えている。そんな印象を受けた。
けれど何かが、引っかかる。
──あのラリッサが、どうして彼女に関わったのか。
リアーナのような存在に、ラリッサが興味を持つのは不自然だ。
彼女が好むのは目立つ者、もしくは利用価値のある者。だが、この令嬢からは、どちらの要素も感じ取れなかった。
「⋯⋯待て」
自分でも、なぜ引き留めたのか分からない。
「君は、メイフィルド子爵令嬢だな。今朝、ラリッサ嬢と話していただろう」
リアーナは、わずかに目を見開き、静かに頷く。
「はい。少しだけ⋯⋯ご挨拶をいただいただけです」
挨拶、か。それで済むのなら話は早い。
だが、ラリッサがただの挨拶で引き下がるとは思えなかった。
言葉の裏に、見えない意図を潜ませるのが、ラリッサだ。
リアーナはそれに気づかなかったのか。それとも、気づいたうえで、あえて平然と振る舞っているのか──。
「君は、あれに取り込まれるな」
注意でも、忠告でもない。ただの一言だった。
けれど、自分の声には余計な感情が滲んでいたことを、自覚していた。
俺の視界から逃げるよう、彼女は芝生の端に腰を下ろし、昼食の包みを広げる。控えめな動作で、スープを幸せそうに口元へ運んだ。
その様子は、誰にも気づかれないことを優先しているかのようだった。
ふと、彼女の視線が垣根の裏へと向かう。
草が伸び放題になった一角。人目の届かないその場所を、じっと見つめていた。
何かを探しているわけでもない。ただ、見ている。
やがて、彼女はゆっくりと手を伸ばした。
──何を⋯⋯。
思わず息を止めた。
令嬢が草に触れる理由など、あるはずがない。
だが、その手は確かに草に近づき──寸前で止まり、こちらを見た。
目が合う。
彼女は「しまった」と言いたげに、すぐに目を伏せた。
そして、草には触れず、何も言わずに食事を片付けて、その場を後にした。
残されたのは、風に揺れる草の葉と、わずかに動いたその痕跡。
それだけが、彼女の動作の痕を残していた。
──彼女は、一体何を見ていたのか。
理由を知る必要はない。
ただ、あの仕草の中にあった何かが、ずっと整えられていた彼女の輪郭を、かすかに浮かび上がらせたように思えた。