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作者: 柊 雪鐘
残酷な描写あり
24-2 Birthday・Dead
「――ぐっ! ……うっ! ……お願い、出して……出して!」

 日和は結界に体当たりを繰り返す。
 残り時間は1時間を切った。
 目の前では日和が今までに見た中で、一番熾烈しれつな激闘が起こっている。
 術士は疲弊し始め、特に波音は先ほどから火力が落ち始めている様子だ。
 夏樹も竜牙も力は落ちてはいないが、動きは鈍くなってきた。
 咲栂は氷を操ってはいるが死にかけた手前、一番ダメージを負っている。
 それをも嘲笑あざわらうかのように楽しんでいる弥生の姿は、まるで玩具で遊ぶ子供のようだ。

「あっははは!! 意外と皆しぶとすぎ! どこからそんな力出てるのぉ?」

 肉弾戦を主体とする波音は棒術に切り替え、夏樹もナイフを手に前に出て戦っている。
 それを玲と竜牙がサポートする形で動く。

「うっさい! こちとらあんたを倒す為に今までやってきたの! あんたこそさっさとくたばりなさいよ!」

 焔の棍棒を流れる動作で回し、叩きつけ、突きながら波音は手に力を込める。
 それを弥生は見切るように避けながらシャボン玉を飛ばしてきた。

「ええ? やだよ、簡単にくたばる訳にはいかないの! 日付変わるまで待って?」
「……ちっ!それが駄目だって言ってんのよ! いい加減アレだしたら?手加減でもしてるの!?」

 波音の脳裏には弥生の酸がちらついている。
 苦汁を舐めさせられた酸は序盤の攻撃以降見ていない。
 いつまでも出し渋る弥生にはらわたが煮えくり返った。

「――できれば、こっちの攻撃も食らって欲しいんですけど!」

 そこへ全身に風の力を纏わせた夏樹は弥生の背後から苦無を手にし、斬りつけるよう腕を振る。

「おっと危ないなぁ」

 身体を逸らせた弥生はそのまま体を捻り、夏樹にもシャボン玉を飛ばした。
 咄嗟に距離を取った夏樹は袖から垂れ下がった苦無を手に取り割ると、鉄砲にも近い破裂音が響き渡って小さな爆風が舞う。

「夏樹、代わって」

 竜牙は夏樹を引っ張り、後ろへ飛ばす。

「――竜牙さ……!」

 同時に前に出た竜牙は槍で弥生を突き、振り下ろし、切り上げる。
 弥生が散らせたシャボン玉は全て割れ、弥生は苛立たしげに顔を歪めた。

「あーっ!! ひっどーい!」
「波音」
「……分かったわ」

 短く、竜牙は波音を呼びつけ腕を振り上げる。
 ぶわりと岩のつぶてがいくつも浮き、弥生に向けて飛ばした。
 波音はその礫に息を吹き付け、炎を纏わせる。

「一人じゃ倒せないからって連携技? 火なんて――っ!!」

 正面から来る礫に弥生は気が逸れる。
 背後からは風に操られた氷柱が飛んできていた。
 竜牙と波音の影になった場所から咲栂が氷を作りだし、夏樹が操っていた。

「――ああもうめんどくさい!!」

 総攻撃とも言える攻撃に弥生は苛立ち、声を上げた。
 それと同時に全方位に飛散させた水は所構わず煙を上げる。

「ぐっ!」「っ!!」

 竜牙は波音を庇うように前に立ち、土の壁を立てて酸を防ぐ。
 しかし壁の奥からシュゥゥ、と溶ける様な聞こえ、壁は崩れてしまった。


「――いやぁ、すごいなぁ。皆強くなった、偉いね」
「……?」

 突然口調の変わる弥生に波音が怪訝な表情を浮かべ、夏樹は警戒し苦無を構える。

「戦い方では明らかにこちらが不利なのは分かっているんだ。しかも今回は、全員でかかってきてる。高峰さんのようにはいかないねえ」
「――はぁ?」

 弥生はにこりと笑っているが、その目の奥は何かが潜んでいるように、ぞわりと嫌な気配がする。
 多分苗字を間違えられたであろう波音はすこぶる嫌な顔をした。

(……! 正也、もう一度替われ)

 その中で、一人だけ表情は冷静だった。

「……お前は、金詰蛍か」
「なっ!」「えっ?」
「わぁ、久しぶりだねえ、竜牙君。あれ、正也君? 弥生の呪いが効いてるからか、どっちか分からないね。そうか、君自身は変わらないもんねえ」

 さらりと返事をした弥生の皮を被った金詰蛍は悪びれもせず、飄々ひょうひょうと挨拶をする。
 口調の違う弥生の正体に、波音達は困惑の表情を見せた。

「どうしてその場所に居る。お前は目の前の家族が死に、苦しむ姿に何も思わないのか。お前と共に戦った仲間の子供達がここにいるんだぞ。何も思わないのか」
「何も思ってない訳ではないよ。巻き込んじゃって悪いなあ、とか……その程度には」

 弥生の姿で頭を掻き、あははと笑う金詰蛍に竜牙は忌々いまいましげに睨みつける。

「この人が、日和の父親……?」

 波音は蛍の姿に拒否反応を示した。
 畏怖し、近づくのも躊躇ためらう。
 第一何を言っているのか、理解できない。

「お前の性格の悪さで全員が引いている。お前は自分が言っている事に、やっている事に、何も思わないのか」
「竜牙君はやっぱ大人だねえ。そうやって佐艮を立派な術士にしてあげていたんだもんねえ。僕をよく知っている人が居て助かるよ。もしここに君が居なかったら……皆僕を殴る意欲を失っていただろう?」

 金詰蛍だが、にこりと笑う弥生の笑みは気持ちが悪い。
 笑っているのに、底知れぬ恐怖がそこにある。
 そしてそれは、少し離れた日和も一緒だった。

「お……とう、さん……」
「日和にも挨拶しておきたいけど、難しいね。今の僕は妖だからね。折角弥生に着飾って貰ったのに、真っ青な顔になっちゃって……あ、真っ青な顔しているのは僕がここにいるからか! あははっ」

 人の神経を逆なでするように、蛍は笑う。
 どこか沸々と苛立たしくなる姿がそこあった。

「――お前はその女王に魂を売ったのか」
「魂を売る? 違う違う!僕が願ったんだよ。いつでもこの女王を殺せるように、妖になろうと思ったんだ。だから全て日和の為に、今までこうやって傍にいたんだろう? 正也君の妹もついてくるとは意外だったけどね!」

 竜牙の目の色が深くなる。

「お前は――」
「――それにしても竜牙君はピンピンしてるね。呪詛を食らったのに、どうやって回復したのかな?術士の力は効かないよね? もしかして――日和に治してもらったのかい?」
「……っ!」

 槍を構えた竜牙に蛍は「おっと……」と両手を上げて、話題を切り替える。
 蛍はじっと竜牙を見て、にたりと笑った。
 そして蛍の思惑通り、竜牙の動きが固まる。

「うちの娘はすごいだろう? 特別な力がある。見た感じもう気配も消えてしまってるからどうしたのかなと思ったけど……そっかぁ、竜牙君に使ったのか」
「お前にとっては、娘も実験台なのかっ!!――」

 竜牙から通常とは違う気が漏れ始め、構える。

「――竜牙!!」

 踏み込み、刻もうとした竜牙は咲栂のとがめる声と共に冷たい水をかけられて、後ろを向いた。
 いつの間にか近くまで歩み寄っていた咲栂がいる。

「お前が乗せられてどうする! こやつがどんな人間だったかはお前にしか分からんが、煽られている事に気付け!」
「……水鏡の『咲栂』かな? 重俊様はその能力しか使わなかったから初めて姿を拝見したが、大変麗しい。だが……残念。君も、こちら側だ――!!」

 金詰蛍は腕を前に出し、水を飛ばす。
 咄嗟に竜牙は土の壁を出し、攻撃を防ぐ。

「――くっ!」
「…………そろそろ、いい?」

 水にやられしゅぅぅ、と壁が崩れていく中、弥生は目を細めて煩わしそうな声を出す。
 そこにはもう金詰蛍の姿は無かった。

「……良くないに決まってるでしょ!」

 雰囲気が戻った。
 戻ったが、それ以上の気配を読んだ波音は地面を蹴り、手に炎を込めて弥生に殴りかかる。
 両手に渾身の力と速度を込めて足を出し、弥生は身を守ろうと腕を構えた。
 その機を狙っていたかのように波音は足を止め、予備動作も無く火を噴く。

「ぎゃっ……!?」

 小さな悲鳴が上がった。
 弥生の体が燃え上がり、波音の口角が上がる。

「――油断だよ、それは」
「!?」

 次の瞬間、火柱の中からぶしゃあ、と音を立て波音の体が濡れた。
 全身にこびりついた水に波音は気付くが、もう遅い。

「――あああああ!!!」

 煙が上がり、酸が波音の体を溶かして全身に焼けるような痛みが走る。

「波音!!」

 波音を助けようと咲栂は水を出す為に腕を振り上げる。
 すると縫い留められたようにぴたりと動きが止まった。
 咲栂の足元から火柱の中に居るはずの弥生の声が聞こえる。

「誰かが倒れれば、貴女か小鳥遊夏樹が助けるでしょ?」
「くっ、なにを……」
「ここで最後まで見ていなよ」

 よく見ると咲栂の体はいつの間にか、足元から生えるように細い水の網が全身を巻くように伸びていた。
完全に動きを封じ込められている。

「咲栂様!」

 夏樹が声を上げたと同時にふっ、と火柱がかき消えた。

「波音、咲栂……! 夏樹、いくぞ!」
「はい!」

 意識を正也に戻した竜牙の声に夏樹は向き直る。
 火柱から解放された弥生の体に痕はない。
 更ににたりと笑う弥生の表情はまるで、序盤まで見せていた余裕の表情だ。

「ふぅん……私は一人ずつ行くよ」

 竜牙は地面に両手を触れ石柱を出す。
 夏樹の足元が隆起し、勢いで飛び出した。
 更に竜牙は片手で地面をかすめると竜の形をした岩を地面から生やし、弥生を襲う。
 しかし弥生は動かない。
 にたりと笑うだけで、大人しく槍のような岩先は弥生の体を押し潰した。
 なのに手応えは感じられない。

「そういえば、『脳』が言うまで忘れてたよ」
「こっちに……!?」

 不意に背後からかかった声に、竜牙は振り向く。
 右手を出し、竜牙に触れようとした弥生が立っていた。

「危ない!」

 飛んでいた夏樹は竜牙が出した岩を踏み台にし、弥生と竜牙の間に着地する。
 そして指を立て、突風で弥生を引き離した。

「夏樹……!」
「知ってる? 水はどこにでもいるんだよ」

 離れても、飛ばされてうつむいている弥生の声は聞こえた。
 表情は見えないが、さぞかし腹を抱えて笑いを堪えていたんじゃないかと後の夏樹が思う程、含みのある言葉は夏樹の耳によく届いた。

「あっ……」

 思わず、下に目線を向ける。
 一瞬過ぎった不安がその答を告げるように、夏樹の足元のマンホールにつけられた吹っ飛び予防の穴から水が噴き出す。

「うっ、ぐぅ……!」

 足は全体的に、顔や腕にも一部浴びた。
 追い打ちをかけるように噴き出した水滴が小さなしゃほん玉となって、割れる。
酷い追い打ちだ。小さくても威力は十分にある。

「いっだ……!!」

 酸にやられた夏樹は動けぬまま爆風に飛ばされ、地面に強く叩きつけらた。
 小さな悲鳴が上がる。

「夏樹!」
「夏樹! ……竜牙、お逃げなさい!」

 竜牙の短い叫び声と咲栂の必死な声が響く。

「くっ……!」

 しかし竜牙は槍を構え直す。
 弥生はその姿にしゅん、と肩を落とすと諦めの表情を見せた。

「……そうだよね。お兄ちゃんは私と戦うしかないよね。前にバレちゃったから口封じの呪いかけたけど……ずっと責任、感じてたんでしょ?」
(正也、聞くな!! はもう、別物だ!!)

 突然の大人しい仕草に竜牙は正也の意識に向けて、必死に罠だと訴える。

「いつかこうして、自分が私を殺さないとだめだって、必死になってたんでしょ? ……ごめんね。みこが一緒なら私も戦えるって思っちゃったから……この目があれば、大丈夫って思っちゃったから……」
「……っ!」

 正也は深い意識の中で、遮断した。
 これ以上は、手に持つ鋭利な槍のような気持ちが揺らいでしまう。
 そんな、本能的な判断だった。
 竜牙は渡された体の主導権を使い、再び槍を強く握る。

「そういえばさっき思い出した呪い、今解いてあげる。このままじゃお兄ちゃん、消えちゃうでしょ?」

 にこっ、と笑う弥生がなんとも悪魔的に映る。
 このまま呪いが消えたら、まずい。
 内心焦る竜牙に、弥生は拍車をかける。

「もしかしてお兄ちゃんの気持ち、揺らいじゃった? やっぱり兄妹だね。普段は何にもないように装ってるけど、顔に出さないだけ。こんな主の式をするのも大変ね」

 明らかに竜牙を指して、弥生は距離を詰める。
 それを身構えるように竜牙は槍を構え、受け身を取った。
 弥生の攻撃は執拗で、暴力的だ。
 まるで執念のように飛んでくる手を槍の柄で撥ね除ける。
 あわよくば一撃食らわせたい所だが、全く以て隙がない。
 ある意味波音のような獰猛な手は、休む間もなく連撃を繰り返し、竜牙は圧されていく。
 険しくなる心を隠して余裕のある素振りで竜牙は口を開いた。

「まるで波音みたいな攻撃だな」
「そう? 上手くできてるかな?」

 弥生の左手がわざとらしく竜牙の槍を叩き、押しつける。
 その反動を利用するように竜牙は姿勢を低くし、槍を回しながら体を捻る。
 同時に砂を撒き、弥生に浴びせた。

「ぬぁっ! ……あうっ!?」

 目潰しとなった砂に弥生は怯み、竜牙は全力で槍の先を押し込む。
 肉を貫く衝撃が槍を伝い、手に響いた。
 弥生の体は右胸を突かれ、そのまま付近の樹木にはりつけにされ、がくがくと震えながら両の手が槍を掴む。
 頭は項垂れたまま、弥生はびくびくと動いている。

「……わた、しが……負けるなんて……」

 ぼそぼそと息を切らすように途切れる弥生の言葉、それは弥生を弱体化させた証拠か。
  咲栂の体はがくんと膝を着き、竜牙の耳にぎりぎり聞こえた割れるような音は日和を囲む結界が壊れた合図だった。

「みっ、皆……!!」

 公園内では倒れた波音と夏樹、膝をつき換装が外れた玲、槍で貫かれた弥生、立ち尽くす竜牙、子供たちが遊び駅を通る人間が休む憩いの場とは言えぬ酷い惨状と化している。
 日和は変わり果てた景色に小さな悲鳴を上げた。

「日和……すまない、弥生は……」

 竜牙の申し訳なさげな表情を見て日和は弥生に視線を向ける。
 槍を掴みながら片腕をだらんと垂れ下げた弥生の体は痛々しく、死体のような姿だ。

「竜牙……。すみません、私……兄さんも、ごめんなさい……」

 悲しみか、苦しみか。
 日和は最後まで戦い抜いた術士を見て頭を下げる。

「いや、僕は足手纏いだったから……竜牙は本当にお疲れ様……」
「……すまない、手酷く……やられた」

 疲労の色を見せる玲に竜牙は首を振る。
 それから少し、沈黙ができた。
 完全に沈黙した弥生を見て静かにしていた日和は、いつの間にか画面が割れてしまったスマートフォンを見て、小さく呟く。

「いつの間にか、あと3分ほどですね……」

 下半分が真っ黒になってしまった画面に映っていたのは、23時57分。
 ここに来た時はまだ21時頃だったのに、皆が必死だった為か、あっという間に時間は目の前まで来てしまった。

「そうか……。間に合って、良かった」
「弥生……うっ!?――」
「大丈夫か……――っ!?」

 次の瞬間、弥生を見ていた日和の膝がかくんと曲がり、倒れかけた。
 そこへ竜牙が動き、日和を支えようとした。のだが。
 しかし竜牙の腕が日和の体に触れたその瞬間、魔法が溶けたように竜牙の憑依換装が外れた。
 正也の体は地面に倒れ、竜牙は一瞬にして手のひらサイズの式の姿へと変わる。

「なっ……!?」
「えっ、たっ、竜牙!?」
「呪いが……!?」

 玲は驚きで声を上げ、今まで憑依換装の姿で見慣れていた日和は目を丸くし、竜牙は突然元の姿に戻った事に驚きを隠せずにいる。
 倒れた正也は体力を使い切っているのか、そのまま動きもしない。

「ふふっ、あはははははは!!!」

 突如気を抜いていた場所から高笑いが響いた。
 体を貫かれたまま笑い出す弥生は上体を起こし、目を蘭々に輝かせている。

「弥生……!?」
「くそっ……!」

 何とか力を振り絞るように竜牙は日和の前に出る。
 両手を合わせて息を堪えると日和の胸ほどか、小学生ほどの大きさになった。

「私が直接触れなくても、日和に触れれば解けるようにして良かった! 私の体さえ止めておけば……安心だった?」

 くす、と弥生は意地悪く笑う。

「土に水……かぁ。しかも一人は何も出来ず膝を着いて、一人は式神だもんねぇ。ふふふ……ねぇ、これからどうするの?」

 獲物を見る目でぎろりと見つめる弥生。
 焦りと苦い表情をする竜牙の横を、人影が進んだ。

「……弥生、もう、いいです。……お願いがあります」
「日和!? ……っ」

 日和の行動に制止しようと動く竜牙を手で止めて、日和は竜牙に振り返る。
 「大丈夫です」と、力なく笑った。

「……なぁに、日和。食べられる覚悟でもついた?」

 にたりと卑しく笑う弥生に日和はゆっくりと頷く。

「その代わり……もう誰ひとり、手を出さないで下さい」

 日和の要求に弥生は動きも表情もぴたりと止まる。
 そしてにこりと優しい笑みを浮かべた。

「なるほど。いいよ」
「日和ちゃん、だめだ!」
「やめろ日和!!」

 あっけなく条件を呑む弥生に玲も竜牙も声を荒げる。
 しかし日和も弥生もその声に耳は貸さない。

「一応言うけど日和、私があんたを食べても他を襲えるのよ?」
「その時は、大人しく皆に殺されて下さい。親友として約束を守ってくれるよう、祈るだけです」

 あくまで日和は真面目に交渉しているつもりだ。
 日和の目と親友からの約束、弥生はため息を吐き体をどろりと溶かす。
 槍から落ちた塊が再び体を形成し、日和の前へ歩んだ。

「日和、待て! そんな無意味な事などさせられない! ひよ……――」

 竜牙は日和に近付き、腕を掴む。
 しかし日和はその手を振りほどき、竜牙に向かう。

「ごめんなさい……私にも、守るものがあるんです」

 体を酸に焼かれて倒れる波音と夏樹。
 死にかけ、無理に咲栂を使い続け体を動かせない玲。
 竜牙に初めて会った日から顔を出さなかった正也は地面に倒れてしまっている。

 日和は竜牙に笑顔を向けて、正面に立つ弥生に振り返る。
 その笑顔はまごうことなき、心の底からの笑顔。
 竜牙は手を伸ばすも触れることなく、膝をついた。
 主も気を失った今、電池が切れたように体は重く、動かない。

「お別れは済んだ?」

 振り返れば、いつもの、親友でいた時の弥生が日和の目の前に居た。

「……うん。済んだよ」

 日和は力なく笑って、両目を瞑る。
 後ろの方で、小さく音楽が鳴り響く。
 どうやら弥生は日付が変わる時に曲が流れるように設定していたらしい。
 弥生は口を開く。

「日付、変わったよ。誕生日、おめでとう。じゃあ、さよなら」
「……うん、さよなら」

 日和の心は凪いだ海のように静かだった。
 ――大丈夫、きっと、大丈夫。
 一つだけの可能性を求めて、私は今から逝く。

『私に食べられれば日和はお父さんと一緒だよ』

 先ほど、弥生はそう言っていた。

「お父さん、今からそっちに行くよ」

 誰にも聞こえない小さな声で日和は呟く。
 ここで日和の思考は終わった。
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