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作者: 柊 雪鐘
残酷な描写あり
4-1 変化する日常
 朝起きて、日和は何をすることもなくベッドに転がっていた。
 今日は土曜日だから学校に行くことも無い。
 頭も心も空っぽのまま、ただ時間を食いつぶしている。
 何もすることはない。
 寧ろ何もしたくない。
 ただ鬱々とした気持ちが日和の心の中に降り積もって、全ての活力が無意味に消化されていく。
 でもずっとしているのも体が辛い。
 昼間になって、日和はやっと倦怠感のある体を引き摺って階段を降りた。

『おはよう、日和ちゃん』

 居間に顔を覗かせると、正面で一瞬こっちを向いて微笑んでいる姿がちらついて、掻き消えてしまった。
 今まで毎日のように聞いていた声は幻聴となって響いて、祖父が座っていた椅子は日和の視界の中で色褪せて冷えていく。
 カーテンすらも閉め切った暗い部屋の中で、昔のように机の下で震えるような気力はない。
 それでもこの心にぽっかりと空いてしまった大きな穴は、涙を流さずにはいられなくて。
 ……まるで、子供の頃に戻ったようだった。

 昨日、祖父が亡くなった。
 妖という存在に、殺されたのだという。
 妖に殺された人間は通常葬儀を行わないらしく、昨日の公園で会った時を最後に別れてしまった。
 あの時竜牙は言っていたが、祖父は腹に損傷を受けていたらしい。
 そして、古い記憶の中の父はあの時、どうやって死んだのだろう。
 相変わらず、あの時の犯人の姿は記憶にない。
 日和は何も言わず、何もせず、2階へ戻ってベッドに再び臥した。
 今はもう、何も考えたくない。


◇◆◇◆◇


「――、日和ちゃん……」

 いつの間に寝ていたのだろうか、身体を揺り動かされる。
 ゆっくりと眼を開くと夕方独特の赤い光が窓から射して、長く寝ていたことに気付いた。

「日和ちゃん、起きて。……起きた?」

 視界の端で影が現れ、ゆっくりと視線を向ける。
 徐々に鮮明になっていく視界、その目の前にはいかにも心配した表情の玲がいた。

「……にーさん」
「良かった、生きてた」
「逆にこの1日で死んでたら困るわよ……」

 視線が合い、安堵の表情を向けられている。
 そこへ更に女性の声がどこかで聞こえ、扉の方へ視線を移すと私服に身を包んだ波音が立っていた。
いつもの腕組みに、表情はトレードマークの不機嫌顔だ。

「……波音」
「日和ちゃん、大丈夫?ご飯食べてる……?」

 玲はまだ心配足りないのか、矢継ぎ早に聞いてくる。
 しかし日和は未だ、答える気分も気力も無い。
 代わりに力なく首を横に振った。

「だと思った。下で借りたから、ちゃんと食べて。ほら、波音もそこに立ってないで」
「……わかったわよ……」

 玲が体を横に退けると、テーブルの上に立派な和食が既に3セット並んでいる。
 ご飯に味噌汁、焼き魚、白和え・煮物・卵綴じの入った小鉢、漬け物とかなり豪華に広がっていた。
 合鍵を持っていた玲が波音と共に準備していたんだろうか。
 しかも寝ている間に。
 寧ろ物音くらいしただろうに一切気付かなかった。

「波音と作ったんだ。少しでも、食べてみない?」

 手を伸ばしてくる玲の腕を――振り払う事は出来なかった。
 億劫にもその腕を掴み、日和はベッドを降りる。
 そして三人で箸を持ち、二人は揃えて声を出した。

「いただきます」「いただきます」

 日和は声を出さず、手を合わせて小さく頷く。
 いつもより小さなひと口に纏めた白米を口にし、味噌汁を手に取って、口に含む。
 口に広がったのは出汁と、味噌と具の風味が溶けた味。
 これは、家の味。
 祖父が夕食に出す、いつもの味だ。
 自分がよく知る味噌汁が喉を通って、日和の目からは自然と、ぼろぼろと零れるように涙が溢れた。

「わっ、そんな静かに泣かないでよ……」
「ごめん、日和ちゃん大丈夫?」

 予備動作も無く、声も出ずに突然泣き出す日和。
 その姿に二人の表情が一気に焦りを見せ、目を丸くした。
 日和は味噌汁から離すことも無く、涙はぼろぼろと汁の中や膝に溢れていきながら、それでも静かに泣き続ける。
 押し潰されそうな心の中、小さく首を横に振った。

「……今からでも、私達の家に来てもいいのよ」
「僕達は、いつでも大丈夫だから……」

 二人の気持ちだけで日和の心は一杯だ。
 だけど今は……まだ、この家ここを離れたくない。
 しばらくして、汁だけが無くなった味噌汁から口を離した日和は呟く様に小さな声で、溢す。

「……大丈夫。ありがとう」
「ねえ、日和。……明日も来るから」
「……え?」
「明日も一緒にご飯、食べるわよ。材料は買ってきてあげるから、一緒に作りなさい。分かった?」

 睨むような波音の視線は強制のように響く。
 しかしその言葉は何故か、日和にとってはとても嬉しく感じた。
 目の周りを赤くして、日和は小さく微笑む。

「うん……ありがとう」

 その姿に安堵して、玲は微笑みながら食事に手を進める。
すると波音は視線を玲に移し、あろうことか箸で煮物を指した。

「ところで玲、この煮物……味が濃くない?」
「そうかな? そんなものだと思うけど。焼き魚は焼き目にムラがあるよね」
「仕方ないじゃない。ここのコンロの使い方が分からなかったんだもの」

 ぽっかりと空いた心に、唐突に始まった玲と波音の仲の良さそうな会話が、心地いい。
 二人の姿は見ていて楽しくて、安心させてくれる。
 そんな二人の様子を見ていた日和の口角が上がった。

「ふふふ、どれも、美味しい」

 玲と波音はまた目を丸くする。
 玲は嬉しそうに「良かった」と返事をし、波音には「貴女、笑うのね……」と驚愕された。



***
 それからきたる日曜日。
 日和は昨日とは比べ物にならないほど体を動かした。
 まず台所と居間を綺麗にした。
 日和は昨日、結局部屋から出られなかった。
 だからこそ昨夜の皿洗いをしたかったのだが……既にされていた様子を見ると、どうやら帰りがけにしてくれたらしい。
 
(あとでお礼をしなきゃな……)

 そう思う分には、昨日の玲と波音には感謝をしなければ……と、流石の日和も思う。

 次に洗濯物をしながら自分の部屋を綺麗にした。
 定期的にやっているつもりだが、やはり埃は被るらしい。
 くしゃみが少し出てしまい、外は晴れているので丁度いいと窓を開けた。
 洗濯物は祖父の分もあったが、構わず洗って干していく。
 昨日のように亡くなった祖父を思い出すかと思ったが、案外すっきりしているのか何の問題も無く作業を終えた。
 それもきっと、昨日の二人のおかげなのかもしれない。
 そうして気付けばお昼時が近かったようで、ピンポーン、とインターホンが鳴り響く。

「はーい」

 日和は空になった洗濯籠を片付け、玄関の扉を開ける。

「来たわよ」
「こんにちは」
「っ!?」

 そこには私服の波音と、先日の夜に会った大きい姿の焔が立っていた。
 焔については全く想定すらもしてなかったので、思わず表情に出てしまったかもしれない。

「驚かせてしまったかな? 日和ちゃんに会いたくて、来てみたんだ」

 にっこりと笑うその男は、男性とも女性とも思わせるような中性的な美貌で笑顔が大変眩しい。
 そしてそう思わせる程、無駄のない細くて長い身体が更に印象を強くさせた。

「ほら焔、入るわよ」
「あ、こ、こちらにどうぞ……」

 思わず緊張する日和と慣れた様に入る波音。
 家主は日和で客は波音だろうに。
 二人の姿がなんとも逆の立場を模していて、焔はくすくすと笑う。
 波音の背を追い、日和の前を通り際になんとも嬉しそうな声で焔は口を開いた。

「昨日来たのは分かってるけど、波音がお友達の家に行くなんて初めてだね! 日和ちゃんも元気か心配だから顔を見れて良かったよ」
「焔黙ってなさい! 日和もさっさとお昼作るわよ!」

 波音の上ずった声が上がる。
 どうやら恥ずかしかったらしく、波音の顔どころか耳まで赤く染まっている。
 なんとなく波音という人物が理解できるようになってきた気がして、日和の心は少し躍った。
日和のおじいちゃんは元ホテルの清掃員。
シフト制で深夜に働くこともあり家に居ない時もあったので、日和を見る為に玲が合鍵で遊びに来てました。

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