残酷な描写あり
プロローグ
とある路地裏。
居並ぶ煉瓦造りの家屋が程よい塩梅で日光を遮り、時折り入り込む隙間風によって心地よい涼気で満たされる暗所で。
青年と“それ”は対峙していた。
グゥルルルル――!
半開きの口から漏れる唸り声は、この世のものとは思えない程に低く、同時に溢れる吐息は、興奮した牛の鼻息を何乗にも上乗せしたように荒く、重厚だった。
“それ”の全身はどす黒い瘴気のようなもので覆われ、闇を溶かし込んだような上半身は異常な膨張を果たし、背中からは暗黒色の“なにか”で形作られた瘤が突き出ている。猫背になった姿勢でだらりと垂らす両腕の先端からは、クマのように太く鋭い爪が刃のように何本も伸びており、それらが互いに擦れ合いカチカチという耳障りな音を奏でた。
誰がどう見ても異形と形容するであろう醜い姿。
“それ”が、ほんの数分前まではただの人間だったなんて、言われたところで信じられようか。
「――やはり、もう限界に達していたようですね」
“それ”の真正面に佇む青年が、諦観の混じった溜息を吐く。
大の大人であっても腰を抜かすであろう怪物を前にして、しかしその彼は不気味な程に自若としていた。
こんな事は慣れている、と言わんばかりに――。
奇妙な青年である。雄偉な体躯をしているでもなく、頑丈な鎧に身を包んでいるでもなく、強力な武器を手にしているでもない。
仕立ての良い燕尾服にシルクハット、上質の革をなめしたロングブーツ。そして、片手から提げているステッキが一本。
それが彼の出で立ちであった。どう頑張っても、怪物に対して戦いを挑む戦士の装いには見えない。むしろ争い事とは縁遠い貴族のぼんぼんを連想するであろう。それを裏付けるかのように、シルクハットの下から覗く顔は痩せており、たおやかな女性と見紛うばかりに美しく整った造形をしている。身体の線も同様に細い。貧弱とまではいかないが、同年代の男性と比べると明らかに細身だ。
にも関わらず、青年の透き通った瞳には怯えも焦りも一切無い。ただ、こみ上げる哀切さだけを湛えて眼前の怪物を真っ直ぐ見据えている。
「出来るならまだまだ抑制してもらいたかったのですが、此処に至ってはやむを得ません」
一陣の隙間風が青年の背中を撫でる。風に煽られて、燕尾服の裾とウェーブがかった薄紫の髪が少しだけ舞う。
それを合図と受け取ったように、青年は被っていたシルクハットに手を添え、端正な顔に決意を込める。
ステッキを握る手に力を込め、ゆっくりと先端を怪物に向けるように掲げた。
すると、青年の握り込んだ掌の中から、青い光が溢れ出た。光は奔流のように辺りを満たし、すぐさまステッキ全体に浸透する。
なんらかの仕掛けか、それとも魔術の類か。光の正体は、青年の手に遮られて姿を表さない。
そして青年は、怪物を見据えたまま厳かに言った。
「あなたの影は、私が喰らおう。忌まわしき呪いの犠牲者よ」
青い光に染まったステッキが、怪物に向かって無造作に振るわれた。
居並ぶ煉瓦造りの家屋が程よい塩梅で日光を遮り、時折り入り込む隙間風によって心地よい涼気で満たされる暗所で。
青年と“それ”は対峙していた。
グゥルルルル――!
半開きの口から漏れる唸り声は、この世のものとは思えない程に低く、同時に溢れる吐息は、興奮した牛の鼻息を何乗にも上乗せしたように荒く、重厚だった。
“それ”の全身はどす黒い瘴気のようなもので覆われ、闇を溶かし込んだような上半身は異常な膨張を果たし、背中からは暗黒色の“なにか”で形作られた瘤が突き出ている。猫背になった姿勢でだらりと垂らす両腕の先端からは、クマのように太く鋭い爪が刃のように何本も伸びており、それらが互いに擦れ合いカチカチという耳障りな音を奏でた。
誰がどう見ても異形と形容するであろう醜い姿。
“それ”が、ほんの数分前まではただの人間だったなんて、言われたところで信じられようか。
「――やはり、もう限界に達していたようですね」
“それ”の真正面に佇む青年が、諦観の混じった溜息を吐く。
大の大人であっても腰を抜かすであろう怪物を前にして、しかしその彼は不気味な程に自若としていた。
こんな事は慣れている、と言わんばかりに――。
奇妙な青年である。雄偉な体躯をしているでもなく、頑丈な鎧に身を包んでいるでもなく、強力な武器を手にしているでもない。
仕立ての良い燕尾服にシルクハット、上質の革をなめしたロングブーツ。そして、片手から提げているステッキが一本。
それが彼の出で立ちであった。どう頑張っても、怪物に対して戦いを挑む戦士の装いには見えない。むしろ争い事とは縁遠い貴族のぼんぼんを連想するであろう。それを裏付けるかのように、シルクハットの下から覗く顔は痩せており、たおやかな女性と見紛うばかりに美しく整った造形をしている。身体の線も同様に細い。貧弱とまではいかないが、同年代の男性と比べると明らかに細身だ。
にも関わらず、青年の透き通った瞳には怯えも焦りも一切無い。ただ、こみ上げる哀切さだけを湛えて眼前の怪物を真っ直ぐ見据えている。
「出来るならまだまだ抑制してもらいたかったのですが、此処に至ってはやむを得ません」
一陣の隙間風が青年の背中を撫でる。風に煽られて、燕尾服の裾とウェーブがかった薄紫の髪が少しだけ舞う。
それを合図と受け取ったように、青年は被っていたシルクハットに手を添え、端正な顔に決意を込める。
ステッキを握る手に力を込め、ゆっくりと先端を怪物に向けるように掲げた。
すると、青年の握り込んだ掌の中から、青い光が溢れ出た。光は奔流のように辺りを満たし、すぐさまステッキ全体に浸透する。
なんらかの仕掛けか、それとも魔術の類か。光の正体は、青年の手に遮られて姿を表さない。
そして青年は、怪物を見据えたまま厳かに言った。
「あなたの影は、私が喰らおう。忌まわしき呪いの犠牲者よ」
青い光に染まったステッキが、怪物に向かって無造作に振るわれた。