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作者: 風森愛
R-15
武闘派女と忍耐男(前編)
 午後九時五十分

 ベッドに寝かせた優衣香の隣に俺も横になり、顔を眺めていた。ベッドサイドの淡いランプの灯りに照らされた優衣香の頬を指先でなぞる。目元に指をやると、優衣香の長いまつ毛が俺の指の動きに合わせて揺れる。

 火照った体で呼吸が少しだけ荒い優衣香を今すぐ襲ってしまいたい衝動に駆られるが、今日は出来ない。

 優衣香に水を飲むかと聞くと飲むというので、ランプの前に置かれたミネラルウォーターのペットボトルを見たが、空だった。

「新しいの持ってくるよ。冷蔵庫だよね?」
「うん、ごめんね、ありがとう」

 冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを取り出して寝室へ戻ろうとした時、洗い物の中に女性宅にあってもおかしくはないが、基本的に男性宅にあるだろうと思料されるものを見つけた。なんとなく嫌な予感がして、キッチンを見回すと、あるものを俺は見つけてしまった。

 ――相澤はこれを見たのか?

 優衣香が痩せた理由もこれで説明が出来る。だが同時に、よりによってなぜ、という疑問が湧いてくる。

 ――優衣香は目的の為に最短距離を選択する。

 優衣香は元々そういう人だ。これで痩せた経緯は説明出来る。だが原因を、優衣香は話してくれない。

 ――体型について、何か、誰かに言われたのだろうか。

 ミネラルウォーターの蓋を開けて水を多めに口に含み、口内を潤した。もう一度水を口に含みながら寝室に戻ると、優衣香は起きようとした。水を飲み込み、『そのままでいいよ』と言い、優衣香の頭の下に腕を入れて、ミネラルウォーターを口に含んで、そのまま優衣香に口移しで水を飲ませた。優衣香の喉が鳴った。
 まだ飲むかと聞くと、飲むと、恥ずかしそうに言う。その顔が可愛くて、俺は少しだけミネラルウォーターを口に含んで、優衣香に口移しした。また優衣香の喉が鳴る。
 さっきより量が少ないことに気づいた優衣香は、俺の目を見た。探るような目線を送るが、俺は口をつけたまま、頬と顎に手を添え、無理矢理、優衣香の口内に舌を滑り込ませる。
 頭の下にある腕で優衣香の肩を掴んで、両足に足を乗せて動かせないようにすると、優衣香は俺の頬に手を添えた。
 優衣香の舌は俺に応えて、優衣香の指先が俺の頬から首、肩へと移動していく。
 舌が絡み合い、優衣香は苦しげに喘ぐ。
 優衣香は俺の腕を、強い力で掴んだ。

 ――したいんだけどな。でも出来ない。

 俺の冷たい舌が体温に戻る頃、唇を離すと、優衣香はうらめしそうな顔をした。

「ふふっ、これ以上したら、俺は我慢出来なくなっちゃうから」
「したいな……」
「優衣ちゃんに『したい』って言ってもらえて、俺はすごく嬉しい。元気になったら、続きをしようね」

 そう言って、また唇を重ねた。

「あの、優衣ちゃん。聞きたいことがある。ダイエットだけど、どうして?」
「ああ……うーん……」

 優衣香の話は、経緯を説明するものだった。
 駅前にジムがあり、そこにほぼ毎日通い、インストラクターの指導の元でトレーニングをして、食事制限もしていたという。ここひと月半の話だ。確かに、そのジムは駅前にあった。黄色い看板が目立っていた。
 俺は、優衣香が目的の為に最短距離を選択する人であることを理解しているし、その選択は尊重すべきことだとも思っている。結果を出す為に、かなりの努力をすることも知っている。
 だが、よりによってなぜ、そのジムなのか。そのジムでなくともいいだろうと、俺は思う。
 だから俺はあえて言う。違う、そうじゃない、と――。

「ねえ、優衣ちゃん。そのジムって、マッチョしかいないジムだよね?」
「うん、だいたいマッチョ」

 ――だから風呂場で筋肉の名称を言ってたんだね。

「……スポーツクラブじゃだめなの? 他には、えっと、ホットヨガ、とか、そういった感じの」
「うーん、そういうのは私に合わないし……」

 優衣香はホットヨガとかやってそうな可愛らしい雰囲気の女性だが、それはあくまでも、そういう雰囲気を演じているだけだ。仕事を含む社会生活において、その方が都合がいいから仕方なくやっているのだ。一種の処世術だろう。
 だが実際の優衣香は、そうではない。
 幼なじみの俺はよく知っている。優衣香は武闘派だと――。


 ◇


 弟の理志さとしとは七歳離れているが、優衣香は理志が産まれた時から知っているから溺愛している。

 理志が俺に遊んで欲しいとやって来ると、俺は遊んであげた。だが男同士だ。高い高いをして少し手を離すとか、足にまとわりつく理志を足で放り投げるとか、理志の腕を掴んで、ぐるぐる回って理志を放り投げるとか、優衣香から見れば危険だと思うことをしていた。
 ぐるぐる回って放り投げるのは三つ上の兄がやってあげていた。庭には、理志が放り投げられても安全なように父が砂場を作っていた。

 理志が三歳だったある日、兄がいない時に理志がそれをせがんできたから、俺はやることにした。
 だが、ぐるぐるしていたものの、手を離すタイミングを間違えて理志がふっ飛んでいってしまった。落ちた先に陶器の植木鉢があって、理志は頭をぶつけた。
 泣き出した理志の元へ駆け寄ろうとした時、優衣香が庭のフェンス越しにそれを見ていることに気づいた。一瞬にして表情を変えた優衣香は門扉経由ではなく、そのフェンスを乗り越えて理志の元へ駆け寄った。約六十センチのブロック塀の上にあるフェンスを乗り越えて来たのだ。

 優衣香は理志を抱き起こして抱きしめた。理志の頭を撫でる優衣香の顔は優しかった。だが俺に向けられた顔は般若だった。
 俺は般若の優衣香が怖くて近寄ることが出来ず、その場で立ち尽くしていると、理志は泣き止んだ。
 泣き止んだ理志から離れた優衣香は、般若のまま俺に向かって来た。

 幼い時から優衣香と取っ組み合いのケンカになるといつも負けていた。優衣香の方が体格がよかったのだ。俺も父と兄と同じように柔道をするつもりだったが、バットを持って追いかけてくる優衣香をどうにかしたくて剣道を選んだ。
 十歳のその頃は、やっと優衣香の背を超えた頃だった。剣道をして体力もついてきていたから、俺は初めて、向かって来た優衣香を突き飛ばした。

 それを理志を探しに来た母が見ていた。
 俺と優衣香が取っ組み合いのケンカをしているのは見慣れた風景だったが、俺が初めて優衣香を突き飛ばしたことに驚いて、母は優衣香に駆け寄った。傍らには泣き腫らした目をした理志がいる。何が起きたのか察した母は俺に手を上げようとしたが、これまでに一度も手を上げたことがなかった母は躊躇して、手がだめなら肘でと考えたのだろう。母は曲げた腕を振り下ろした。

 そこに兄が帰って来た。
 兄が見たものは、頭を両手で押さえる俺、泣き腫らした目をしている理志、土や葉で汚れている優衣香の着衣を手で払っている母、そして、涙をためて唇を引き結んでいる優衣香だった。
 兄も、何が起きたのか察したのだろう。『優衣香ちゃん、大丈夫?』と優しく声をかけると、優衣香は答えた。

敦志あつしお兄ちゃん! 私、強くなりたい!」

 その後、十歳の優衣香が中学一年生で体格もいい柔道をやっている兄を相手に、打倒敬志をスローガンに特訓を始めた。

 母は、『女の子が弱くていい時代は、もうとっくに終わってるわよ』と言っていたが、『違う、そうじゃない』と俺は言いたかったけど、言えなかった。




 
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