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作者: 風森愛
R-15
見上げる夜空
 バーを出て優衣香を駅まで送り、改札口の向こうに姿が見えなくなるまで俺は優衣香を見ていた。優衣香は何度も振り返って、俺を見て、手を振っていた。一ヶ月で三回も会えるなんて今までなかったことだからすごく幸せな気分だ。
 だが、俺は優衣香の姿が見えなくなったら走り出した。
 時刻は午後十時五十三分で、その時には既にジャケットの内ポケットに入れたスマートフォンが震えていた。画面を見ると相澤からたったが、俺は無視して、ただひたすらマンションに向けて走った。

 クリスマスソングが流れる元町商店街。
 白と青の幻想的なイルミネーションが施された街路灯の下を歩く道行く人は、俺の姿を見て避けていく。心の中で詫びながら、俺は走った。


 ◇


 十二月九日 午後十一時二分

 ――二分遅刻だ。クソッ、間に合わなかった。

 マンションのリビングの扉を開けると、捜査員全員が俺を見たが、全員が目線を彷徨わせた。加藤ですら目を伏せた。何かと思ったが、一番奥にいる米田にまずは謝罪せねばと米田を見ると、米田がいない。いない代わりに、奴がいた。

 ――なんでチンパンジーがいるんだよ。

 米田がマンションに来て会議をするからと全力で走って戻ったのになんでチンパンジーがいるんだよ。チンパンジーなら歩いて帰って適当に言い訳すれば済んだじゃないか――。
 そんなことを考えながら須藤さんに近寄って頭を下げた。『遅刻して申し訳ありませんでした』と言ったが、近くにいた武村の生唾を飲み込む音がした。他の捜査員の空気もいつもと違うものだった。須藤さんも何かを言いたくて言い淀んでいる感じで、『いいよ、大丈夫だよ』と優しく言うが、俺はこの場の雰囲気が何なのか不思議に思った。

 コートを脱いで、加藤の右隣にいる相澤の右に俺が座ってから会議は始まった。相澤の視線を感じたが、俺はそれを無視して須藤さんの話に耳を傾けた。

 須藤さんがホワイトボードに書き込んでいる間は、俺はじっと正面にいる女性捜査員を見ていた。彼女の目線に合わせるように椅子に浅く座り直し、椅子の背もたれにもたれた。彼女と目が合うが、彼女は目を伏せてしまう。俺は腕をテーブルに出した。

 ――俺が正面の女とペアを組む、と。ああ、そうですか。

 指先をテーブルに付けてピアノを奏でるような指の動きをすると、相澤、加藤、葉梨、本城の四人が反応した。それぞれ決められたサインを寄越したのを確認してから、俺はまた椅子を座り直して姿勢を正し、指を組んでテーブルに置く。
 彼女はこちらをチラチラ見るが、俺がじっと見たままなことがわかり、次第に彼女の表情が曇っていった。

 ――なんでお前がいるんだよ。

 この女性捜査員は山野やまの花緒里かおりだ。三年前、俺につきまとった女で年齢は二十九歳になったはず。事の詳細は相澤と加藤が知っているし、問題の引き金を引いたのは加藤だ。

 ――また米田から刺客かよ。面倒くせえな。

 須藤さんの説明を聞き終えると通常ならば皆一通り自分の意見を言うが、今日は誰も何も言わない。だが加藤が何かを言おうとして、相澤が制止した。
 俺はそれを横目で見て、山野から目線を外して下を向いて小さく息を吐いた時、加藤が相澤の制止する手を取り、相澤の太ももに落として、口を開いた。
 山野は加藤を見た。加藤が何を言うのか不安なのだろう。
 
「私が松永さんのペアになるのはいけませんか? 山野のペアは相澤でどうでしょうか」

 加藤は続けて、ハイヒールを履くと相澤の背を超えてしまい、低い靴だと服装と靴がちぐはぐになり違和感を持たれることから、背の高い俺と組みたいと言ったが、話している間、加藤は相澤の手の甲に触れて指先に力を込めていた。
 暗に背が低いと言われた相澤だったが、加藤の意図は当然理解していて、『俺も山野の方がちっちゃいからペア替えしたいです』と言った。
 相澤は右手人差し指で加藤の手のひらに二回触れて離し、それを受けた加藤は相澤の手をそっと二回、触れて手を離した。
 山野は落胆を隠そうとしているが、俺にはわかる。相澤も気づいたようだ。

「あー、まあ、そう言うことなら……でもな……」

 須藤さんはそう言いながら、俺を見た。目線が合い、俺は須藤さんが言いたいであろうことを口にした。

「米田さんが、山野は俺にと言ったんですよね。でしたら俺は従うだけです。どうぞ、そのままで結構です。俺は、従うだけですから」

 そう言って、指を組んでいる右手の親指で三回、左手親指の爪に触れた。
 それを横目で見ていた相澤と加藤は同時にテーブルの上に手を置いた。加藤は組んだ指をテーブル手前に置いて、相澤は手のひらをテーブルに付けて腕を伸ばして壁と天井の境目を見た。それを受けて、反社は腕組みをして椅子にもたれて、葉梨は太ももに手を置いて下を向いた。

 ――反対が一人、いる。


 ◇


 会議終了後、須藤さんと俺、相澤と加藤だけで外へ出ることになった。
 葉梨も本城は俺と山野の件を直接は知らないが、噂は耳にしているだろう。
 二人は野川が俺を尾行したことはもちろん知っているし、野川は米田の刺客だということも知っている。そしてまた、女性捜査員が来た。
 皆わかっている。山野やまの花緒里かおりは野川里奈より厄介だ、と。

 加藤は本城と葉梨とで何かを話していたが、葉梨は眉根を寄せた。目つきも変わった。
 加藤が話し終えると二人は加藤に頭を下げたが、二人に背を向けてこちらにやって来る加藤は、歯を噛み締めていた。


 ◇


 午後十一時四十六分

 捜査員用のマンションがあるブロックは一周五分だ。隣のブロックと合わせて、マンションの部屋に戻るまでの十五分間を歩きながら四人で打ち合わせをすることになった。
 内容はもちろん山野のことだ。
 須藤さんは俺の兄と同期だが、兄と違って出世を選んだ。兄とは高校時代から友達で親しく、弟の俺のことを目に掛けてくれている。

「山野だけど、俺はもう一回、米田に言う。だって敬志がこれじゃ――」

 俺は一時間前まで優衣香と一緒にいた。
 たった一時間でこんな状況になってしまった。
 葉梨と一緒に署へ行った時、捜査員の補充があるとは言われたが、それがまさか山野花緒里だとは思いもしなかった。

 俺は一時間前まで幸せだったのに。
 優衣香を抱きしめてキスして手を繋いでバーに行って、俺が頼んだペンネ・アラビアータはいつもよりすっごく辛かったけど、優衣香が一口食べたいと言うから俺があーんしてあげたら優衣香が笑ったから辛さなんてどうでもよくなったし、ペンネ一つでも辛かったらしくて優衣香の鼻の頭にうっすら汗が浮いたのも可愛くて、食後にはオランジェットを優衣香が俺にあーんしてくれてすっごく嬉しくて、俺が笑ったら優衣香も笑って幸せだった。

 バーの帰り道は優衣香とまたおてて繋いでルンルン気分で信号待ちでまたチューして、駅ではウッキウキで優衣香の姿を見送っていたのになんでこんなことになったんだ。
 でも俺は優衣香をギューしてチューしたからあと一週間は寝なくても平気だ。多分俺は、優衣香を抱いたら一ヶ月は寝なくてもイケると思う。いやイケるってそういう意味じゃないけど、でもまあ思い出したら絶対にイケる。自信ある。だってこの前ベッドで薄い布越しに優衣香の肌身の柔らかさを初めて知っただけで俺、それだけで俺、って違う、そうじゃない。俺は優衣香を抱いたら俺は一ヶ月は寝なくて――。

「――さん! なが――、松永さん!」
「んっ? 何?」

 ――ごめん、一ミリも聞いてなかった。

 須藤さんと相澤、そして加藤の顔を見ると、全員揃って同じ顔をしていた。

 ――もしかして憐憫の眼差しかな?

「あの……すみません、お話をもう一度、お願い出来ますか?」

 そう須藤さんに言うと、溜め息を吐かれた。二日休んで気力と体力を回復させて来いと言う。話が全く読めず、どういう意味なのか問うと、また三人は憐憫の眼差しを俺に向けてきた。
 話を総合すると、俺は優衣香の事件の後に署で暴れた時と似たような目つき顔つきをしているという。疲労と睡眠不足が原因なのだろうが、そこに山野が関わることでまたあの状態になられても困るから、山野とペアは外すように米田に言ってやるし、とにかく二日休め、とのことだった。

「大丈夫です。ご心配には及びません」
「でもさ、ちょっと、敬志……お前さ……」

 俺は優衣香とルンルン気分でキャッキャウフフしてウッキウキだったが、その緩んだ顔にプラスして米田に頭を下げなくてはならないことが腹立たしくて顔に出たとは思っていた。それにインテリヤクザのはずがチンパンジーがいて、安心したと同時にチンパンジーの顔が少しムカついて、捜査員の中に山野花緒里がいることに気づいて、激憤とまではいかないが、それに近い怒りを抱いたのは確かだ。それに夏前からの疲労の蓄積と連日の睡眠不足がある。

 ――うん、凄い目つきと顔つきになるな、それ。

「大丈夫ですよ、睡眠不足は俺だけではありませんし――」

 ――でも! 優衣香と会った後に米田のことを考えると休みが貰えるんだね! ぼくいいこと聞いた!

「――そう言って下さるなら、まず加藤を先に休ませてあげて下さい」

 俺どころか全員が睡眠不足だが、加藤は唯一の女性捜査員で気苦労も多く、ちょっと健康状態がよくない状態だと俺は思っている。
 というのも、昨夜俺は加藤と話している最中に一瞬で寝落ちしたが、通常であれば手の甲で俺の頬をフルスイングか裏拳をお見舞いする加藤が、肩を優しく揺すったのだ。加藤は正常な判断が出来なくなっている。
 おそらく女性の体のことだろう。詳細はわからないが、連続した睡眠で回復出来るだろうと思う。須藤さんはマンションに来て、加藤を見て俺と同じように思ったようで、加藤に『自宅で連続した睡眠』を取れという命令が出された。
 加藤は俺と須藤を交互に見たが、少し、安堵の表情を浮かべた。

「俺は少し長めの仮眠を取れば回復出来ます。捜査員が一人増えましたから、余力が出来ましたし」
「そうか?……で、あの、山野のことなんだけとさ……」

 山野は俺の件で他の所轄に行った。その後は仕事も真面目にやっているという。だが、須藤さんが思うにまだ俺に気があるのではと言う。

「どうすればいいんでしょうか。そんな山野とペア組むとロクなこと起きないと思います。米田さんはそれが狙いなんでしょうけど」
「私はハイヒールを履きたいです」
「俺はちっちゃい山野がいいです」
「うーん……じゃあさ、加藤は敬志と相澤と組んで、ハイヒールは二回に一回、ってのはどうかな。山野のペアは葉梨と相澤も加えて、三人の日替わりでやれ。それで何かあったら俺がなんとかするから」

 ベストではないが、ベターな選択だと思う。葉梨は単独行動で結果を上げている。女連れだと若干、厄介だ。俺と山野の接点を減らすために葉梨にそうさせるのは悪いなと考えていたら、歩きながら話す俺たちの空気が変わったことに気づいた。
 背筋が寒くなったのだ。マフラーもなくて頭の下半分は短い髪で寒いものは寒いのだが、これはなんだろうか。それは俺の後ろから発せられてるような気がした。
 俺は恐る恐る後ろを見ると、加藤の隣にいた相澤も不穏な空気を感じたのか、後退りして加藤から離れていた。

 ――やだっ! 般若の面を付けた狂犬がいる!

 そういえば般若の面って女の嫉妬と恨みを表現した面だったなと思いながら、優衣香の笑顔を思い出そうと空を見上げた。お星さまキレイ……。

 ――優衣ちゃん、ぼくお仕事がんばるから、次こそはこの前の続きしようね。

 俺は、二日間の休みを貰えないか、もう一度頼んでみようと思った。




 
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