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作者: 風森愛
R-15
幕間 秒で終わる恋
『お待たせいたしました』と、目の前に置かれたカップから立ち上る湯気の向こうで彼女が笑う。

 ――今日も、可愛い笑顔だね。

 店内を流れるジャズピアノの曲を聴きながら、慣れた手つきで俺の前に皿を置く彼女を見ていた。俺はいつも通り、ブレンドコーヒーを口に含んでその味を楽しんだ後、サンドウィッチに手を伸ばす。卵とレタス、トマトを挟んだだけのシンプルなものだけれど、それが一番美味しい食べ方だと彼女が教えてくれた。

 パンの端をかじり取り、口の中に広がる瑞々しい野菜の食感を感じながら、俺はゆっくりと咀嚼して飲み込んだ。満足感に浸りつつ、再びコーヒーを口に含む。

 窓の外を見ると、街路樹が色づいていることに気がつき、季節の移り変わりを感じた。そっと視線を上げれば、窓から見える景色の中に彼女の姿があった。店ののぼりが倒れたようで、直しているよう――

「痛たたたたっ!! やめっ! 痛っ! やめて!」
「本城さ、あんた私のことガン無視してない?」

 隣にいる女性は加藤奈緒、俺の先輩だ。俺のサンドウイッチを食べながら俺の耳をつねっている。
 昼時の客足が捌けたこの時刻を狙って俺は彼女に会いに来店しているが、今日は加藤さんがなぜかついてきた。念のため言っておくが、俺は誘っていない。絶対に。

「耳つねるのやめて下さい」
「じゃあ無視しないでよ」
「あの、なんで隣にいるんですか」
「ついてきたから」
「なんでついてきたんですか」
「本城はあの子のこと気になってるんでしょ?」

 なぜバレているのだろうか。なぜバレているのだろうか。あまりに動揺しすぎて俺は同じ言葉を二度も心の中で言ってしまった――。

 確かに彼女は気になっているけども……。
 そんな俺の心を見透かすように加藤さんはニヤリと笑った。加藤さんは笑わない方がいいタイプの美人――。

「あんた今何考えてた?」
「何も考えてないです何も考えてないです」


 ◇


 加藤さんは俺がこの喫茶店から署に戻って来ると、顔つきが違うから何かあるのだと思ったと言う。

「デレた顔じゃマズいからキリッとした顔して誤魔化してるつもりだろうけど、デレてるよ」

 彼女との出会いは三ヶ月程前だった。
 署の隣にはコンビニがあるが、サンドウイッチを買いに行ったらなかった。悲しかった。
 サンドウイッチが食べたくて行ったのになかったから、昆布のおにぎりを買って出てきた。悲しかった。
 でもやっぱりサンドウイッチが食べたくて、署から徒歩数分のこの喫茶店に初めて入った。

 店内は落ち着いた雰囲気で、見た目が反社の俺が入店すると彼女はびっくりした顔をしていた。
 反社ヅラの俺にとっては日常茶飯事だが、カウンター席に通された俺は笑顔でサンドウイッチとコーヒーを注文すると、彼女が笑った。

 キミの瞳を、逮捕する――。

 その瞬間、俺は恋に落ちた。
 それから俺は週に一度のペースでこの喫茶店に通っている。
 彼女は俺と同じくらいの歳だと思う。左手薬指には指輪をしていない。独身だ――。
 いつかデートに誘ってみようと思うが、そんなことを言い出せるわけもなく……。
 彼女の名前すら知らない俺は、淡い恋心を抱いて今日も彼女へ会いにこの喫茶店へ来た。なのに加藤さんがついてきた。それに加藤さんは時間のかかるグラタンを注文したから俺のサンドウイッチを食べている。

「なくなっちゃうじゃないですか」
「もう一個頼めばー?」
「……そうですね」

 店内に戻って来た彼女は、カウンターの向こうで手を洗っていた。

「すいません、サンドウイッチをもう一つ下さい」

 振り向いた彼女は笑顔で応じる。

 キミの可愛い笑顔を再逮捕――。

 隣の加藤さんの視線が突き刺さる。俺は緩む頬に力を入れて、伝票をキッチンに持っていった彼女を見ていたが、グラタンを持ってカウンターに戻って来た。

「お待たせしました。熱いので気をつけて下さいね」
「はーい。あの湯川さん、聞きたいことがあるんですけど」
「えっ? はい、なんでしょう?」

 ――加藤さん、なんで彼女の名前を知ってるの?

「ご主人は元気にしてる?」
「ええ、おかげさまで」

 ――俺の恋が秒で終わった。俺の恋が秒で終わった。

 俺の恋が――。
 彼女は既婚者だったのか。ショックだったが、『彼女が幸せならオッケーです』をモットーに生きている俺は、いいじゃないかと思い直すことにした。

 ――既婚者じゃ、どうにもならねえよ。

 俺は女性職員から女衒ぜげんと陰で呼ばれている先輩の間宮さんに合コンをセッティングしてもらおうと思った。


 ◇


 テーブル席の客がレジに行き、彼女がその応対のためにカウンターから出ていったのを横目に、加藤さんに話かけた。

「あの、加藤さん」
「なにー?」
「なんで彼女のことを知ってるんですか?」
「従兄弟の奥さんだから」

 ――マジかよ。うっかり手を出さなくて本当によかった。あぶねー!

 加藤さんは彼女の出勤日を把握していて、時間があれば来ていたという。俺が初めてここに来店した時、窓の外から加藤さんは俺を見ていたそうだ。

「もうさ、一瞬で恋に落ちたってわかったよ」

 笑いを堪えながら話す加藤さんに俺は何も言えなかった。あの日俺はサンドウイッチが食べたかっただけなのに――。

「あんたが彼女に変なことしないか心配してたけど、あんたは何もしなかったね。えらいえらい」
「あー、まあ……ねえ?」
「んふふっ……」

 俺をちらちら見ながら笑う加藤さんはまだ何か隠してる、俺はそう思った。

「……なんすか?」
「彼女、元同業だよ」
「えっ!? あの、警視庁ウチですか?」
「ううん、違うよ」

 加藤さんの従兄弟は農林水産省勤めで、ご主人の転勤に伴い彼女は警察を辞めたそうだ。

「もうね、辞めて五年だから、警察官サツカンの雰囲気はほぼゼロになったし、あんたが気づかなかったのも仕方ない」
「そうですか……」

 その時、彼女がサンドウイッチを持ってカウンターにやって来た。

「湯川さん、こいつに言っといたからね」
「えっ、あー、ふふっ」

 ――彼女に俺の恋心はバレていたのか。

「すいません……」
「えっ、いいんです! あの、でも……」

 言い淀んだ彼女に、加藤さんは促した。

「私が元同業だと気づかれなかったことが嬉しかったです」

 彼女は、警察官に元同業だと気づかれなかったことで、やっと警察から開放されたのだと思ったそうだ。

 ――大変だったんですね、わかります。

 警察官には向き不向きがある。それは体力の話ではない。市民はニュースになった事件事故しか知らないが、全ての事件事故を知る俺たちはメンタルが削がれる。そこで脱落する者もいる。それに警察は組織だ。組織を守るために目を瞑る必要もある。正義感を持って警察官を拝命しても、その現実に耐えられない者もいる。
 彼女はどういう意味でそう言ったのかはわからないが、彼女はやっと開放されて、『普通の女性』に戻れたわけだ。
 そして、警察官のままの俺は失恋した、と。あの日俺はサンドウイッチが食べたかっただけなのに――。


 ◇


 喫茶店からの帰り道、加藤さんは交通捜査課の福岡が合コンで一人足りないと言っていたと言った。

「加藤さんって、そういう情報よく持ってますよね」
「うん」
「なんでなんですか?」
「言えなーい」

 誤魔化す加藤さんは早歩きで俺を置いていくが、署の隣のコンビニ手前で立ち止まった。

「どうしました?」
「ほら、間宮さん……ふふっ、間宮さんも合コンの手持ちはいくつかあるし、間宮さんに相談しなよ」

 ――なんで手持ちの合コンまで知ってるんですか。

 あの日、俺はサンドウイッチが食べたかっただけなのに恋が秒で終わり、そして先輩に合コンを把握されている――。

 ――警察官になりたかったけど、警察官になるんじゃなかった。

 誰にも知られない恋をしたいと、俺は思った。でも交際の報告はしなきゃいけないから絶対に、無理――。




 
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