キミのことが分からない その7
「みんな好調だな」
これまで静かだった海藤さんが口を開いた。多分、次の笹木さんに不安があるからだろう。
笹木美鶴。
商店街に訪れる常連さん。巻き込まれただけなのに必死になっている印象が強い。元からの性格なのだろうが自分を追い込みすぎる気質にあるみたいな大学生。
短いながらも選手だった時期があるので基礎がしっかりとしていて教えるのも楽だった。そんな笹木さんも自分の中で気になるところが多いらしくて質問は多かった。その熱量は川島くん以上。そうなったのは話しかけてきた海藤さんとの事故がきっかけだった。
「海藤さんも足がそれだけよくなってるのなら、出たかったんじゃありませんか? 身体うずきません。俺も出せぇって」
「バカ言え。俺なんか出る幕はないよ。観客の盛り上がりなんて去年と大違いじゃねぇか」
「そうですね。みんなの気持ちが伝わってるんですよきっと」
「上里くんてそう言うの嫌味っぽくなく聞こえるのなんで?」
「なんですかそれ。バカにしてます?」
「してないよ。それより美鶴ちゃんはどうだい」
やっぱり。そう心の中で納得しながら、最近の練習を思い返す。
「相変わらず力が入りっぱなしですが、随分と演技は安定してきました。目指す方向が決まっているって言うのもいいもんですね。指導するのも楽です」
「目指す方向って言うと琥珀ちゃんのことかい?」
「ええ。あなまり前のめりなんで心配してましたけど、それも随分と落ち着いてきたみたいです。海藤さんなにか話しました?」
「まあな。ずっと申し訳なさそうにしてるから。もっと楽しんでいいじゃないかって言ったみたんだ。驚いてたぜ。まったくその発想がなかったってな」
「彼女らしいですね」
「ああ。そうだな。でもなんかすっきりしたみたいだぜ」
そのタイミングで曲が止まる。笹木さんも近くにスタンバイしているのだが、大音量でかき消されるだろうと普通に話をしていた。係員に促され氷の上に移動するとそのままこちらへやってくる。
「笹木さん緊張してますか?」
曲が止まると急に声が通るようになる。それを聞いてこくりと笹木さんが頷いた。ボリュームのあるスカートがその動きに合わせてふわりと膨らむ。立花さんと同じ感じがいいんですが。そんな要望もあったのだけれど、チーム内で同じような衣装ばかりというものよくないと立花さんが説得してくれた。
明るめの青を基調としている衣装は腰のあたりの大きな花の刺繡があしらわれている。立花さんのおさがりだ。それも笹木さんが納得した大きな理由だ。
「何度か経験はあるはずなんですけどね」
そう続ける笹木さんは恥ずかしそうにしている。経験があるからこそ、より緊張してしまっているのかもしれない。それが小さいころなら余計に染みついてしまっている。
「なんどやったって慣れるもんじゃねえよ。な、上里くん。そんなことより楽しんでこいって。そんなんじゃ、うまく滑れねぇぞ」
「海藤さん……はい。ありがとうございます」
『続きまして、三番滑走。笹木美鶴さん。栄口南商店街』
アナウンスが流れる。笹木さんの顔がちょっとだけこわばった。
「美鶴ー。楽しんでいこー!」
アナウンスに続いて観客から大きな声が響いた。
「ちょっと、まだ出てきてないでしょ。静かにしてってば。恥ずかしい」
それを止めている声もまあまあ大きくてこちらまで聞こえてくる。
「友達ですか?」
「そうです。私より気合入ってるんですよ。そういえば私にあれやってくれるんですよね」
そう口にする表情は随分と穏やかになっていて。友達さまさまだなと思う。
笹木さんはくるりとその場で半回転。背中を向けて上を見上げている。ちょっと視線を下げているのはその辺りの観客席に友達がいるのかもしれない。
肩に手を置くかどうか悩んでたら芳樹より大きな手が笹木さんの左肩に乗った。海藤さんだ。
「美鶴ちゃんよ。さっきありがとうございますって言ったけど。お礼を言いたいのは俺の方なんだ。無茶なお願いして、余計なもんまで背負わせたのに、ここまで付き合ってくれてありがとうな」
その海藤さんの言葉だけで十分だと思った。芳樹が余計なことを言う必要はない。
「そうですね。後は心を込めて楽しんできてください。それで十分です」
その言葉に笹木さんはコクリと頷いてスタート地点へ向かう。
「美鶴かわいいよー」「美鶴ちゃん頑張ってー!」
先ほどの友人たちだろうか。ひときわ大きな声援が目立つ。それに手を振って返すくらいの余裕はあるし、もしかしたらワクワクしてるのかもしれない。笹木さんの滑り出す足がいつもより軽く見える。
曲は有名な選手が使用するクラシック曲だ。序盤のリズムを取ってしっかりと滑るパートと中盤からのしっとりと魅せるパートに分かれる。正直なところ笹木さんには難しいと曲だと最初は頭を悩ませた。それでも笹木さんの要望を断ることはできなかった。
立花さんが選手時代に使用していた曲。
傍から見ていてもその影響ぶりは大きすぎると思っていた。見ていて不安になるくらいに。
リズムに乗ったままジャンプを次々と決めていく。経験者らしく一回転に不安要素はない。あるとすれば一回転半するアクセルジャンプと難易度を上げたスピンくらいだ。
どちらも曲のフィニッシュの部分だ。失敗すると演技全体の締まりがなくなる。その分、難易度も上がるのだけれど笹木さんはどうしてもこの構成にしたいとお願いしてきた。ちょっとでも盛り上げたいから。海藤さんが怪我をして対抗戦に出場できないと決まった後だった。
追い詰められているようにも見えた。だから最初は芳樹も承諾することはしなかった。それでも笹木さんは諦めなかった。これまで以上に練習をするからと懇願し続けたのだ。
どうしてそこまでするのか。
あまりに折れない笹木さんに思わず聞いてしまった。海藤さんの事を気にしている
のであれば本気で説得しようと思ったし、海藤に出てきてもらう必要も感じていからだ。
でも彼女から聞けた話は思いがけないものだった。
『最初は琥珀さんみたいになりたいとか、海藤さんに申し訳ないとか。そんなことばっかり考えてたんです。でもそうじゃないなって。私、今楽しいんです。久しぶりに夢中になれるものを見つけられたっていうか。やらなきゃいけないことは他にもたくさんあるんですど。今はスケートをやり切りたいなって。それが出来ればなにか変わるんじゃないかって。まあ、友達に言われたからなんですけど』
そう言い切った後の笹木さんはすっきりした顔をしていた。そんな顔をされたんじゃ断れっこない。
順調に笹木さん演技は進んでいる。半分ほど過ぎた後、曲調がスローテンポに切り替わる。さあ、ここからが本番と言ってもいい。
疲れているはずなのにスピードを上げていく。速ければいいと言うものでもないのだけれど、気持ちは分かる。それに笹木さんは笑っていた。
キレイにバックに切り替えるとアクセルジャンプの準備に入る。右足で滑りながら次に滑り出すために体をひねりながら左足を体の中心へと移動させる。その動きは立花さんそっくりだ。ずっと視線で追っている間にすっかり似てしまった。
でも真似ている相手が相手だ。それはすなわち、あれだけ上手な滑りをトレースできているってことで。
踏み込んだ左足に力強さがみなぎっているように見えた。後ろから振り上げる右足もちゃんと動いている。踏み切った笹木さんが宙へ舞う。くるりと回る。たった半回転増えただけなのに、一回転より回転している印象が随分と強くなる。
だから、着地に成功した時の盛り上がりはこの演技一番だった。その盛り上がりを受けながら最後のスピンへと移る。キャメルスピン。足を上げて頭を下げる。ラクダに見えることから名づけられたこのスピンで彼女はさらに体を反る。左手で右足を掴み引っ張り上げる形で回る。水平にそれを行うことで空から見た時にドーナッツのように見えるそのスピンは身体が柔らかかった笹木さんならではだ。
客席から驚きの声が上がる。さっきまでの滑りからこのスピンが出来るとは思っていなかったのだ。そりゃそうだ。教えていた芳樹だってできると思っていなかった。
ほんと、頑張ったもんな。一番練習の時間を費やしたのがこのスピンだ。
先ほどのジャンプからの流れだ。当然会場も盛り上がり続ける。
「すげぇな」
海藤さんも思わずつぶやいている。あとで笹木さんに教えてあげよう。きっと喜んでくれる。なんだかんだ言ったって吹っ切れる訳ない。海藤さんのことをずっと気にしていた。
「ですね」
そんなおじさんふたりが会話していることなんて知りもしない笹木さんは最後のポーズを決めていた。
これまで静かだった海藤さんが口を開いた。多分、次の笹木さんに不安があるからだろう。
笹木美鶴。
商店街に訪れる常連さん。巻き込まれただけなのに必死になっている印象が強い。元からの性格なのだろうが自分を追い込みすぎる気質にあるみたいな大学生。
短いながらも選手だった時期があるので基礎がしっかりとしていて教えるのも楽だった。そんな笹木さんも自分の中で気になるところが多いらしくて質問は多かった。その熱量は川島くん以上。そうなったのは話しかけてきた海藤さんとの事故がきっかけだった。
「海藤さんも足がそれだけよくなってるのなら、出たかったんじゃありませんか? 身体うずきません。俺も出せぇって」
「バカ言え。俺なんか出る幕はないよ。観客の盛り上がりなんて去年と大違いじゃねぇか」
「そうですね。みんなの気持ちが伝わってるんですよきっと」
「上里くんてそう言うの嫌味っぽくなく聞こえるのなんで?」
「なんですかそれ。バカにしてます?」
「してないよ。それより美鶴ちゃんはどうだい」
やっぱり。そう心の中で納得しながら、最近の練習を思い返す。
「相変わらず力が入りっぱなしですが、随分と演技は安定してきました。目指す方向が決まっているって言うのもいいもんですね。指導するのも楽です」
「目指す方向って言うと琥珀ちゃんのことかい?」
「ええ。あなまり前のめりなんで心配してましたけど、それも随分と落ち着いてきたみたいです。海藤さんなにか話しました?」
「まあな。ずっと申し訳なさそうにしてるから。もっと楽しんでいいじゃないかって言ったみたんだ。驚いてたぜ。まったくその発想がなかったってな」
「彼女らしいですね」
「ああ。そうだな。でもなんかすっきりしたみたいだぜ」
そのタイミングで曲が止まる。笹木さんも近くにスタンバイしているのだが、大音量でかき消されるだろうと普通に話をしていた。係員に促され氷の上に移動するとそのままこちらへやってくる。
「笹木さん緊張してますか?」
曲が止まると急に声が通るようになる。それを聞いてこくりと笹木さんが頷いた。ボリュームのあるスカートがその動きに合わせてふわりと膨らむ。立花さんと同じ感じがいいんですが。そんな要望もあったのだけれど、チーム内で同じような衣装ばかりというものよくないと立花さんが説得してくれた。
明るめの青を基調としている衣装は腰のあたりの大きな花の刺繡があしらわれている。立花さんのおさがりだ。それも笹木さんが納得した大きな理由だ。
「何度か経験はあるはずなんですけどね」
そう続ける笹木さんは恥ずかしそうにしている。経験があるからこそ、より緊張してしまっているのかもしれない。それが小さいころなら余計に染みついてしまっている。
「なんどやったって慣れるもんじゃねえよ。な、上里くん。そんなことより楽しんでこいって。そんなんじゃ、うまく滑れねぇぞ」
「海藤さん……はい。ありがとうございます」
『続きまして、三番滑走。笹木美鶴さん。栄口南商店街』
アナウンスが流れる。笹木さんの顔がちょっとだけこわばった。
「美鶴ー。楽しんでいこー!」
アナウンスに続いて観客から大きな声が響いた。
「ちょっと、まだ出てきてないでしょ。静かにしてってば。恥ずかしい」
それを止めている声もまあまあ大きくてこちらまで聞こえてくる。
「友達ですか?」
「そうです。私より気合入ってるんですよ。そういえば私にあれやってくれるんですよね」
そう口にする表情は随分と穏やかになっていて。友達さまさまだなと思う。
笹木さんはくるりとその場で半回転。背中を向けて上を見上げている。ちょっと視線を下げているのはその辺りの観客席に友達がいるのかもしれない。
肩に手を置くかどうか悩んでたら芳樹より大きな手が笹木さんの左肩に乗った。海藤さんだ。
「美鶴ちゃんよ。さっきありがとうございますって言ったけど。お礼を言いたいのは俺の方なんだ。無茶なお願いして、余計なもんまで背負わせたのに、ここまで付き合ってくれてありがとうな」
その海藤さんの言葉だけで十分だと思った。芳樹が余計なことを言う必要はない。
「そうですね。後は心を込めて楽しんできてください。それで十分です」
その言葉に笹木さんはコクリと頷いてスタート地点へ向かう。
「美鶴かわいいよー」「美鶴ちゃん頑張ってー!」
先ほどの友人たちだろうか。ひときわ大きな声援が目立つ。それに手を振って返すくらいの余裕はあるし、もしかしたらワクワクしてるのかもしれない。笹木さんの滑り出す足がいつもより軽く見える。
曲は有名な選手が使用するクラシック曲だ。序盤のリズムを取ってしっかりと滑るパートと中盤からのしっとりと魅せるパートに分かれる。正直なところ笹木さんには難しいと曲だと最初は頭を悩ませた。それでも笹木さんの要望を断ることはできなかった。
立花さんが選手時代に使用していた曲。
傍から見ていてもその影響ぶりは大きすぎると思っていた。見ていて不安になるくらいに。
リズムに乗ったままジャンプを次々と決めていく。経験者らしく一回転に不安要素はない。あるとすれば一回転半するアクセルジャンプと難易度を上げたスピンくらいだ。
どちらも曲のフィニッシュの部分だ。失敗すると演技全体の締まりがなくなる。その分、難易度も上がるのだけれど笹木さんはどうしてもこの構成にしたいとお願いしてきた。ちょっとでも盛り上げたいから。海藤さんが怪我をして対抗戦に出場できないと決まった後だった。
追い詰められているようにも見えた。だから最初は芳樹も承諾することはしなかった。それでも笹木さんは諦めなかった。これまで以上に練習をするからと懇願し続けたのだ。
どうしてそこまでするのか。
あまりに折れない笹木さんに思わず聞いてしまった。海藤さんの事を気にしている
のであれば本気で説得しようと思ったし、海藤に出てきてもらう必要も感じていからだ。
でも彼女から聞けた話は思いがけないものだった。
『最初は琥珀さんみたいになりたいとか、海藤さんに申し訳ないとか。そんなことばっかり考えてたんです。でもそうじゃないなって。私、今楽しいんです。久しぶりに夢中になれるものを見つけられたっていうか。やらなきゃいけないことは他にもたくさんあるんですど。今はスケートをやり切りたいなって。それが出来ればなにか変わるんじゃないかって。まあ、友達に言われたからなんですけど』
そう言い切った後の笹木さんはすっきりした顔をしていた。そんな顔をされたんじゃ断れっこない。
順調に笹木さん演技は進んでいる。半分ほど過ぎた後、曲調がスローテンポに切り替わる。さあ、ここからが本番と言ってもいい。
疲れているはずなのにスピードを上げていく。速ければいいと言うものでもないのだけれど、気持ちは分かる。それに笹木さんは笑っていた。
キレイにバックに切り替えるとアクセルジャンプの準備に入る。右足で滑りながら次に滑り出すために体をひねりながら左足を体の中心へと移動させる。その動きは立花さんそっくりだ。ずっと視線で追っている間にすっかり似てしまった。
でも真似ている相手が相手だ。それはすなわち、あれだけ上手な滑りをトレースできているってことで。
踏み込んだ左足に力強さがみなぎっているように見えた。後ろから振り上げる右足もちゃんと動いている。踏み切った笹木さんが宙へ舞う。くるりと回る。たった半回転増えただけなのに、一回転より回転している印象が随分と強くなる。
だから、着地に成功した時の盛り上がりはこの演技一番だった。その盛り上がりを受けながら最後のスピンへと移る。キャメルスピン。足を上げて頭を下げる。ラクダに見えることから名づけられたこのスピンで彼女はさらに体を反る。左手で右足を掴み引っ張り上げる形で回る。水平にそれを行うことで空から見た時にドーナッツのように見えるそのスピンは身体が柔らかかった笹木さんならではだ。
客席から驚きの声が上がる。さっきまでの滑りからこのスピンが出来るとは思っていなかったのだ。そりゃそうだ。教えていた芳樹だってできると思っていなかった。
ほんと、頑張ったもんな。一番練習の時間を費やしたのがこのスピンだ。
先ほどのジャンプからの流れだ。当然会場も盛り上がり続ける。
「すげぇな」
海藤さんも思わずつぶやいている。あとで笹木さんに教えてあげよう。きっと喜んでくれる。なんだかんだ言ったって吹っ切れる訳ない。海藤さんのことをずっと気にしていた。
「ですね」
そんなおじさんふたりが会話していることなんて知りもしない笹木さんは最後のポーズを決めていた。