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作者: 霜月かつろう
キミのことが分からない その5
『それでは公式練習を開始してください。栄南口商店街からは立花琥珀さん。本条北商店街からは坂口香澄さん。練習時間となります』

 アナウンスと共にスケートリンクの中に拍手が鳴り響く。音響設備も整っているスケートリンクはそれすらもよく響く。氷の上のふたりとも場慣れしているのか堂々とした滑り出しだ。

「がんばれー」

 優太が隣で大声を出している。特別に入れてもらったのだ。その声援に応えるように立花さんがこちらに向かって手を振っている。余裕そうなその姿はいつもと違って堂々としている。

 そんな立花さんは黒をベースにしたパンツスタイルだ。普段の印象からは想像もできないその姿なのだけれど今はそれがよく映えているし、現役の頃もこれが立花さんの魅力だったのだとすぐに理解できた。

 片方の肩は露出しているように見えるが肌の色に合わせた生地で覆われている。もう片方の黒い生地には星がちりばめられており、天井から降り注ぐ光を反射している。

 立花琥珀。

 今年の対抗戦に置いて彼女の存在は非常に大きかった。栄口南商店街には協力してくれる経験者は少なく、毎年のように知り合いの知り合いに無理を言ってお願いする。そんな形しか取れていなかった。それが突然、コーチまで引き受けてくれて、対抗戦にまで出てくれている。今年一番思いがけなかった出来事だ。

 毎年のようにやる気のないメンバーとそれなりの形に仕上げるだけのつもりだったに。今年は様相が変わった。それが嫌というわけではない。戸惑いが大きいのも確かだ。スケジュールの調整や本業が慌ただしくなったのも間違いない。

 それでも楽しんでいる。それは立花さんも同じみたいだ。

「大丈夫そうですか?」

 他のメンバーよりも気を使う必要はないのだけれど、練習の合間、水分を補給するためにリンクサイドへ戻ってきた立花さんへ声をかける。

「この感覚は久しぶりすぎて落ち着かないですね」

 そういいながら優太くんとじゃれている余裕くらいはあるらしい。舞台化粧をしている立花さんは近づくほどに別人に見える。優太くんも今は気にならないらしいが、最初は戸惑っていた。あまりの変化具合にびっくりしたのだろう。

「ダブルアクセル跳べそうですか?」

 六種類の中で唯一前方向から跳ぶジャンプで、今回立花さんがチャレンジする一番難しいジャンプだ。練習中でさえその成功するのは半分ほど。現役時代であれば失敗することなんてほとんどなかったであろうそのジャンプも数年も滑っていなければそんなものだ。

 三回転ジャンプまでは要求しなかったのは無理をして欲しくなかったからだ。言っても対抗戦。体を壊すような練習はさせられなかった。

「調子いいんでやれますよ。こんな感覚も久し振りです」

 程よい緊張とこれまでの積み重ねが本番前に集中力を最大に高めることがある。体を流れる血液が感じられ、何でもできそうな気がしてくる時があった。おそらく立花さんも今その状態なのだろう。

「頼もしいですね」

 しかし、現役から離れてから随分と経っているのにその感覚に入り込めるというのは流石だ。元々優秀な選手だったのがよく分かる。

「あはは。私これでもここではかっこいいんですよ。じゃ、もうちょっと身体温めてきますね」

 そう言ってスケートリンクの中の方へ向かいジャンプを跳んだ。さきほど言っていたダブルアクセルだ。安定した踏み切りからスケートの流れに沿った力の流れ。身体をコンパクトに纏めるのもスムーズだ。であれば、着地は完璧。

 落ち着いた様子なのが見て取れる。本人の言っている通り調子はいいみたいだ。

『練習時間は残り一分です』

 アナウンスと共に立花さんは戻ってくる。先攻なので残りの時間で息を整えなければならない。

「ママかっこいい!」

 真っ先に迎えたのは優太だ。息切れしている立花さんは息も切れ切れに優太くんを抱き上げている。

「ほら。お母さん出番だから、こっちにおいで」

 そう優太くんを預かったのは笹木さんだ。川島くんと望月くんも一緒だ。練習時間は自分たちの準備をしていたのだけれど、立花さんの出番なので出てきたのだろう。立花さんが終わったら次は自分たちの番だ。緊張しているのが見て取れる。きっと優太くんを受け取ったのもちょっとでも緊張を紛らわしたかったのだろう。

「ありがとね。美鶴ちゃん」

『練習時間終了です。選手のおふたりはリンクサイドにお上がりください』

 立花さんはすぐ次の番だ。上がる必要もないのでそのままこちらをジッと見てきている。不安なのだろうか。

「ちょっと立花さんいいですか。こっちきて後ろ向いてください」
「あ、はい」

 近づくと肩が少しだけ震えているのが分かる。

 緊張しているのか。あまり緊張しすぎると力が入りすぎて上手く行かない。

 自分の生徒たちなら左肩に手を置いて、いつものようにするのだけれど、短い期間。それも露出したように見える肩に手を置くのはよくないんじゃないかと思って止めた。

「じゃあ、上見てください」
「上? あっ。あの眩しいんですけど」

 スケーリンクの上にはライトが吊り下がっている。二階席も吹き抜けであるのもあって天井はずいぶん高いが降り注ぐ光は和らぐどころか選手たちを精一杯照らすように煌々としているのだから当然だ。

「大丈夫です。短い間ですが立花さんはちゃんとやってました。だから心を込めて滑ってきてください」

 言い回しは違えどみんなに必ず伝えている。心を込めて滑って欲しいと。きっと意味はその子それぞれだ。それで構わない。でも滑ることに意味を持ってもらいたい。ずっとそう思っている。

「わかりましたけど。どうして上を見たんですか」
「眩しくて目を閉じたでしょう。それがいいんですよ」

 意味はそんなにありはしない。なんとなくその方がいい気がするだけだ。

『先攻。立花琥珀さん。栄口南商店街』

 アナウンスが流れる。ここから一分以内に曲が流れ始めないとならない。

「それじゃあ。行ってきてください」
「はい」

 優太くんも静かなのはきっとただならぬ緊張感が分かるのだろう。視線だけで立花さんへ合図を送るとスタート地点へ向かって滑り始める。ゆっくりと観客たちにアピールしながらだ。その立花さんに向かって観客席から黄色い声援が飛び交う。

 そのほとんどが商店街の人たち。そして立花さんの教え子たちだ。半分以上がおじさんだったりするのだけれど、人気者って言うのには変わりない。立花さんも嬉しそうだ。

 スタート地点にスッと入ると、一瞬で会場が静まり返った。誰かが息を呑むのが聞こえた。もしかしたら自分のものかもしれない。

 音楽が流れ始めるのと同時に立花さんも動き始める。曲は有名映画のテーマだ。結ばれなかったふたりの恋愛を描いたラブロマンス映画。それを表現するかのようにしっとりとした始まり。しかしそれも第一ジャンプまで。ダブルフィリップからのトゥループのコンビネーションを難なくこなすと。そこからはアップテンポになっていくふたりが体験した恋愛の高揚感を表すように段々とだ。

 立花さんはそれを表現している。現役時代の頃の演目だと聞いているが正直なところ、高校生だった立花さんにそれが表現できていたとは思えない。

 きっといろいろなことがこの短い間にあったのだろう。そう思わせる迫力のある滑りだ。その演技に最初は見惚れて茫然としていた観客も楽しそうに滑る立花さんにだんだんと拍手が盛り上がっていく。

 それに呼応するように立花さんも調子良さそうに加速してく。次もジャンプ。予定ではダブルサルコウ。簡単な部類に入るそのジャンプはバックの左足で滑るのスタートだ。右足は弧を描くように後ろから前に持ってきて自分の身体の前に来たと同じくらいのタイミングで左足に力を込でも、立花さんの様子がおかしい。スピードに乗り過ぎだしどうみても気合が入っている。

 まさかと思ったときには、思いっきり踏み切っている立花さんが見えた。明らかにオーバースピード。全力全霊。それは間違いなくダブル。つまり二回転で収まるものではなくて、気付けば三回転している。そのまま着地を決めてしまった。

 待っていたのはスケートリンクが揺れているかと思うほどの拍手。立花さんの人気だけじゃない。商店街全体のパワーすらも感じさせる。

 それにしても、急にダブルをトリプルに変えちゃうなんてやりすぎだ。確かに現役時代は跳んでいただろうけど。今回はぶっつけ本番だ。失敗するリスクは計り知れない。でも。お祭りみたないなもんだもんな。そう割り切ることにする。なにせ曲は続いているし立花さんは滑り続けている。

 曲が落ち着き始めたところでスピンに入る。コンビネーションスピンは三つあるうちのふたつ以上の姿勢を数秒間保持する見栄えのあるスピンだ。立花さんはキャメル姿勢、シット姿勢、アップライト姿勢のすべてを行う。商店街のメンバーだとアップライト姿勢でしかできないのだがそれが普通だ。

 シット姿勢は座った姿勢。アップライトは立っている姿勢。キャメル姿勢はちょっと難しいのだが、頭と足が水平になるように身体を倒すような姿勢だ。

 ただそれは基本姿勢なだけでそれぞれに応用の形がある。ビールマンスピン辺りは有名なアップライト姿勢だ。

 落ち着いた曲調は映画ではふたりの恋愛に壁が現われ葛藤するところで使われる。その壁を壊せばふたりは結ばれる。しかし、壊してしまえば互いに大切なものを失ってしまうそんな場面だ。

 スピンを無事に終えフィニッシュした立花さんだったけれど、ちょっとした異変が見えてしまって芳樹は途端に動揺する。ほんのひと蹴り。そのひと蹴りが軽くすっぽ抜けた。観客はもちろん気付かないどころか、普段の滑りを観ていなければ関係者だって気付けないレベル。でも先ほどのダブルからトリプルへの変更とこれまでの練習を見ていて嫌な予感につながる。

 あのジャンプで体力を予定より消耗している。ただでさえ久しぶりの演技で消耗が激しいはずなのにあんな無理をしたのだから当然だ。後半の目玉であるダブルアクセルに入ろうとしている中、不安は募る。同時に彼女ならやりきれる。そんな風にも思える。

 ただ見守ることしかできないこの時間はやっぱりどうしようもなくて。ヒヤヒヤする。だいたい昨日の朝に芳樹自身がチャレンジして失敗したもんだから余計にそのイメージが頭に残っている。

 バックになり右足で体を外側に倒して弧を描く。体重移動が終わったら左足をフォアに滑り出す様に置く。踏み切る脚だ。力強くもしっかりと足の裏を意識してもっとも滑る場所にドンピシャに置く。同時に両手と右足は身体の後ろに移動している。それらを左足の踏み切りと同時に前に持っていく。

 タイミングがずれた。体は最も回転する軸から外にズレて遠心力で振り回されそうになる。それを無理やり元の場所へ戻そうとする。それにより回転はするものの恰好のつかない回転となり着地の難易度も跳ね上がる。足に力を込めて着地に備える。

 でもそんなことも振り払うように氷を削る音を立ててしまう。そしてこらえきれずに氷から刃が離れるのが分かった。このまま氷の上に転がるのだ。

 でも転ぶ衝撃はやって来やしない。その代わりにやってきたのは観客からの盛大な拍手だ。

 それは当然で転んだのは芳樹のイメージ。当の本人である立花さんはしっかりと着地を決めている。知らず知らずのうちに力が入っていた全身を脱力すると近くにあった椅子にもたれかかるように座った。

 これだから観てるだけは疲れるのだ。できることが祈ることだけ。あまりにも集中しすぎて入り込んでしまう。選手だったころの方が気は楽だった。

「大丈夫?」

 心配してくれたのはアリスだ。みんなが立花さんに夢中なのにこちらに気付いたらしい。

「ああ。大丈夫だ」

 立花さんでこの状態なのだからアリスの滑走の時はいつだって体力を使う。気が付けば立花さんは最後のスピンに入っていた。クタクタだろうにしっかりとした軸のまま回っている彼女は美しかった。

 結局映画では各々が信じた道を歩む。二度と交わることがないと知りながら。それは立花さんに重なって見えるし、もしかしたら立花さんも自身に重ねているのかもしれない。それくらいに彼女は輝いて見えた。

 最後のポーズを決めた立花さんに向かって鳴りやまない拍手の中、最後の挨拶を観ることもなく一旦休憩室へと戻った。
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