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作者: 霜月かつろう
キミのことが分からない その2
 朝の練習が終われば芳樹はいったん帰宅して、生徒たちの情報をまとめたり大会へのスケージュール調整をしたりと事務的な作業をする。アリスはそのまま登校。小さい頃はあまりに眠そうだったので一緒に送ることも多かったのだがいつのまにか、断られるというか、勝手に行ってしまうことが増えた。

 言葉にしてくれればいいのだけれどアリスは自分でいろいろと溜め込んでしまう傾向にある。それが本人にとって苦ではないらしいし、楽だということらしいのだが。あまりに頼られないのも寂しいものだ。父と娘のふたりきりの生活で負担を掛けまいとしているのではないかと心配にもなる。

「おはようコーチ」

 声を掛けられて始めて商店街に足を踏み入れていることに気付く。考え事をしていたらいつの間にかここまで来ていたらしい。これも朝の日課だ。最初は戸惑いもしたこの挨拶もないと物足りない感じがする。

 栄口南商店街のみんなはとにかく人懐っこい。家に帰るにはこの商店街を通るのが一番の近道なのだが、きっと引っ越してもこの道は寄ってしまう。そんな予感すら生まれている。

「いよいよ、対抗戦だな。頑張ってくれよ」

 そう応援されて、通常業務の隙間にある特別なものがもう目前だと言う事に身震いする。

 コーチになって思ったのは、自分が大会で滑るときよりも生徒が滑っている時の方が緊張すると言う事だ。どうすることもできない。ただ見守ることしかできないその時間は本当に祈ることしかできない。だからいつの間にかおまじないみたいなルーティンも出来上がっていた。

 生徒の左肩に手を置いて少し力を込める。理想のイメージを流し込むように行うその動作は気づけば癖になっていたりもする。

 それが今回は自分の生徒と言っても特別な生徒たち相手なのだ。特に緊張しそうな気配がする。

「ええ。頑張ります。きっと勝てますよ」

 いわゆる商店街のイベントのひとつに過ぎないフィギュアスケート商店街対抗戦に置いてそこまで勝利は重要なものではないのは知っている。現に、これまでの対抗戦で栄口南商店街が勝利を収めたことは一度だってない。まったく妙なイベントを思いついたものだと思うし、よく続いているものだとも思う。

 元選手ひとり。商店街から三人。現役ひとりと言う不思議な構成で行われる対抗戦はそれぞれ相手の商店街と交互に滑ってそれを観客による投票で決められる。なので、それぞれに勝敗が付き五戦終えたところで勝利数の多い商店街の勝利だ

 集計は専用のアプリで行われ、不思議なことに商店街のみんなはそれを使いこなしていたりする。ほんとに対抗戦が好きな商店街なんだなと思う。たまたまスケートをやっていたから関わっているが他にもたくさんの競技が存在するらしい。詳しいくとは聞かないようにしている。聞けば聞くほどに沼に足を踏み入れてしまいそうだったからだ。

 正直、フィギュアスケート部門は期待されていないと思っている。これまでの結果もそうだが、対抗戦相手の北商店街との力の入れようが違う。毎年のように同じコーチが力を入れて取り組んでいる。現役も元選手も層が厚いのもあってシーズンでも調子がいい選手を持ってくることも多い。

 教え子であり抱え込んでいるコーチが多いこともあって元選手も多くの選択肢を持つ。

 商店街も芳樹と同世代の人たちが多いらしく海藤さんなんかと比べれば一回りも下の人たちで、それも前々から出場し続けていることもあっ実力は折り紙付きだ。

 それでも今回は勝てると言い切ってしまうのは、みんなの頑張りの熱量が大きく関係している。

 まったく生徒たちにも見習ってほしいと思うほとだ。

 このところのメンバーたちの熱の入りようは見ていて気持ちがいい。もちろん目標が近いというのが大きい。時間が少なかったというのもある。生徒たちがこのペースで練習に集中してしまったらどこかで挫折してしまいそうなほどだ。だからと言って手を抜いてほしいわけじゃないのだけれど。その辺りの塩梅が難しいのは自分が選手時代から何も変わっていない。

 痛くないはずの足首が痛んだ気がして、つい足を地面に着くのを躊躇ってしまう。

「おっ。どうした?」

 その様子を見られて心配されるが、なんでもないですよと笑顔で返すとホッとしたようだ。

「気を付けてもらわなくちゃ。コーチはここのスターなんだから」

 大袈裟だ。そんなことあるはずもない。最初の頃は否定して周ったがいくらしたところでみんながそう呼ぶのを諦めてくれないので、芳樹の方が折れた。決して悪気分じゃないって言うのも理由のひとつだ。

『あなたはスターだから』

 ただ、どうしたってその声が思い出されて心も痛む。

「ええ。気を付けます」

 いくら気を付けても埋まることのない過去は変わらない。それがちょっとだけでも商店街という皮を被って隠せる気がして、今日も芳樹は商店街を通る。
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