懐かしい景色 その10
まだ昼過ぎの商店街は活気に満ち溢れていた。昼間から酔っ払っている人もちらほらいるが。そこはまあ気にしないでおく。優太も賑やかなのが物珍しいのか首を一生懸命になって左右に動かしている。あいにく優太くらいの歳の子どもがよろこびそうなお店はないんだけどね。
歩いていれば当然のようにだれかから声を掛けられる。それがここに住み始めてしばらくして随分と多くなった気がする。最初からみんな優しかったけれど、それにもまして距離が近くなった感じだ。それは商店街の仕事を色々手伝っているからなのもあるだろうし、対抗戦に対する気持ちがみんなの中で熱を持っているからというのもある。スケート部門で初勝利出来るかもしれない。そんな期待を直接受け取ることもよくあった。
おかげで無事に生活できている。その日暮らしなのは間違いないが朝はスケートリンク。昼間で各お店のお手伝いや商店街全体の雑務。優太なんかは商店街のマスコット扱いされ始めていたりもする。それが満更でもない感じなのだから我が息子ながら大したものであるとも思う。
ん?
見覚えのある後ろ姿に思わず駆け足になる。もちろん優太の歩幅に合わせてだが。優太も見つけたみたいで気が付けば琥珀が引っ張られる側だ。
「アリスちゃん! こんにちわ!」
優太の大きな声でアリスちゃんがこちらに振り向く。長い金髪をなびかせながら振り向くその姿は陳腐な言い方しかできないがとてもキレイだ。
「ん。こんにちわ」
元気な優太に対してあくまでも静かに、落ち着いた様子で返すアリスちゃんは絵になる。
「こんにちわ。アリスちゃん。商店街にいるなんて珍しいね」
アリスちゃんをスケートリンク以外の場所で見るのは初めてだった。
「スケート靴の修繕をお願いしていたから受け取りに来た」
靴の修繕。
使い続ければもちろん皮の部分はよれていくし汚れてもいく。スケートの刃を付けている場所だってネジが緩んだりすれば締め直さなければならない。でもある程度自分でやっていた記憶がある。もっともあのレベルの選手であればシーズンで靴を履き潰すこともあるだろう。それにしたって靴屋さんに頼まないどうにもならないようなことになるのか。
あれ? 靴の修繕ってことは。
「もしかして海藤靴店に行くの?」
こくりとうなずくアリスちゃんは疲れているのか言葉少なくちょっとうとうとしている。
毎日のように朝から練習だものね。かくいう琥珀も当時は眠くて仕方がなかった。当然のように練習後の学校ではうとうとしていた。それで怒られたことも一度や二度じゃない。それくらい時間と情熱をスケートに向けていた。きっとアリスちゃんも同じくらい、いやそれ以上なんだろう。
「いっしょ」
優太がアリスちゃんの手を引っ張るように掴む。アリスちゃんは動じることもなくそれに従って歩き始める。ほんと大人っぽい子だなと思う。まだ小学生だと聞いた。スラリと伸びたその姿はとてもそうは見えない。
「立花コーチはいつまで貸靴で滑るんですか?」
そんなアリスちゃんから話しかけられてちょっとだけ動揺してしまう。それにしても気にしてくれてたんだなという方が大きい。一緒に氷の上にいる時間はほとんどないはずだし、端っこの方にいるだけの琥珀だ。目立たないはずだ。であればとても気になったのであろう。
スケート靴に関しては琥珀としても最初は違和感しかなかった。でもそんな貸靴にも最近はずいぶんと慣れてきてしまっている。滑りにくいことは変わりないし、思い通りに進まないことも多くある。ターンをしようとして刃が氷に思いがけず引っかかってしまうことだってある。でもいまはそれくらいが丁度いい。
「コーチの靴も海藤靴店にあるの?」
「そうじゃないの。実家にあるんだけどね。ちょっと取りに行くタイミングがなくてね」
「そう。でも早くしたほうがいいと思う。妙な癖がつく」
その通りだ。それは分かっている。だから慣れてきただなんて、都合のいい現実逃避でしかない。両親と顔を合わせたくないだけの言い訳を探しているだけだ。きっとそのことをアリスちゃんは気がついている。
スケート靴も当然ながら、それについている刃も貸靴と競技用の靴では異なる。靴にだって刃にだって色々な種類があってそれぞれに合ったものを使う。
貸靴は小心者が滑るためのもの。できるだけ転ばないようになっているし、滑りも悪い。貸靴で演技をしろと言われたら当然断る。出来ないからだ。今は、滑れないこの相手をしているだけだから大きな問題もないが。これから先を考えれば当然、自分の靴がいい。それは分かっているのだが。どうしても足が向いてくれない。
喧嘩して家を飛び出してからもう三年は経つのだ。それから連絡のひとつもしていない。どう思われているのかもわからない。
『そんな生き方して最後に後悔するのは自分自身だよ』
母の言葉が頭から離れたことはない。
後悔。
優太の父親のことを後悔だなんて思ってはいない。ああでもしなければ優太を育てられなかった。
優太を産んだことを後悔したことはない。こうやって元気にはしゃいでる姿を見れるのは本当に幸せなことだ。
フィギュアスケートを辞めたことを後悔したことはない。あのまま続けていたって結果は残せなかったし、なによりも上を目指し続けることが辛かった。
フィギュアスケートを始めたことを後悔したことはある。でも今は後悔していない。今この瞬間を生きて行けているのはフィギュアスケートをしていたからだ。
だったら、自信を持って帰ればいいのだろうか。そう思えど足はあそこを向いてはくれない。自分はどうしたいのだろうか。いくら悩めど、悩み自体が分からず先に進めやしない。
「ついたー」
そんなことを考えている間に海藤靴店と掲げられた看板の下にたどり着いていた。アリスちゃんが優太の相手をしてくれていたので深く考えてしまっていたらしい。思えば最近そうやって考える時間がようやく出来た気がする。優太が生まれてからこれまでそんな時間はなかった。だからこんなにも悩んでいるのか。駆け抜けてきて考える暇すらなかったものな。
「ただいまー」
優太が元気よく海藤さんにあいさつしている。
「おー。優太おかえり。あれ? アリスちゃんも一緒かい。今日の学校帰りって言ってなかったか。ま、いいか。ほら。仕上がってるぜ」
言われてみれば今日は学校がある日じゃないのか。アリスちゃんにも色々あるのだろう。深入りする必要はない。
海藤さんが奥から取り出してきたのはアリスちゃんの白い靴。皮を丁寧に磨いてワックスも付けているのかお店の照明が当たって輝いて見える。ジャンプやスピンをしている間に刃の部分が靴に当たって傷ついたりもするのだけれど、それもキレイに修繕されているように見える。そういえばここ数日アリスちゃんが練習しているところを見ないと思ったのだがそういうことか。
「うん。ありがとうございます。これで練習できる。じゃ、リンク行く」
靴を受け取るとスケート靴専用のその形を模した布の袋に入れるとさっそうとお店を出ていった。
練習するために学校を早退でもしたのか。ここ数日の遅れを取り戻したいのであれば気持ちは分かる。これからシーズンに向けて徐々に調子を上げていかなきゃならないのだろう。時間を無駄にしたくないはずだ。
琥珀もそうだった。でも、小学生のうちからではなかったな流石に。
「うん。優太のことありがとう。練習がんばってね」
自分でもなんて無責任ながんばってねだと思う。
「ママ?」
いけない。また心配させてしまっている。この前泣いてしまったときにもうそういうのは辞めようと決めたのに。出来ていない。
「琥珀ちゃん。大丈夫かい。ここに来てから無理し続けてるんじゃないのか?」
ほら。海藤さんにも早速心配されてる。
「大丈夫ですよ。まだまだがんばらないと」
自然と優太に視線が向かう。優太のためにも。がんばらなきゃいけない。これ以上つらい思いなんてさせたくない。
「そっか。そうだろうけどよ。もうちょっとおじさんたちを頼ってくれてもいいんだぜ」
「ありがとうございます。でも頼ってばっかりじゃ。またおんなじことの繰り返しですから」
海藤さんが何かを言いかけて止めた。ひどいことを言ったのだろう。何も言えなくしてしまった。そうじゃない。海藤さんは良くしてくれているのだ。これ以上負担をかけるようなことをしたくないだけなのだ。
「わかった。わかったよ。でも。ちゃんとつらい時は頼るんだぞ。それが優太のためでもある」
「ええ。分かってます」
分かってる。琥珀はそう自分にいい聞かせ続けている。
歩いていれば当然のようにだれかから声を掛けられる。それがここに住み始めてしばらくして随分と多くなった気がする。最初からみんな優しかったけれど、それにもまして距離が近くなった感じだ。それは商店街の仕事を色々手伝っているからなのもあるだろうし、対抗戦に対する気持ちがみんなの中で熱を持っているからというのもある。スケート部門で初勝利出来るかもしれない。そんな期待を直接受け取ることもよくあった。
おかげで無事に生活できている。その日暮らしなのは間違いないが朝はスケートリンク。昼間で各お店のお手伝いや商店街全体の雑務。優太なんかは商店街のマスコット扱いされ始めていたりもする。それが満更でもない感じなのだから我が息子ながら大したものであるとも思う。
ん?
見覚えのある後ろ姿に思わず駆け足になる。もちろん優太の歩幅に合わせてだが。優太も見つけたみたいで気が付けば琥珀が引っ張られる側だ。
「アリスちゃん! こんにちわ!」
優太の大きな声でアリスちゃんがこちらに振り向く。長い金髪をなびかせながら振り向くその姿は陳腐な言い方しかできないがとてもキレイだ。
「ん。こんにちわ」
元気な優太に対してあくまでも静かに、落ち着いた様子で返すアリスちゃんは絵になる。
「こんにちわ。アリスちゃん。商店街にいるなんて珍しいね」
アリスちゃんをスケートリンク以外の場所で見るのは初めてだった。
「スケート靴の修繕をお願いしていたから受け取りに来た」
靴の修繕。
使い続ければもちろん皮の部分はよれていくし汚れてもいく。スケートの刃を付けている場所だってネジが緩んだりすれば締め直さなければならない。でもある程度自分でやっていた記憶がある。もっともあのレベルの選手であればシーズンで靴を履き潰すこともあるだろう。それにしたって靴屋さんに頼まないどうにもならないようなことになるのか。
あれ? 靴の修繕ってことは。
「もしかして海藤靴店に行くの?」
こくりとうなずくアリスちゃんは疲れているのか言葉少なくちょっとうとうとしている。
毎日のように朝から練習だものね。かくいう琥珀も当時は眠くて仕方がなかった。当然のように練習後の学校ではうとうとしていた。それで怒られたことも一度や二度じゃない。それくらい時間と情熱をスケートに向けていた。きっとアリスちゃんも同じくらい、いやそれ以上なんだろう。
「いっしょ」
優太がアリスちゃんの手を引っ張るように掴む。アリスちゃんは動じることもなくそれに従って歩き始める。ほんと大人っぽい子だなと思う。まだ小学生だと聞いた。スラリと伸びたその姿はとてもそうは見えない。
「立花コーチはいつまで貸靴で滑るんですか?」
そんなアリスちゃんから話しかけられてちょっとだけ動揺してしまう。それにしても気にしてくれてたんだなという方が大きい。一緒に氷の上にいる時間はほとんどないはずだし、端っこの方にいるだけの琥珀だ。目立たないはずだ。であればとても気になったのであろう。
スケート靴に関しては琥珀としても最初は違和感しかなかった。でもそんな貸靴にも最近はずいぶんと慣れてきてしまっている。滑りにくいことは変わりないし、思い通りに進まないことも多くある。ターンをしようとして刃が氷に思いがけず引っかかってしまうことだってある。でもいまはそれくらいが丁度いい。
「コーチの靴も海藤靴店にあるの?」
「そうじゃないの。実家にあるんだけどね。ちょっと取りに行くタイミングがなくてね」
「そう。でも早くしたほうがいいと思う。妙な癖がつく」
その通りだ。それは分かっている。だから慣れてきただなんて、都合のいい現実逃避でしかない。両親と顔を合わせたくないだけの言い訳を探しているだけだ。きっとそのことをアリスちゃんは気がついている。
スケート靴も当然ながら、それについている刃も貸靴と競技用の靴では異なる。靴にだって刃にだって色々な種類があってそれぞれに合ったものを使う。
貸靴は小心者が滑るためのもの。できるだけ転ばないようになっているし、滑りも悪い。貸靴で演技をしろと言われたら当然断る。出来ないからだ。今は、滑れないこの相手をしているだけだから大きな問題もないが。これから先を考えれば当然、自分の靴がいい。それは分かっているのだが。どうしても足が向いてくれない。
喧嘩して家を飛び出してからもう三年は経つのだ。それから連絡のひとつもしていない。どう思われているのかもわからない。
『そんな生き方して最後に後悔するのは自分自身だよ』
母の言葉が頭から離れたことはない。
後悔。
優太の父親のことを後悔だなんて思ってはいない。ああでもしなければ優太を育てられなかった。
優太を産んだことを後悔したことはない。こうやって元気にはしゃいでる姿を見れるのは本当に幸せなことだ。
フィギュアスケートを辞めたことを後悔したことはない。あのまま続けていたって結果は残せなかったし、なによりも上を目指し続けることが辛かった。
フィギュアスケートを始めたことを後悔したことはある。でも今は後悔していない。今この瞬間を生きて行けているのはフィギュアスケートをしていたからだ。
だったら、自信を持って帰ればいいのだろうか。そう思えど足はあそこを向いてはくれない。自分はどうしたいのだろうか。いくら悩めど、悩み自体が分からず先に進めやしない。
「ついたー」
そんなことを考えている間に海藤靴店と掲げられた看板の下にたどり着いていた。アリスちゃんが優太の相手をしてくれていたので深く考えてしまっていたらしい。思えば最近そうやって考える時間がようやく出来た気がする。優太が生まれてからこれまでそんな時間はなかった。だからこんなにも悩んでいるのか。駆け抜けてきて考える暇すらなかったものな。
「ただいまー」
優太が元気よく海藤さんにあいさつしている。
「おー。優太おかえり。あれ? アリスちゃんも一緒かい。今日の学校帰りって言ってなかったか。ま、いいか。ほら。仕上がってるぜ」
言われてみれば今日は学校がある日じゃないのか。アリスちゃんにも色々あるのだろう。深入りする必要はない。
海藤さんが奥から取り出してきたのはアリスちゃんの白い靴。皮を丁寧に磨いてワックスも付けているのかお店の照明が当たって輝いて見える。ジャンプやスピンをしている間に刃の部分が靴に当たって傷ついたりもするのだけれど、それもキレイに修繕されているように見える。そういえばここ数日アリスちゃんが練習しているところを見ないと思ったのだがそういうことか。
「うん。ありがとうございます。これで練習できる。じゃ、リンク行く」
靴を受け取るとスケート靴専用のその形を模した布の袋に入れるとさっそうとお店を出ていった。
練習するために学校を早退でもしたのか。ここ数日の遅れを取り戻したいのであれば気持ちは分かる。これからシーズンに向けて徐々に調子を上げていかなきゃならないのだろう。時間を無駄にしたくないはずだ。
琥珀もそうだった。でも、小学生のうちからではなかったな流石に。
「うん。優太のことありがとう。練習がんばってね」
自分でもなんて無責任ながんばってねだと思う。
「ママ?」
いけない。また心配させてしまっている。この前泣いてしまったときにもうそういうのは辞めようと決めたのに。出来ていない。
「琥珀ちゃん。大丈夫かい。ここに来てから無理し続けてるんじゃないのか?」
ほら。海藤さんにも早速心配されてる。
「大丈夫ですよ。まだまだがんばらないと」
自然と優太に視線が向かう。優太のためにも。がんばらなきゃいけない。これ以上つらい思いなんてさせたくない。
「そっか。そうだろうけどよ。もうちょっとおじさんたちを頼ってくれてもいいんだぜ」
「ありがとうございます。でも頼ってばっかりじゃ。またおんなじことの繰り返しですから」
海藤さんが何かを言いかけて止めた。ひどいことを言ったのだろう。何も言えなくしてしまった。そうじゃない。海藤さんは良くしてくれているのだ。これ以上負担をかけるようなことをしたくないだけなのだ。
「わかった。わかったよ。でも。ちゃんとつらい時は頼るんだぞ。それが優太のためでもある」
「ええ。分かってます」
分かってる。琥珀はそう自分にいい聞かせ続けている。