残酷な描写あり
出会い
「お父さん? お母さん?」
学校から帰り、異様なほど静まり返った我が家に不審な気配を感じ取る。
仄かに香る鉄のような匂い。
いまは夕食時。
母はその準備をしているはずだし、父も今日は仕事を早く切り上げ帰宅しているはずだった。
否、帰宅している。玄関に靴があったのを思い出す。
では何故こんなにも薄暗いのか。
息を潜めているかのように、何も音がしないのか。
「お父、さん……?」
もう一度、父の名を呼ぶ。しかし返事はない。
先ほどから鼻腔を不愉快に刺激している匂いは、ダイニングキッチンから流れてくるようだった。
廊下からの扉は開いたまま。
薄暗いその先を覗き込むように、顔を向けた。
人影は何もない。
漂う鉄の匂いに、かすかに花火のような匂いが混ざっている。
それが意味するところは少女にはわからなかった。だが、この異様な事態が意味することは理解できた。
視線は自然と床を向く。
見つからなければいいという願いは、あっさり裏切られた。動かなくなっている二対の脚。
声をあげようとした瞬間、視界に入る小さな人影。
黒い髪を無造作に束ねた眼鏡の子供だった。
その手には似つかわしくないほど大きい黒塗りの拳銃。
だがそれ以上に、物言わぬ冷たい眼光が少女を射抜き、凍りつかせ、恐怖で悲鳴を上げることさえできなくなった。
襲撃者と思しき黒髪の子供は、無遠慮に少女を眺めてから何も言わずに立ち去った。
少女の名は三夏。
世田谷区で起きた大学医一家惨殺事件の生き残りだった。
そして、三年の月日が流れる。
☀︎ ☀︎ ☀︎
二〇二二年、九月も終わろうというある日。
東京都川手区。
暑さが和らいで涼しくなり始めたその日、十六歳になっていた町谷三夏は日暮里駅から私鉄に乗り換えてすぐのこの地に降り立った。
民家とアパートとマンションが乱立する開発途上地帯。
歴史的に外国人が多く住むこの地区、聞こえてくる言葉も多種多様で日本語はもちろん、韓国語、中国語、ヒンディー語とさまざまだ。
比較的治安も良く静かなこの街には、一つ特色があった。
三夏が歩いてしばらくすると、それに遭遇する。
「猫だらけ!」
目を輝かせて、短い路地に居並ぶキジや三毛の猫を見た。
キャリーケースを引く手を止め、その場に座り込む。
「おいで、猫ちゃん」
だがその呼びかけを無視し、猫は無情にも距離を取った。
その様子がおかしくて、
「ぷっ」
と頭の上で笑ってしまう通りすがり。
恥ずかしい姿を見られた三夏は慌てて顔を上げる。
どうこうするつもりはないが、失礼にも笑った相手の顔は見てやりたかった。
「おーお、残念だったなぁ」
だが、その相手は臆するどころか容赦なく追い討ちをかけてくる。
眼鏡でピアスだらけで、聞き分けのなさそうなコッパーブラウンの髪を無造作に束ねた同年代と思しき少女——それが通りすがりで嘲笑ってきた人物だった。赤いメッシュが風に揺れる。
「よっと」
少女は馴れ馴れしく三夏の隣にしゃがみ込むと
「猫と戯れたいんならさー、焦っちゃダメだよ」
と笑いかけた。
脳裏によぎる過去の惨事。確証はないが、雰囲気も随分違うが、多分この顔は——
「ん? なに?」
「あ、いえ。なんでもないです」
思わず目を逸らした。
もしこいつがあいつであるなら、こちらの真意を悟られるわけにはいかない。
確証を得られるまでは。そう三夏は自分に言い聞かせる。
「ふーん」
肩に登ろうとした猫を降ろしながら、少女は三夏の目をじっと見据える。
隠そうとしているものを全て暴かれてしまうような、そんなプレッシャー。だがいま目を逸らせば、余計怪しまれる。何かに感づかれたかもしれないという三夏の焦りは、次の一言で無造作に踏み潰された。
「三年だ」
「は? ……え、なにが?」
「猫と打ち解けるのにかかった時間だよ」
心臓が激しく脈打つのを知ってか知らずか。
あっけらかんと話を続ける。
「誰かと距離を詰めるのに、一朝一夕というわけにはいかないのだ」
立ち上がると、手に下げていたビニール袋の音が軽やかに響いた。
「アイス溶けちゃうし、あたしもう行くね。ばいばい」
歩き去る姿を、三夏は静かに眺めるしかできなかった。
目的のアパートに到着し、荷物を部屋に置くと三夏はアパートの階段を上がっていく。大家に挨拶するためだ。
インターフォンを鳴らすと、バタバタした足音と共に扉が開いた。
「あーれ、さっきの! どした?」
扉を開けたのは、先ほど猫マウントを取られた派手な髪の少女だった。
よく見れば歯並びが悪く、ギザギザしている。頭頂部は地毛が伸びていて髪がプリン状になっている。身長は三夏の方が少し高かった。
さっきのことは忘れ、礼儀正しく下手に出る。これは何度も何度も頭の中でイメージし、シミュレーションしてきた。
「本日101号室に引っ越してきた町谷三夏と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
と深々頭を下げる。
「へぇ、いまどき珍しいね。あたしは大家の阿良川ミワだよ。よろしくね〜」
三夏にとって、阿良川ミワと名乗った人物の評価は「軽薄」だった。これなら目的を果たせる——
「あ、そだ。お近づきの印に上がってく? 今ならアイスが」
「いえ」
容赦なく遮る。
「まだ片付けなければならない荷物がたくさんありまして。もしよろしければ後日、また改めてお邪魔させていただければと思います」
「ああ、いいよ。いつでもおいで」
笑顔に隠された本心。
——間違いない、こいつだ。やっと見つけた。
それは獲物を狙う狩人。
待ち続けた機会を前に、思わず溢れてしまいそうになる残忍な笑みをひたすらに隠して、三夏は夜を待った。
二三時四〇分すぎ。
夜の静寂に包まれた町は、これから起こるであろう正当な惨殺事件を歓迎しているかのように思えた。
全てを奪われた三夏。
それをしたミワに復讐をする。
そのためだけに、三年もの長く苦しい日々を耐え、待ち続けたのだ。
「これでやっと、私の復讐が終わる」
隣のアパートの階段から、ミワがいるであろう三階の部屋を見下ろした。
人の人生を滅茶苦茶にしておきながら、こいつはこんなところでのうのうとアパート経営なんてしている。情報によれば学校にも行っていない。日々呑気に、働きもせずアイスを齧って生きているのだ。
許せるはずがなかった。
ミワの住む三階のベランダへと飛び移る。
アパートそのものは大きくないが、その敷地を二分して二部屋ずつ用意された階下とは別に、ミワの住むこの三階だけはワンフロアで一つの住居だった。大家の特権とでもいうのだろうか。そういうところも実に腹立たしい。
ベランダのドアの鍵を開け、静かに侵入する。
室内に音は聞こえない。寝ているようだが最大限警戒をしてグロックを取り出した。
そっとドアを閉め、銃の安全装置を外す。薄暗い部屋を見渡すと、侵入したのはどうやらキッチンのようだった。人影はない。
室内戦用にコンパクトに構える。照準器を覗かずともこの距離なら当たる。大事なのは奇襲を受けた時に対処できるかどうかだ。
——バスルームも人影なし。
自分の借りた一◯一号室と比べれば、とんでもないほど広いバスルームだ。黒い壁と黒いバスタブ。
自分から何もかもを奪った相手が優雅で小洒落た生活をしていると思うと、殺意が溢れそうになる。
だが我慢だ、と三夏は自分に言い聞かせた。復讐は、冷静な頭でやらねばならない。
少し進むと階段が見えた。上へと登る階段だ。
——屋上か?
逡巡するのも数秒。まず部屋の探索が先と顔を背けた瞬間だった。
「どこ行くつもりだ町谷ちゃん」
背中から向けられた声に弾かれるように、振り向きざまグロックの引き金を引きまくる。
轟く何発もの銃声。マズルフラッシュで明滅を繰り返す階段。
殺意と憎しみの込められた九ミリは、階段や壁の木を穿つのみで標的を掠めることはなかった。
駆け上ったミワの気配は三夏の頭上から。見上げると同時に彼女は降ってきた。
「ふぎゃっ!」
踏み潰された蛙のような悲鳴をあげる三夏。延髄に膝を落とされ、髪を掴まれた頭は階段に叩きつけられた。
うめく殺し屋に、家主は一言
「しばらく寝てろ!」
と吐き捨て、気絶させるのだった。
しばらくして。
三夏は見知らぬ空間に椅子に座らされた状態で目が覚めた。手は後ろで縛られている。
見れば床も壁も天井もコンクリート。細長い部屋だ。
「ここは」
「起きたか、町谷ちゃん。ここは地下の拷問室だ。ま、普段は秘密の射撃場なんだけど」
不機嫌そうに歩み寄るのはミワ。
「阿良川、ミワ‼︎」
吐き捨てるように名をつぶやいた途端、三夏は平手で頬を殴られた。
「気安く呼び捨てにするな。あたしはこれでもお前より年上だ」
——殺す相手なのに年上ってだけで敬意を払えって? 冗談じゃない……。
そんなことを思うも、ミワの怒りは別のところにあるとすぐに理解した。間髪おかずに捲し立ててきたからだ。
「それに! いつでも来ていいとは言ったけど真夜中にピストルバカスカ撃っていいとは言ってねえ! せめて消音器使うとか考えなかったのかノータリン! 下の階にも人住んでんだぞ、近所迷惑だろーが‼︎ 店子に出ていかれたらどうしてくれる⁉︎ 損害賠償払う覚悟できてんだろーな‼︎」
——……⁉︎
ミワの罵倒はまだ続く。
「それとなんだあの動きは! 素人に毛が生えたみたいな動きしやがって真面目に殺りに来る気あんのかバカタレ‼︎ お前なんか三流もいいとこだ、三夏っていうより三流だ‼︎ よし決めた。お前の名前は今からサンな。三流のサン、三下のサン」
——私を返り討ちにして縛り上げた余裕か。その態度に反吐が出る。
三夏は不屈の意思を示すため、余裕ぶるミワの顔に唾を吐いた。ミワの勢いが一瞬止まる。
「私はお前のような人殺しには絶対に屈さない。私の家族と人生をぶち壊したことを後悔させてやる。たとえお前がこの場から逃げられたとしても、どこまでもどこまでも追い詰めて絶望と恐怖でお前の心をぐちゃぐちゃに破壊してから殺してやる‼︎」
わざわざ言い終わるのを待って、ミワはUSPの銃口を頭に押し当てた。ゴッと音が鳴る。
「いたっ」
「あえて聞くけどさ。お前、今の状況理解ってる?」
「地獄へ堕ちろ、野良犬!」
「あっはー♪ お前の方こそ狂犬そのものじゃねーか! まぁでも、この状況においてなお吠える胆力だけは褒めてやるよ、殺し屋」
「悪党が。偉そうにベラベラと」
思わぬ言葉に一瞬キョトンとなったかと思うと、ミワは腹を抱えて笑い出した。
「な、なにがおかしいッ‼︎」
「いやだって、殺し屋に悪党って言われちゃった。あはははははは、ウケるまじウケるw」
ひとしきり笑った後、三夏に問う。
「お前、復讐するためだけに殺し屋になったのか?」
「だったらなんだ」
「いいか、よく聞け子猫のサンちゃん。お前は殺気を隠すのも下手だし立ち回りも下手くそだ。でもそれ以上に致命的に思い違いをしている」
「は?」
「お前はあたしが善良な市民を殺したとでも思ってんだろうけど、そんなことはない。あたしは殺されるに値するような人間しか殺してないからだ」
その言葉は三夏にとっては許せないものだった。悔しくて歯が軋む。
「偉そうに……。私のお父さんは医者だった。病気を治す善良な人間だった。お前のような奴に、殺される謂れなんてない‼︎」
「あー、思い出した。マチタニ! どっかで聞いたことある名前だと思ってたんだ」
三夏の主張など無視するかのように。
「お前、あのヤブ医者の娘か。【町谷】は母親の旧姓、つまり本名は三河三夏だな? 変な名前、音が被りすぎだろ」
「……失礼な奴。でもそんなことより、私のお父さんを侮辱したことは絶対に許さない」
「いや、ヤブだろ。大学病院教授の地位を使って臓器密売に関わってたんだから。それをヤブと言わずになんと言う」
「は? なにを言って……」
「だからさー。患者の臓器を勝手に摘出して闇市場に流すってやつ。買うのは国内外の金持ちだから、いい金になるらしいんだよね」
それは三夏には寝耳に水であり、到底信じられる話ではなかった。
「ふざけるな‼︎ お父さんがそんなことするわけない! それ以上侮辱を続けて名誉を穢すなら、本気でお前を殺してやる‼︎ その喉掻っ切って汚い舌を引き摺り出したあと、細かく切り刻んで豚の餌にしてやるからな‼︎」
「うーわ、なにその脅し文句。南米のカルテルかよ。映画でも見て勉強したのか?」
興奮する三夏と違い、あくまでミワはマイペースだった。腹立たしさも憎しみも消えはしないが、三夏は次第に格の違いを意識し始める。
「んなことより、あたしは嘘は言ってない。お前のパパは欲に駆られて臓器密売システムを構築した政治家たちを強請ったりなんかしたからあたしに命令が来たんだよ。殺してこいって」
「そんなでたらめを」
「でたらめじゃないっつの‼︎ 事実かどうか確認したいんなら、お前の上司に聞いてみろ!」
「はぁ? うちとなんの関係が」
この時、三夏は自分が誘導尋問にハマったことに気づいていなかった。ミワは確信を持って話を続ける。
「お前、機関の人間だろ? あたしにお前の両親を殺すよう指示を出したのは、ほかでもないその機関なんだよ?」
彼女にとって、それは自分の存在そのものを揺るがす衝撃だった。必死に否定する材料を探そうとするも、ミワは容赦無く追い討ちをかけていく。
「サンちゃんさー、よーく考えてみ? いくら肉親の仇を打ちたいからって、自分の手で直接殺せるように育ててくれるような奇妙な組織が今のこの日本にあると思う? 否。そんなものはない。306機関以外は。んで、あたしもそこ出身な訳」
震える声で三夏は理解したことを口に出す。
「つ、つまり……お父さんとお母さんを殺した期間が、復讐心に駆られた私を拾って……?」
「ま、ひどいマッチポンプだと思うよ。あたしですらちょっと同情しちゃうくらいに」
項垂れる三夏。だが、次の言葉で顔を上げた。
「だからあのあと、こんなクソみたいな組織から抜けたんだけど」
「は? 抜けたって……どうやって? 追っ手は?」
「んー、シンプルな話だよ」
ミワはなんでもないことのようにあっけらかんと続ける。
「トップを直接脅した。言うこと聞かなきゃ殺すぞって。ああいう手合いは自分は虐げる立場だと思ってるからね。ワカラセたのさ」
「ワカラセ……え、こわ……」
「で、ここ三年間は平和に過ごせてたんだけどね。今になって刺客が来るとは」
思い出話をする老人のような表情はあまりにも不釣り合いで、三夏はいよいよこのミワという人間がわからなくなる。
「その事実を知った上であたしを殺したいってんなら全然構わないよ。好きにしな」
「そんなほわほわした顔でする話?」
「ただ、一つお願い。近所迷惑だし店子が怖がって出ていかれるのもマジで困るから銃使うならせめてサプレッサーはつけて。まぁ、お前のような三流に殺されてやるつもりもねえけどな‼︎」
「情緒不安定すぎか‼︎」
思わずツッコむ。
だがそんなことは意に介さず、ミワは静かに話を続けた。
「ただ思うのはさー」
「……なに?」
「こんなクソくだらないマッチポンプに引き摺り込んでくれた張本人に、落とし前をつけさせることが何よりも先決だと思うんだぁ」
声は張っていないものの、その静かな怒りはひしひしと伝わる。
「てわけで、どう?」
「私に、機関潰しを手伝えと? 私を逆にスカウトするつもりね……」
テンションの乱高下に振り回されそうになる。どこまでが本気でどこまでが冗談なのか。その全てが本気だとして、自分で疲れないのだろうか、そんなことを考えるも、大事なのは現在三夏は銃口を突きつけられた状態で誘われていると言うことである。
「そう! 飲み込み早くておねーさん助かっちゃう。で、どう?」
——どう? もなにも……この状況で選択肢なんてないじゃん。
半ば呆れつつ、三夏は提案を受け入れた。
「わかった。騙されたままなのは私もムカつくし、手伝ってあげる。でも少しでもあんたが隙を見せたら容赦なく寝首を搔くから。四六時中警戒して過ごしなさい、このクズ」
「いいねぇいいねぇ! ちょー楽しみにしてるわ!」
歯並びの悪い八重歯を見せながら笑うミワを、三夏は睨みつけている。
少女は、こんなふざけた流れで殺し屋の経営するアパートの住人となった。
——いつか絶対に殺してやる。
学校から帰り、異様なほど静まり返った我が家に不審な気配を感じ取る。
仄かに香る鉄のような匂い。
いまは夕食時。
母はその準備をしているはずだし、父も今日は仕事を早く切り上げ帰宅しているはずだった。
否、帰宅している。玄関に靴があったのを思い出す。
では何故こんなにも薄暗いのか。
息を潜めているかのように、何も音がしないのか。
「お父、さん……?」
もう一度、父の名を呼ぶ。しかし返事はない。
先ほどから鼻腔を不愉快に刺激している匂いは、ダイニングキッチンから流れてくるようだった。
廊下からの扉は開いたまま。
薄暗いその先を覗き込むように、顔を向けた。
人影は何もない。
漂う鉄の匂いに、かすかに花火のような匂いが混ざっている。
それが意味するところは少女にはわからなかった。だが、この異様な事態が意味することは理解できた。
視線は自然と床を向く。
見つからなければいいという願いは、あっさり裏切られた。動かなくなっている二対の脚。
声をあげようとした瞬間、視界に入る小さな人影。
黒い髪を無造作に束ねた眼鏡の子供だった。
その手には似つかわしくないほど大きい黒塗りの拳銃。
だがそれ以上に、物言わぬ冷たい眼光が少女を射抜き、凍りつかせ、恐怖で悲鳴を上げることさえできなくなった。
襲撃者と思しき黒髪の子供は、無遠慮に少女を眺めてから何も言わずに立ち去った。
少女の名は三夏。
世田谷区で起きた大学医一家惨殺事件の生き残りだった。
そして、三年の月日が流れる。
☀︎ ☀︎ ☀︎
二〇二二年、九月も終わろうというある日。
東京都川手区。
暑さが和らいで涼しくなり始めたその日、十六歳になっていた町谷三夏は日暮里駅から私鉄に乗り換えてすぐのこの地に降り立った。
民家とアパートとマンションが乱立する開発途上地帯。
歴史的に外国人が多く住むこの地区、聞こえてくる言葉も多種多様で日本語はもちろん、韓国語、中国語、ヒンディー語とさまざまだ。
比較的治安も良く静かなこの街には、一つ特色があった。
三夏が歩いてしばらくすると、それに遭遇する。
「猫だらけ!」
目を輝かせて、短い路地に居並ぶキジや三毛の猫を見た。
キャリーケースを引く手を止め、その場に座り込む。
「おいで、猫ちゃん」
だがその呼びかけを無視し、猫は無情にも距離を取った。
その様子がおかしくて、
「ぷっ」
と頭の上で笑ってしまう通りすがり。
恥ずかしい姿を見られた三夏は慌てて顔を上げる。
どうこうするつもりはないが、失礼にも笑った相手の顔は見てやりたかった。
「おーお、残念だったなぁ」
だが、その相手は臆するどころか容赦なく追い討ちをかけてくる。
眼鏡でピアスだらけで、聞き分けのなさそうなコッパーブラウンの髪を無造作に束ねた同年代と思しき少女——それが通りすがりで嘲笑ってきた人物だった。赤いメッシュが風に揺れる。
「よっと」
少女は馴れ馴れしく三夏の隣にしゃがみ込むと
「猫と戯れたいんならさー、焦っちゃダメだよ」
と笑いかけた。
脳裏によぎる過去の惨事。確証はないが、雰囲気も随分違うが、多分この顔は——
「ん? なに?」
「あ、いえ。なんでもないです」
思わず目を逸らした。
もしこいつがあいつであるなら、こちらの真意を悟られるわけにはいかない。
確証を得られるまでは。そう三夏は自分に言い聞かせる。
「ふーん」
肩に登ろうとした猫を降ろしながら、少女は三夏の目をじっと見据える。
隠そうとしているものを全て暴かれてしまうような、そんなプレッシャー。だがいま目を逸らせば、余計怪しまれる。何かに感づかれたかもしれないという三夏の焦りは、次の一言で無造作に踏み潰された。
「三年だ」
「は? ……え、なにが?」
「猫と打ち解けるのにかかった時間だよ」
心臓が激しく脈打つのを知ってか知らずか。
あっけらかんと話を続ける。
「誰かと距離を詰めるのに、一朝一夕というわけにはいかないのだ」
立ち上がると、手に下げていたビニール袋の音が軽やかに響いた。
「アイス溶けちゃうし、あたしもう行くね。ばいばい」
歩き去る姿を、三夏は静かに眺めるしかできなかった。
目的のアパートに到着し、荷物を部屋に置くと三夏はアパートの階段を上がっていく。大家に挨拶するためだ。
インターフォンを鳴らすと、バタバタした足音と共に扉が開いた。
「あーれ、さっきの! どした?」
扉を開けたのは、先ほど猫マウントを取られた派手な髪の少女だった。
よく見れば歯並びが悪く、ギザギザしている。頭頂部は地毛が伸びていて髪がプリン状になっている。身長は三夏の方が少し高かった。
さっきのことは忘れ、礼儀正しく下手に出る。これは何度も何度も頭の中でイメージし、シミュレーションしてきた。
「本日101号室に引っ越してきた町谷三夏と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
と深々頭を下げる。
「へぇ、いまどき珍しいね。あたしは大家の阿良川ミワだよ。よろしくね〜」
三夏にとって、阿良川ミワと名乗った人物の評価は「軽薄」だった。これなら目的を果たせる——
「あ、そだ。お近づきの印に上がってく? 今ならアイスが」
「いえ」
容赦なく遮る。
「まだ片付けなければならない荷物がたくさんありまして。もしよろしければ後日、また改めてお邪魔させていただければと思います」
「ああ、いいよ。いつでもおいで」
笑顔に隠された本心。
——間違いない、こいつだ。やっと見つけた。
それは獲物を狙う狩人。
待ち続けた機会を前に、思わず溢れてしまいそうになる残忍な笑みをひたすらに隠して、三夏は夜を待った。
二三時四〇分すぎ。
夜の静寂に包まれた町は、これから起こるであろう正当な惨殺事件を歓迎しているかのように思えた。
全てを奪われた三夏。
それをしたミワに復讐をする。
そのためだけに、三年もの長く苦しい日々を耐え、待ち続けたのだ。
「これでやっと、私の復讐が終わる」
隣のアパートの階段から、ミワがいるであろう三階の部屋を見下ろした。
人の人生を滅茶苦茶にしておきながら、こいつはこんなところでのうのうとアパート経営なんてしている。情報によれば学校にも行っていない。日々呑気に、働きもせずアイスを齧って生きているのだ。
許せるはずがなかった。
ミワの住む三階のベランダへと飛び移る。
アパートそのものは大きくないが、その敷地を二分して二部屋ずつ用意された階下とは別に、ミワの住むこの三階だけはワンフロアで一つの住居だった。大家の特権とでもいうのだろうか。そういうところも実に腹立たしい。
ベランダのドアの鍵を開け、静かに侵入する。
室内に音は聞こえない。寝ているようだが最大限警戒をしてグロックを取り出した。
そっとドアを閉め、銃の安全装置を外す。薄暗い部屋を見渡すと、侵入したのはどうやらキッチンのようだった。人影はない。
室内戦用にコンパクトに構える。照準器を覗かずともこの距離なら当たる。大事なのは奇襲を受けた時に対処できるかどうかだ。
——バスルームも人影なし。
自分の借りた一◯一号室と比べれば、とんでもないほど広いバスルームだ。黒い壁と黒いバスタブ。
自分から何もかもを奪った相手が優雅で小洒落た生活をしていると思うと、殺意が溢れそうになる。
だが我慢だ、と三夏は自分に言い聞かせた。復讐は、冷静な頭でやらねばならない。
少し進むと階段が見えた。上へと登る階段だ。
——屋上か?
逡巡するのも数秒。まず部屋の探索が先と顔を背けた瞬間だった。
「どこ行くつもりだ町谷ちゃん」
背中から向けられた声に弾かれるように、振り向きざまグロックの引き金を引きまくる。
轟く何発もの銃声。マズルフラッシュで明滅を繰り返す階段。
殺意と憎しみの込められた九ミリは、階段や壁の木を穿つのみで標的を掠めることはなかった。
駆け上ったミワの気配は三夏の頭上から。見上げると同時に彼女は降ってきた。
「ふぎゃっ!」
踏み潰された蛙のような悲鳴をあげる三夏。延髄に膝を落とされ、髪を掴まれた頭は階段に叩きつけられた。
うめく殺し屋に、家主は一言
「しばらく寝てろ!」
と吐き捨て、気絶させるのだった。
しばらくして。
三夏は見知らぬ空間に椅子に座らされた状態で目が覚めた。手は後ろで縛られている。
見れば床も壁も天井もコンクリート。細長い部屋だ。
「ここは」
「起きたか、町谷ちゃん。ここは地下の拷問室だ。ま、普段は秘密の射撃場なんだけど」
不機嫌そうに歩み寄るのはミワ。
「阿良川、ミワ‼︎」
吐き捨てるように名をつぶやいた途端、三夏は平手で頬を殴られた。
「気安く呼び捨てにするな。あたしはこれでもお前より年上だ」
——殺す相手なのに年上ってだけで敬意を払えって? 冗談じゃない……。
そんなことを思うも、ミワの怒りは別のところにあるとすぐに理解した。間髪おかずに捲し立ててきたからだ。
「それに! いつでも来ていいとは言ったけど真夜中にピストルバカスカ撃っていいとは言ってねえ! せめて消音器使うとか考えなかったのかノータリン! 下の階にも人住んでんだぞ、近所迷惑だろーが‼︎ 店子に出ていかれたらどうしてくれる⁉︎ 損害賠償払う覚悟できてんだろーな‼︎」
——……⁉︎
ミワの罵倒はまだ続く。
「それとなんだあの動きは! 素人に毛が生えたみたいな動きしやがって真面目に殺りに来る気あんのかバカタレ‼︎ お前なんか三流もいいとこだ、三夏っていうより三流だ‼︎ よし決めた。お前の名前は今からサンな。三流のサン、三下のサン」
——私を返り討ちにして縛り上げた余裕か。その態度に反吐が出る。
三夏は不屈の意思を示すため、余裕ぶるミワの顔に唾を吐いた。ミワの勢いが一瞬止まる。
「私はお前のような人殺しには絶対に屈さない。私の家族と人生をぶち壊したことを後悔させてやる。たとえお前がこの場から逃げられたとしても、どこまでもどこまでも追い詰めて絶望と恐怖でお前の心をぐちゃぐちゃに破壊してから殺してやる‼︎」
わざわざ言い終わるのを待って、ミワはUSPの銃口を頭に押し当てた。ゴッと音が鳴る。
「いたっ」
「あえて聞くけどさ。お前、今の状況理解ってる?」
「地獄へ堕ちろ、野良犬!」
「あっはー♪ お前の方こそ狂犬そのものじゃねーか! まぁでも、この状況においてなお吠える胆力だけは褒めてやるよ、殺し屋」
「悪党が。偉そうにベラベラと」
思わぬ言葉に一瞬キョトンとなったかと思うと、ミワは腹を抱えて笑い出した。
「な、なにがおかしいッ‼︎」
「いやだって、殺し屋に悪党って言われちゃった。あはははははは、ウケるまじウケるw」
ひとしきり笑った後、三夏に問う。
「お前、復讐するためだけに殺し屋になったのか?」
「だったらなんだ」
「いいか、よく聞け子猫のサンちゃん。お前は殺気を隠すのも下手だし立ち回りも下手くそだ。でもそれ以上に致命的に思い違いをしている」
「は?」
「お前はあたしが善良な市民を殺したとでも思ってんだろうけど、そんなことはない。あたしは殺されるに値するような人間しか殺してないからだ」
その言葉は三夏にとっては許せないものだった。悔しくて歯が軋む。
「偉そうに……。私のお父さんは医者だった。病気を治す善良な人間だった。お前のような奴に、殺される謂れなんてない‼︎」
「あー、思い出した。マチタニ! どっかで聞いたことある名前だと思ってたんだ」
三夏の主張など無視するかのように。
「お前、あのヤブ医者の娘か。【町谷】は母親の旧姓、つまり本名は三河三夏だな? 変な名前、音が被りすぎだろ」
「……失礼な奴。でもそんなことより、私のお父さんを侮辱したことは絶対に許さない」
「いや、ヤブだろ。大学病院教授の地位を使って臓器密売に関わってたんだから。それをヤブと言わずになんと言う」
「は? なにを言って……」
「だからさー。患者の臓器を勝手に摘出して闇市場に流すってやつ。買うのは国内外の金持ちだから、いい金になるらしいんだよね」
それは三夏には寝耳に水であり、到底信じられる話ではなかった。
「ふざけるな‼︎ お父さんがそんなことするわけない! それ以上侮辱を続けて名誉を穢すなら、本気でお前を殺してやる‼︎ その喉掻っ切って汚い舌を引き摺り出したあと、細かく切り刻んで豚の餌にしてやるからな‼︎」
「うーわ、なにその脅し文句。南米のカルテルかよ。映画でも見て勉強したのか?」
興奮する三夏と違い、あくまでミワはマイペースだった。腹立たしさも憎しみも消えはしないが、三夏は次第に格の違いを意識し始める。
「んなことより、あたしは嘘は言ってない。お前のパパは欲に駆られて臓器密売システムを構築した政治家たちを強請ったりなんかしたからあたしに命令が来たんだよ。殺してこいって」
「そんなでたらめを」
「でたらめじゃないっつの‼︎ 事実かどうか確認したいんなら、お前の上司に聞いてみろ!」
「はぁ? うちとなんの関係が」
この時、三夏は自分が誘導尋問にハマったことに気づいていなかった。ミワは確信を持って話を続ける。
「お前、機関の人間だろ? あたしにお前の両親を殺すよう指示を出したのは、ほかでもないその機関なんだよ?」
彼女にとって、それは自分の存在そのものを揺るがす衝撃だった。必死に否定する材料を探そうとするも、ミワは容赦無く追い討ちをかけていく。
「サンちゃんさー、よーく考えてみ? いくら肉親の仇を打ちたいからって、自分の手で直接殺せるように育ててくれるような奇妙な組織が今のこの日本にあると思う? 否。そんなものはない。306機関以外は。んで、あたしもそこ出身な訳」
震える声で三夏は理解したことを口に出す。
「つ、つまり……お父さんとお母さんを殺した期間が、復讐心に駆られた私を拾って……?」
「ま、ひどいマッチポンプだと思うよ。あたしですらちょっと同情しちゃうくらいに」
項垂れる三夏。だが、次の言葉で顔を上げた。
「だからあのあと、こんなクソみたいな組織から抜けたんだけど」
「は? 抜けたって……どうやって? 追っ手は?」
「んー、シンプルな話だよ」
ミワはなんでもないことのようにあっけらかんと続ける。
「トップを直接脅した。言うこと聞かなきゃ殺すぞって。ああいう手合いは自分は虐げる立場だと思ってるからね。ワカラセたのさ」
「ワカラセ……え、こわ……」
「で、ここ三年間は平和に過ごせてたんだけどね。今になって刺客が来るとは」
思い出話をする老人のような表情はあまりにも不釣り合いで、三夏はいよいよこのミワという人間がわからなくなる。
「その事実を知った上であたしを殺したいってんなら全然構わないよ。好きにしな」
「そんなほわほわした顔でする話?」
「ただ、一つお願い。近所迷惑だし店子が怖がって出ていかれるのもマジで困るから銃使うならせめてサプレッサーはつけて。まぁ、お前のような三流に殺されてやるつもりもねえけどな‼︎」
「情緒不安定すぎか‼︎」
思わずツッコむ。
だがそんなことは意に介さず、ミワは静かに話を続けた。
「ただ思うのはさー」
「……なに?」
「こんなクソくだらないマッチポンプに引き摺り込んでくれた張本人に、落とし前をつけさせることが何よりも先決だと思うんだぁ」
声は張っていないものの、その静かな怒りはひしひしと伝わる。
「てわけで、どう?」
「私に、機関潰しを手伝えと? 私を逆にスカウトするつもりね……」
テンションの乱高下に振り回されそうになる。どこまでが本気でどこまでが冗談なのか。その全てが本気だとして、自分で疲れないのだろうか、そんなことを考えるも、大事なのは現在三夏は銃口を突きつけられた状態で誘われていると言うことである。
「そう! 飲み込み早くておねーさん助かっちゃう。で、どう?」
——どう? もなにも……この状況で選択肢なんてないじゃん。
半ば呆れつつ、三夏は提案を受け入れた。
「わかった。騙されたままなのは私もムカつくし、手伝ってあげる。でも少しでもあんたが隙を見せたら容赦なく寝首を搔くから。四六時中警戒して過ごしなさい、このクズ」
「いいねぇいいねぇ! ちょー楽しみにしてるわ!」
歯並びの悪い八重歯を見せながら笑うミワを、三夏は睨みつけている。
少女は、こんなふざけた流れで殺し屋の経営するアパートの住人となった。
——いつか絶対に殺してやる。
次回、第一章【ヒットアンドステイ】