9.穏やかな、かどわかし 5
密閉した空間は重苦しい。
心細さにぼんやりと天井を見上げて、瞬きをして目を閉じる。
時間が経っていく。何分、何十分、どれくらい経つのだろう。
ちかちかと、目蓋の裏に光が瞬いた気がした。
息を潜めて、身を縮こめる。
まとわりつく湿った空気を吸い込めば、どこまでも落ちていきそうな感覚を覚えた。あらがう気も起きずに沈む。沈む。
沈んで、また光が瞬いた。
不安が形になったのだろうか。
脳裏に白い異形の手が見える。畏れを覚えるほどの大きく、花弁のように羽をつけた手先が、こちらにむけて指をさしている。
そして、何かが、きらきらと光る何かが見えた。
皓子は何故か、それを好ましいものだと思えて迎えるように手を伸ばした。
――カラン。
鐘の音が鳴る。
どこかで聞いたような音色に、はっと目を開ける。じとりと汗をかいている。
ほんのわずかの間、意識でも落ちたのだろうか。この緊急時にどうなのだと、自分のことながら不思議に思いながら、皓子はゆるく頭を振る。
状況が好転したわけでもない。しんとした空間は居心地が悪い。石像みたいに固まりそうな体を動かして、天井を仰ぎ見た。
――カラン。
また、音がした。
見上げた先から、ちかりちかりと光が瞬いた。
その光の瞬きは、自身のまばたきのせいかと思った。
だが違う。
電球の明かりに反射した埃やちりでもない。光の粒が天井のあたりから漏れ出ている。
(なに……?)
光の粒は規則的な動きを始め、天井板に散らばった。見えない手で描かれたみたいに、じわりじわりと紋様を作り上げていく。
丸い光の線が幾重にも重なり、瞳のように瞬いた。皓子はすぐ思い当たった。
(ばばちゃんの魔法陣だ!)
なにせ十数年一緒に暮らしている。生活のおりで吉祥が使う黒魔術らしきものを目にしていたのだ。間違えるはずがない。
しかし魔法陣の中央部分から出てきたのは、光輝く純白の羽。皓子のもとへ降りてくるまでに溶けて消えてしまう羽へと手を伸ばす。
神聖で綺麗な、まるで天使のようなものが吉祥の魔法陣から出てくるのはおかしい。
こういった派手な演出は好きかも知れないが、あの吉祥が天使を連想させるものを出すかと思うと、ない、と言える。
あの見目の通りプライドはそれなりに高い吉祥は、元悪魔であることを自負している。元天使であるマロスとにらみ合うのも日常茶飯事であった。
ついで、ふたたび鐘の音が聞こえた。
――カラン。
金属の重たい鐘の音が鳴り響く。
一層光り輝いた魔法陣が収縮して、広がる。
それから、手が出てきた。
皓子よりも長くて、筋ばった色白の腕だ。
しなやかな筋肉に覆われた腕は人間のもので、それも男の人のようだとわかった。二の腕から肩、頭が現われたところで皓子は目を丸くした。
無造作に整えられた明るい茶髪が柔らかに揺れ、絵画の美青年も裸足で逃げ出すくらいの整った目鼻立ち。
均整の取れた長身の体躯を捻って着地しようとする姿は、TシャツとGパンにスニーカーといったラフすぎる格好であっても、出来すぎたCGみたく格好良く見えた。
「あ、りやくん」
驚きながら名前を呼べば、軽い音をさせて床に足をつけたアリヤは皓子を見て距離を詰めた。
「皓子ちゃん」
手が伸ばされて、腕をとられて立ち上がる。
ずいぶんと勢いよく引っ張られたのでつんのめるくらいだったが、おかまいなしにアリヤはさらに引いた。
腕を回されて抱きしめられた。皓子の頭頂部へ、安堵の溜息とともにアリヤの頭がすり寄ってくる。
「よかった。平気?」
「アリヤくん、どうして」
「管理人さんの協力と、あとは俺の運まかせで強引に転移を……それより、俺、言ったよね。善意だからって危ないことがあるって」
なおもぎゅうと抱きしめたまま、不機嫌そうにアリヤが言う。
事情を知っているのかと身じろぎして頭を動かせば「木立と管理人さんから聞いてる」と先んじて言われた。
「伝言。ほいほい着いていくな馬鹿娘だって」
「うう……面目次第もございません」
「本当に」
「ごめんなさい、迷惑をかけて」
じっとりとした夏の暑さとは違う熱さが触れあった部分から伝わってくる。心細さもあったのだ。回された腕と体温に甘えて、遠慮がちに身を寄せる。
「ごめんなさい」
はあ、と溜息が返ってきた。
少しの間を置いて、アリヤは頭を上げた。
「今後こういうことには重々注意してね。皓子ちゃんは、ぼんやりしてるとこがあるから」
「はい、気を付けます……」
「それから、俺にとってだけじゃなくって、普通に皓子ちゃんは可愛いんだからね。もしここに変な気起こすやつがいたなら、困る目にあうのは君なんだよ」
「ごめんなさい」
切々と言うアリヤの顔は真剣だ。
害意や敵意を防ぐ皓子に変な気とはなんだと思ったが、到底聞ける雰囲気でもなく謝る。
「本当にわかってる?」
じとりと見られて、慌ててうなずく。うさんくさそうにまた「本当に?」と呟かれた。今回のことで相当に信頼を失ってしまったらしい。
嫌われるのは困る。ここで突き放されるのは、嫌だった。
とっさに抱きついていた指先に力が入ってしまった。それがアリヤにも伝わってしまったのだろう。視線が動いて、また目が合わさる。
アリヤの身が屈んで顔が近づいた。
「皓子ちゃんはさ……俺と趣味も違うし、感性だってちがう。考え方ももちろんちがうけど、それが魅力的なんだよ。今だって変な気起こさないように我慢するくらい」
じりじりと刺すくらいの熱が混じった視線に魅入られたみたいだ。
皓子が見上げたまま口もきけなくなったのは、そのせいかもしれない。魔法を使われたみたいに、唖然と見ているしかできない。
「なんでって思ってる? ねえ、皓子ちゃん。今回みたいな危ない橋を渡るのはさ、面倒だったよ。下手すりゃ、ここへ辿り着けなくて体も無事でいられない可能性もあったって」
ではどうして。なぜそんな危ないことをしたのだ。
皓子が口を開くよりも、思うよりも、先んじてアリヤが続ける。
「だけど、それでも俺が無理を通して来た意味、わかる? 俺はね、君が無事か心配でたまらなかったんだ」
ふわりと微笑んだアリヤは、じゃれるように唇を耳元に寄せて囁く。
「好き、好きだよ。皓子ちゃんは、めちゃくちゃ可愛い、俺の好きな人だ」
どろどろ溶け出した砂糖みたいな甘さの言葉が耳から侵入してくる。しびれが走る。
ぴりぴりと言いようのない感覚が皮膚の上を駆け巡るような心地がして、耳から顔へ首まで真っ赤に染まった気さえした。
あまりの衝撃に、皓子は自分が大門譲りの魅了にでも目覚めたか、それともアリヤの魅了にかかったかと疑惑が湧くほどだった。
ただ、アリヤは言葉の甘さと同様に、優しく情を孕んだ目で皓子を見つめてくる。皓子の動揺している様子を見て、嬉しそうに表情をほころばせた。
「あー……まじで、かぁわいい。これで手は出せないんだもんなあ……じゃ、帰ろっか」
顔を赤くして固まった皓子を縦に抱えて、アリヤが上を向く。
「あの蛙の修行をここで生かせるから、わかんないもんだよね」
言いながら、足に力を入れたアリヤは床を蹴り上げて跳んだ。壁の丈夫そうな柱を足場にさらに蹴り、三角飛びの要領で魔法陣へと近づいた。
陣の向こうから大きな羽の生えた異形の手が動いている。こちらを招くみたいに、揺らめいて指先が誘う。それをめがけて進めば、辺りは光に満ちて白く染まっていった。
その間も背中を労るように撫でられたり、ぎゅうと抱きしめられたりとされ、皓子の心の許容量はパンクしたままでの帰還となってしまった。
父への怒りだとか、残した田ノ嶋たちへの心配だとか、色んな気持ちが一気に吹き飛んでいる。
顔は茹だりっぱなしで、頭の働きも戻ってこずにぼうっとしっぱなしだ。
丁寧に魔法陣から戻ってきた場所が、吉祥が待ち構える家の居間だったことも、土足のままだというのも、ふわふわした足の着かない心地の皓子がわかるまでずいぶんと時間がかかってしまった。
吉祥はぼんやりして顔が茹だったままの皓子を一目見ると、額に手をあててアリヤを睨んだ。
「御束アリヤ」
「手は出してません。非常時対応で、触れ合いはちょっとだけしましたけど。ちゃんと、守ってますよ。俺は皓子ちゃん曰くの、優しくて良い人なので」
「……耐性がなさ過ぎるのも考えものだね」
機嫌良く答えたアリヤに、吉祥は鼻を鳴らした。
「さっさと離れな。非常時だけっていう契約だ。これ以上は、身体の接触は不可だよ」
「これさえなけりゃなあ……」
しぶしぶと皓子を離したアリヤの姿を、つい視線が追う。
「早く俺をほしがってね。いつでも歓迎するから」
頬に触れるか触れないか。そんな位置で撫でるような仕草をされれば、さらに体温が上がった気がした。
言葉がでないままアリヤを見つめた皓子だったが、唐突に尻を叩かれて体が跳ねる。
「いったぁ!」
「悪魔の孫が誘惑されてんじゃないよ」
じんと痛みが走る臀部をさすった皓子に、吉祥は無慈悲に告げる。
「皓子、あとで説教」
「……はい」
「さて、その前に馬鹿息子にしっぺ返しをしてやるかね」
すうと息を吸った吉祥は、いつも通りの不敵さであくどく笑った。