残酷な描写あり
introducing...:Best Foot Forward
その青年が目を開けても、小汚いアスファルトと水たまりの向こうのネオンしか見えなかった。
しかし、彼の視力をもってすれば舗装の上に残った足跡も視える。この街の飼い猫探しで右に出る者はいない。
どんなものでも正確に視ることができる彼。
だが、それと同時に、ネオンの輝きに虹を見出す心も持っている――――。
彼こそが、この街で一番の何でも屋だった。
彼は壁のグラフィティに背中を預け、煙草に火を付けた。
夜空を見仰ぐ。好きな銘柄の煙と人工の月。その遥か先には母なる地球があるという。
この街の名前はアーデント。サイバーパンクの面影が残る新都市だ。
『シーユー・アゲイン! ネオンエイジ・バスターズ、また明日!』
歯切れよく今日の海賊放送が終わった。ヘッドホンからは砂嵐が流れ、すぐに正規の放送へと逆戻りする。
「昔は良かったんだけどな」
「――過去を想う心は尊い。しかし、その心は“今”に向けてやることで真価を発揮するもの……」
あてもなく呟いたひとり言に、答えが返ってきた。
声のするほうに身体を傾けて見やると、そこには黒猫を抱きかかえた老人が佇んでいた。ヘッドホンを外した青年は会釈する。
「長老さん、抜け出してたらまた怒られちまうぜ」
「お主こそ、4ヶ月も上納金を滞納していると聞くが?」
長老の言う通りだった。青年は頭を垂れて黙りこくる。返す言葉もない。今すぐ返せるほどの所持金もなかった。
「返せない、か。よく分かった……むぅ、これ、ベル!!」
青年は片目を開ける。すると、車道に飛び出す黒猫の姿が目に入ってきた。
「おっと」
あろうことか、黒猫は乗用車のライトに照らし出されている。このまま轢かれてしまう悲惨な未来は、誰の目にも明らかだった。
――過去は変えられないが、未来は変えられる。
“今”、青年は瞬発力を持って駆け出した。右手を内ポケットにかけ、左手で黒猫を掴み上げる。
幸いなことに車は全高が低かった。
力の限り水たまりを蹴って飛び上がる。車のルーフに片足をつき、身体を翻らせた。靴の先から飛び散る水しぶきが半円状の軌跡を描く。
危機が通り過ぎた後のアスファルトに華麗な着地を見せた青年と黒猫。
続けざまに彼は後続の車に得物を向ける。右手に持つそれはオートマチックのマグナムピストル。赤銅色の愛銃だった。
ブレーキ音が鋭く響く。ウィンドウの向こう側で両手を上げる運転手。その切迫した表情が青年を焦らせた。
青年は突然に口を開ける。器用なことに、彼は口の中から火が付いたままの煙草を咥え戻した。そして空笑う。
「ご協力どうも。良いドライブを」
運転手はその一芸を見て、交通局に通報することを止めた。というよりも呆気にとられたのだ。
突然現れた青年に銃を向けられ、重大事故になりかねない事態だったのに、どこかせいせいした気持ちになれた。
……それは、彼のぎこちない笑みに、人の温もりが宿っていたから。
――眠らない街として一世を風靡したこの街は、巨大企業連合“ヘックス”による自治化によってディストピアの様相を呈していた。
愛憎入り乱れるカオスにも再開発の手が加えられ、かつての人情世間には冷たい風が吹きつけている。
それがサイバーパンクの面影が残る街、新都市アーデント。
「昔なら猫相手でも停車したもんですよ。今の人間には心を感じられません。地下の人間や俺みたいな名無し子なら、あるいは……」
青年は不幸の象徴を抱き渡した。
「合格じゃ。これは1ヶ月分としよう。残り3ヶ月」
「『合格』?……あんた鬼か。せめて2ヶ月分――」
「――思っているだけでは何も変わらない。ではな」
長老は有無を言わせずに立ち去っていった。彼は青年を試したらしい。
1人残された青年はその後ろ姿に頭を下げる。もう一度ヘッドホンを着けて、型落ちのウォークマンにプラグを差し込んだ。
「助けられたのは俺のほうってことかよ。ま、3ヶ月くらい何とかなるか……」
そう何気なく目を向けた先で、小さな影を見る。
背丈からして10歳あたりの子供。たった1人で酒屋の中へと入っていったのだ。周囲を警戒しているような挙動不審はワケありのサイン。
青年は両目を研ぎ澄まし、その子が扉を開けた一瞬の間に酒屋の中を覗く。物騒な連中が見えた。
彼はひとりでに頷くと、内心ほくそ笑む。
「依頼人、だな」
ぼさついた青い髪をかき上げ、吸い殻を雑に踏み潰す。その足で西部劇風のサルーンに入っていった。
次なるお楽しみを求めて――。