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作者: 古城ろっく
R-15
第1話 ママチャリの修理費って高いの?
 ――2017年、5月某日――

 もうすぐ20歳になる青年、不知火 翠しらぬい あきらは、自転車を飛ばしていた。大学に向かうためである。
(やっべ……1限目から授業なの忘れてた)
 ケータイのアラーム機能に頼りすぎたせいだろう。ある意味では規則正しく生活できるのだが、授業の日程変更があると対応しにくい。いちいちアラーム設定を見直す習慣がないからだ。
 アナログの目覚まし時計に頼っていたころは、毎日時間をセットしなくてはならない分、ミスが少なかった。
 どちらが優れているとかいう話ではない。これは一長一短……という話でもない。単純に、アキラ本人がうっかり者だという話である。
(頼む。間に合え!)
 登り坂を、必死で走る。
 アキラが使っているのは、いわゆるママチャリだ。ホームセンターで1万円ほどした商品で、高校入学の際に買ってもらった。あれから4年以上。ずいぶんと使い込んだ車体だ。
 錆びたチェーンは、ガチャガチャと耳障りな音を立てる。ペダルに力を籠めると、どこからかパキンと音がする。いつもの事だった。
 やがて、坂道が上りから下りに変わる。住んでる町がそういう地形だから、町中のいたるところに坂があった。
 一気に速度を上げる。変速ギアなどという気の利いたものはついていない。力技で漕ぐだけだ。

 パァン――!!

 大きな音を立てて、タイヤがパンクする。
(嘘だろ?こんなところで――)
 思うや否や、自転車に大きな振動が奔る。今までは空気入りタイヤのおかげで気にならなかったが、アスファルトの表面はザラザラしているのだ。そこをパンクしたタイヤで走れば、腰が割れそうなほどのダメージを負う。
(くそっ、今だけでも走ってくれ。授業に間に合わないかもしれないんだ)
 立ち漕ぎに切り替えて、腰への振動を和らげる。とはいえ車体はガタガタだ。手首足首に負担がかかり、腱鞘炎になりそう。
(帰ったら直してやるからな)
 パンク修理の相場は知らない。ただ、以前100円ショップでパンク修理キットなるものが売っていたので、自分で修理するなら100円で済むのだろう。ショップに頼むなら手数料がプラスされるが、些細な問題だとアキラは思った。

 ――そう。アキラは、思い込んでいたのだ。



 放課後、最寄りの量販店に来たアキラを、現実が襲う。

「修理費のお見積もりが15000円になります」
 一万五千……そんな予想以上の金額を聞いて、アキラは固まった。
「いやいやいやいや、冗談だろう?ルリ……」
「冗談抜きです」
 ルリと呼ばれたバイトは、ただ店長に言い渡された金額を淡々と答えた。
 彼女は、アキラの同級生の吉識 瑠璃よしき るり。自転車好きの女の子で、普段から競輪自転車みたいなやつで学校に来ている生徒だ。あまりに自転車が好きすぎて、ついにはバイト先を自転車屋にしたという。
 どうやって染めたのか知りたいくらい綺麗な青髪ショートヘアを、左側だけ編み込んだ奇抜な髪型の女子だ。大学でも目立っていて、いろいろ噂になっている。
 まあ、それはさておき、
「店長。どうなってんのこれ?自転車買った時は1万ちょっとだったんだぜ?それが修理に1万5千って……新しいの買った方が安いじゃないか」
 アキラが言うが、店長はルリに手を振って答える。つまり、あとはルリに任せたという事だ。
「はぁ……」
 ルリはため息を一つ吐くと、先ほどの質問に答える。
「自転車の修理費が元値を超えることは、よくあります。こういう場合は、当店としましても買い替えをお勧めしております。お客様のご予算に合わせて、おすすめの商品をご紹介しますが?」
「要らねぇよ!――じゃなくて、俺は修理費が元値を超えることが不満なの。なんだこれ?ぼったくりか!」
 アキラが言うと、ルリはすっと目を細めた。氷のように冷たい視線が、アキラを刺す。
「な、なんだよ?」
 小柄な女子を相手にビビるアキラ。だが、ルリはそのまま店の奥に引っ込む。ほどなくして、一枚のコピー用紙を持ってきた。
「失礼ですが、こちらを使って紙飛行機を作っていただけませんか?」
 真っ白なA4サイズのコピー用紙だ。紙飛行機に使うには、少し重さが足りない気がする。しかし……
「分かった。作ってやるよ」
 作らされる意味は分からないが、とりあえず折っていく。アキラは紙飛行機を作るのが得意だった。なんなら、ペーパークラフトや折り紙の類は大概得意だ。
 1分もしないで完成した紙飛行機は、縦に長く、意外と翼の小さなモデル。軽い紙を使って真っすぐ飛ばすなら、この形状が一番いい。
 試しに投げてみると、店の端の方まで飛ぶ。会心の出来だ。
「ど、どうだ?」
 アキラが聞くと、ルリはすたすたと歩いていった。無表情のまま、紙飛行機の前に立ち……

 グシャッ――

 あろうことか、落ちた紙飛行機を踏み潰した。それから拾って戻ってくる。
 先ほどまで均衡のとれた美しい造形だった紙飛行機は、見るも無残な姿だ。
「失礼しました。私の不注意で踏み潰してしまいました。もう一度折り直してください」
 どう見ても不注意ではなく、故意によるものだ。しかし目的が分からない。ルリの無表情な顔をどれだけ見ても、何も感じ取れない。
「まあ、いいや。それじゃあもう一枚、紙をくれ」
 アキラが言うと、ルリは紙飛行機だったものを差し出した。
「……おいおい、それを折り直せって言うのか?」
「はい」
 一度折り目がついて、まして踏み潰された紙……これを綺麗に伸ばすのは困難だ。仮に出来たとしても、さっきの半分も飛ばないだろう。
「当店ではこのような事態の場合、修理より買い替えをお勧めしております。修理すると値段も高く、そのうえ不完全な状態になりかねません。まあ、損傷の酷さによりますが」
 ずいっ、と前に一歩出たルリは、上目遣いにアキラを見る。
「ご理解いただけましたか?」
「わ、解った……」
 妙な迫力のある彼女に、アキラはたじろぐ。
「と、ところで、俺の自転車ってそんなに酷いのか?」
 アキラが聞くと、ルリは自転車に歩み寄っていく。どうやら実際に状態を見ながら説明してくれるらしい。

「まず、パンクの件ですが、さほどひどくはありません」
「え?」
「問題は、パンクした後に乗ってしまった事です。ああ、ごまかさなくていいですよ。分かりますから」
 潰れた後輪を、本体から外す。ゴム製のタイヤと、チューブ。そして金属製のホイールと、自転車本体に分割される。
「こちらのチューブは、大きく破れているので使い物になりません。ゴム糊で張り合わせられるのは、およそ6mm程度の穴に限定されます。まあ、それだけならチューブ交換するだけなので、1000~2000円程度でできますが……」
 次に、金属製のホイールを見せる。さっきまでタイヤがはまっていたところだ。
「ホイールの外周、この金属製の輪を『リム』と呼びます。ここにタイヤを挟み込んで固定するのですが……」
 その表面はボコボコになっていた。タイヤが潰れた後も乗り回したせいで、アスファルトの表面や段差に削られた結果だ。本来なら空気入りタイヤに保護されていなければならない場所だった。
「この通り、ゴムタイヤの内側ビードを押さえるはずの部分が削れています。これでは使い物になりません」
「つまり、そのリムを交換する必要があるって事か」
 アキラは納得したように手を叩く。しかし、ルリは首を横に振った。
「仮にリムだけを交換するとなると、こちらの『スポーク』をすべて取り外すことになります。この細い針金みたいなところですね」
 車軸とリムを結んでいる、放射状で交差する金属線。これをスポークと呼ぶ。
「これを全て外して、組み直して、再調整するのは大変です。それ相応の工賃が必要ですね。なので、ホイール全てを買い直した方が安いです。こちらなどはいかがでしょう?6000円ほどで購入できますが?」
 カタログには、ホイールだけが乗っている。見慣れた自転車も部品単位で見ると変な感じだ。
 アキラはその中で、もっと安い部品があるのに気づく。
「こっちは?2500円くらいだけど?」
「それは前輪ですね。歯車コグがないので、取り付けられません」
「これは?これも後輪用だけど……」
「それは20in規格ですね。折り畳み自転車のサイズになります。相当に小さいですが、よろしいですか?」
「いや、俺には何がよろしいのかも判断できないが……」
「では、私の見立てをお話しします。車高をこれ以上低くすると、ペダルが地面にぶつかる危険がありますのでお勧めしません」
 車高の低いスーパーカーが腹を擦るようなもの……ではない。4輪ある自動車なら擦った程度で済むが、2輪の自転車で擦ると転ぶ。
「そんなこともあるのか……」
 自転車の世界は、奥が深い。それはスポーツをやる人だけの話だと思っていた。ママチャリだけでも専門的な知識を必要とするらしい。もっとも、そうでもなければ専門店などあるはずもない。

「なんにしても、パンクした状態で無理矢理に乗ったのが問題ですね。一ヵ所が故障した状態で走りますと、他の場所まで壊れることがあります。異常に気づいた際は、乗らずにお持ちください」
「……わかった」
 残念だが、ルリの言う事は本当のようだ。ぼったくりでもない。新車を買わせるための嘘でもない。
「……ただ、もしこのママチャリに並々ならぬ愛着があるというのなら、大金をかけて修理することも悪くないかと……あとはアキラ様のお考え次第です」
 部品代だけでも、合計して10000円近い。そこに手数料などが入って、15000円かけて治すかと問われれば、
「うーん。そうだな」
 実を言うと、そんなに愛着はない。ただ、同じような車両を買うのに1万円か……
 何も変わらない生活を維持するために、大金を必要とするのは損した気分になる。いや、実際パンクさえしなければ、出費もなかったんだ。損しているのは確実か。

 悩んでいると、ルリが提案を申し出た。
「せっかくなので、この機会にもっと良い自転車をお求めになるもの良いかもしれません。壊れたから買い直す。ではなく、もっといいものが欲しいから買うような気分ですね」
「なるほど……そんな考え方があるのか」
「はい。候補としては、電動アシストが付いている車両に乗り換えるとか、変速ギアが付いている車体に手を出すとかはいかがでしょう?」
 アキラ自身、それなら納得がいく。お金はないが、そこはカード決済という手もあるだろう。それに、最近の自転車は安くなっているみたいな話も聞いたことがある。
 ただ……
「俺に使いこなせるかな?」
 その不安はあった。
「ああ、それでしたら、店内を見て回るのはいかがでしょう?実際に気になった自転車がありましたら、私にお声かけください。ご試乗いただけます」
「いいの?試し乗り?」
 アキラが訊くと、ルリは小さく一礼し、
「はい。お試しいただけなければ、インターネット販売とさして変わりません。当店では、実際に見て、触れて、乗って、納得していただきます」
 両手を広げて、店内にある全ての自転車を見せる。
「そのうえで整備、調整、防犯登録などを行ってお渡しします。もちろん修理、改造、相談なども請け負います」
 その手を自分の胸の前に持ってきて、しっかりと頷く。

「売りっぱなしではなく、お客様の助けになりたい。だからこそ、こうして店舗を設けて、店員を配置しているのです」

 優しいことを言ってくれるルリだが、表情が全然変わらないし、口調も先ほどから平坦なので雰囲気は悪い。本人としては熱弁しているつもりなのだろうが、地が不愛想だから残念である。
「あのさ、ひとつお願いしていいかな?」
 アキラが言う。当然、店員と客という関係のルリは、
「はい。私が出来ることや、当店で可能なサービスなら何なりと」
 自転車の事と思い込んで頷いた。
 アキラの要求は、その自転車の話じゃなかった。
「スマイルひとつ」
「は?」
「いや、だから、スマイル。笑顔で接客してくれないか?」
 せっかく可愛いんだから、とは言わなかった。さすがにそこまで言えるほどアキラも気障ではない。
「はい。それでは……」
 ルリは両手で顔を擦っていく。よほど凝り固まっているのか、スマイル前にマッサージを必要とするレベルらしい。どれだけ普段から笑顔になってないのやら。
 にらめっこでもしているかのような時間が流れる。アキラの方が笑ってしまいそうなほど激しい顔面マッサージ。ちなみに奥の方でやり取りを聞いていた店長は爆笑している。
 マッサージが終わり、すぅーっと息を吸ったルリは、頬を引きつらせて目をぱちくりさせた。笑顔のつもりらしい。
「こ、これでいかがですか」
「――っく……いや、こっちが笑うわ! ぶはははははっ」
 腹を抱えて笑うアキラを見て、さすがにルリも不機嫌になった。
「大変失礼しました。それでは私は業務に戻りますので、気になった自転車がありましたら声をかけてください。それでは――」
「いや、待ってくれ」
「まだ何か?」
「ああ、自転車ってよく分からないからさ。色々教えてくれよ。お勧めとか、さ」
 ルリは店長に視線を送る。
(店長。めんどくさいです)
 店長はそんなルリに、にこやかな視線を送り返した。
(それが君の仕事。がんばってね)
 ルリはため息一つ吐くと、アキラに向き直って一礼した。芝居がかった口調と大仰な動きで、しかし目には本気の光を宿して言う。


「それでは、自転車の世界へとご案内します。誰でも簡単に入り口をくぐれて、しかし誰も出口に到達したことのない。そんな奥深い世界へようこそ。
 入口までは、このわたくし、吉識瑠璃が案内させていただきます。そこから先はご自由に、新しいペダルとハンドルが、お客様の道しるべになるでしょう

 まず、ショップ2階。スポーツ自転車コーナーまで、どうぞ」
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