1
「おはよう、キル・リ・エルデ。
相変わらずひどい部屋だね」
目を開けると、真上に見慣れた男の顔があった。
「おはようございます、ハデス」
男と言っても、ハデスは中坊ほどの少年の姿である。昔はこうではなかったが、全知全能の神に本来の力の半分を奪われ、このような姿になったとか何とか。
とはいえ、一昔前の英国紳士風の黒い燕尾服姿なのはあの頃からかわらない。
黒いシルクハットから、肩までの長さの銀髪が流れている。右目だけ前髪で隠しているが、邪魔ではないのだろうか。
「どうされました?」
「昨日一昨日と連絡が取れなかったから、進捗状況の確認に来たんだ。上司として当然のことだよ」
そういえば、土曜日に留守電にしてから、昨日も一日留守電にしっぱなしだった。まあ、休日措置として当然のことなのだが。
「金曜日にお伝えしましたが、情報収集をしながら、慎重かつ着実に仕事を行なってまいりますので、今後は確認は結構です。成果が出た際に、こちらから報告に伺います」
「これ、標的?」
ハデスの右手に、土曜日に撮ったプリクラが浮いていた。
「なるほど? 接近して地道に頑張ってるってわけだ。いつもの君らしくもなく」
「私はいつも通りの仕事をしております。他の死神たちでも10年かかったといわれる相手ですから、慎重かつ着実に魂を回収できる術を探しているまでです。どうかしばらくお待ちください」
「西洋支部の使えない部下たちの中で一番のキャリアを持つ優秀な君に、僕は絶大な信頼を向けているよ。
ただ、この標的は、なにがあっても確実に魂を回収しなくてはいけない。だから、また進捗を聞かせてもらう。
じゃあ、次こそいい報告を。キル・リ・エルデ」
煙のように消えていったハデスの跡地に、プリクラがひらりと落ちた。
すっと指を動かしこちらに引き寄せ捕まえる。
そして、手元にあった空き瓶を、思い切りハデスの跡地に叩きつけた!
あのクソ上司……! 人の部屋に不法侵入した挙句、嫌味ばかりタラタラタラタラと!!
大体、「何があっても魂を回収しなければならない」って、死神の仕事として当たり前のことだろうが! 私を舐めているのか! 「この標的は」と皇を特別視したような言動も腹が立つ。つまり、成果を上げて東洋支部を嘲笑い、東洋支部より上の組織として位置づきたいのだろう?
自分の欲望のために私をこき使いやがって……殴り倒してやりたい。
あの男が死神を消滅させる「死神殺しの鎌」さえ持っていなければ、私の方が力は上なのに。
いっそ鎌を奪って私が西洋の長になってしまうか?
いや、それはそれで面倒だ。毎日仕事三昧の日々なんてありえない。私には、時々振ってきた仕事をさらっとやって、悠々自適に堕落的な推し活生活を送るのが向いているのだ。
そのためには、このキャリアを守るほかない、か……。
ため息をついて、抱きしめていた2匹のネコマタスケたちを体の上からどかす。
土曜から日、月とずっとくるまっていた皇のカーディガンと、つい持ち帰ってきてしまったメガネを見る。
……なぜだろう。返したくない。皇のにおいがしみ込んだカーディガンに、ずっと包まれていたい……! 吸ぅ……っ! はあ、いい匂い……。
だが、返さないのはさすがに礼儀がない。私は美しくあることを信条とする死女神。ジャパニーズ精神である礼儀は、体現していきたい。
私はカーディガンを脱ぐと、指を鳴らし、カーディガンを美しく畳んだ。
カーディガンに軽く触れ、ウイルスを混ぜる。念のため、今日以降の仕事がうまくいかなかったときの保険だ。
私はそれとメガネを胸に抱き、扉に鍵を差し込んだ。
***
下駄箱を覗くと、青い手紙が一通入っていた。
皇からだった。
『キルコさん
土曜日は貴重な時間をいただき、ありがとうございました。ゲームセンターも、メイド喫茶も、回転寿司も、僕もどれもはじめてだったのですが、とても楽しい時間を過ごせました。
それなのに、帰り際に怖い思いをさせてしまい、本当に申し訳ありませんでした。どんなことでもしますので、どうか許していただきたいです。そして、図々しいことは承知ですが、可能であれば、今日からの約束もそのままさせていただけるとありがたいです。
何卒よろしくおねがいします。
皇 秀英』
詫び状か。
別に怖がってなどなく、ただ萌えていただけなのだが。
きっちりと配列した字から伝わる真面目さが、なんだか笑えた。
教室にいくと、豚どもが一斉にブヒーッ! と鳴いた。パソコンをいじっていた皇は、ちら、と私をメガネ越しに見上げたが、所在なさそうに画面に視線を戻した。
同じメガネをかけている……。スペアだろうか。
私は寄ってきたブタどもの朝の鳴き声を総じて無視し、皇の真正面に立った。
「おはようございます。これ、お返しします」
「あ……ど、どうも……」
皇は目を合わせず、手だけを伸ばしてカーディガンとメガネを受け取った。
「今日から、よろしくお願いします。ちゃんとメガネ、とってくださいね」
「……え」
皇が、顔を上げた。前髪とメガネとで、全く顔が見えない。
私は、自席についた。
豚どもは、皇を取り囲み、ブヒブヒと激しく鳴いていた。
豚の肉壁の間からわずかに見える皇に写真機を向け、今日の運命写真を撮った。
今日は大した出来事はない、か。
だが、今日で全てを完結させる必要はないのだ。
今日は、明日以降の下準備をする。
昼食で、皇と過ごした時に、必ず。
――と、きちんと仕事をすると決めているのだから、それ以外の時間は好きに使って構わなかろう!
1限がはじまるなり、私はノートを開き、『顔みせて!』と大きく書いた。
皇がこちらを向かないか、ワクワクしながら待つ。
世界史の担当教師の長い無駄話が終わり、くるりと黒板の方を向いた時、ついに、皇が私の方をチラリと見た。私はすかさず、ノートを皇に見せた。ジャパニーズ・バラエティ番組で時々映る、カンペを持ったスタッフのごとく。
皇は、少しもそもそとあたりを見渡した後、そっとメガネをとった。そして、前髪を、眉の上に簡単に流した……。
うっ……! 顔、いい…………っ!
髪を流す仕草も、美……!
萌え……っ!
そんなことが1限の間にもう一度あって、2限の途中にもう一度あって、深いため息をつき、多幸感の中で私は気づいた。
まるで、ファンサではないか……!
アイドルと目が合った時に自分のために萌えるポーズをおねがいする、ファンサービス……。緋王様のライブ映像でそれを叶えてもらっている女たちがどれほど羨ましかったことか。だが私も、うちわやボードさながらのこのノートで、あんなきれいな顔の男に、私の要求を叶えてもらっている!
だが、そう気づいて、はっとした。
顔を見せろという要求だけではなく、ポーズも一緒に要求できれば、より一層の萌えが手に入る……っ!
ポーズ……何があるだろう……!
ポケットに入れていたプリクラを見る。そうだ、一番萌えるポーズは、これだ!
ガサガサと急いで書き殴る。書き終わったところで、皇がこちらを見た。私は、前のめりになってノートを見せた。
『指ハートして!』
皇は、ピシリと固まった。顎に指をあててしばし考えたのち、パソコンで「指ハート」を検索し、画像を拡大してその画像の指に分度器を当てて角度を調べ、今度は自分の重ねた人差し指と親指に分度器を当ててちまちまとずらしながら的確な位置を探していた。
考えるな!!!!
っていうか、顔を見せろ、顔を!!
***
3限は体育、4限はコミュニケーション英語だったために、その後のリベンジは叶わなかった。
4限が終わると、いつものごとく、豚どもが私を取り囲み、昼食を誘ってきた。
「ごめん。ちょっと道あけて。
キルコさん、行きましょう」
豚どもが、ばっと皇を振り向いた。
どの休み時間も自席に座っていた皇がそんなことを言ってくるなんて……。正直、私も驚いていた。
「なっ……なななっ! 皇っ! 貴様……!」
「キルコさんと、ふふふっ、2人きりになるつもりかっ!?」
「おのれ、許さんぞ! ボンボンで学年一位の天才な上に、エルデさんをも手に入れようなど!」
「そうだ! 抜け駆けは卑怯だ!」
「金曜日に直接許可をもらったから、問題ないはずだけど。ごめん、時間もったいないから、続きは放課後に」
ブヒブヒと豚どもが文句を垂れ、邪魔をしてこようとしたので、適当に念じ、食堂に流れるように暗示をかけた。ぞろぞろと教室を出ていく豚どもの姿にほっと安堵し、
「僕たちも行きましょう。屋上でいいですか」
と皇が言った。手には、紺色の弁当袋があった。
屋上には誰もいなかった。ベンチに座ると、真正面にサクラが見えた。先週見た時よりわずかにあからみ、ところどころ葉が咲いている。終わりに近づいているようだ。
「キルコさん、お弁当は……。いつも学食だから、持ってきていませんでしたか」
私は神だ。空腹になどならない。食は愉しみのために摂るもの。普段は、ジャパニーズ・学食を愉しむために学食に行っている。ちなみに、豚どもが私に食事を献上したいとブヒブヒ言うので、会計は全部豚ども持ちにしている。
「大丈夫です、食べなくて」
「だめです。午後も長いですし、エネルギー補給をしないと、パフォーマンスが下がります。もしよければ、好きなものをどうぞ」
皇が、私との間においた弁当袋から玉手箱のような正方形の弁当箱を取り出した。一段目に、ジャパニーズ・おにぎり、二段目に色とりどりの和風なおかずがぎっしり詰まっていた。
ああ、これぞ、理想的なジャパニーズ・弁当……!
花見の時に、こんな理想的な弁当をつまみながら酒を飲む――そんな緋王様の真似をするのが夢だったのだ。それに、日本食の代表格、おにぎり! なんて可愛いフォルム……! 丸みを帯びた三角形は、まさに芸術だ。
おにぎりを手に取ると、皇は水筒からプラスチックのコップに茶を注ぎ、「これももしよれけば」と私に差し出した。
おにぎりをひとくち食べた。おいしい。
ご飯と同じはずなのに、ほのかな塩けとじんわりと広がる甘みが格段に違う。ほろりと解けるような米たちがまた美味しい。もうひとくち食べると、ほろほろのシャケが出てきた。柔らかくなった海苔と合う。
茶を口に入れると、また、おいしくて感動した。
ジャパニーズ・緑茶。しかし、かつて飲んだ時のような渋みが一切ない。柔らかな甘味と爽やかさ、鼻から抜ける若葉の強い風味。美味いところだけをぎゅっと絞ったかのような緑茶だった。
「お口に合ってよかったです。このお茶の茶葉は、僕が品種改良をして作ったんです。乾燥方法、抽出方法含め、現時点で今飲んでいただいているものが、世界一美味しい緑茶です。おにぎりも、もう一つ食べてください。それと、おかずを一つずつ食べていただければ、午後からのエネルギー量はちょうどいいかと」
言われた通りに弁当のおかずを一つずつ食べる。どれも、美味しかった。最も感動したのは、ジャパニーズ・だし巻き卵! 噛んだらじゅわりとだし汁が染み出してきて、口いっぱいに広がった。
「改めて、昨日はすみませんでした。許していただきありがとうございます」
別に怒っても許してもいないが。まあいいか。
「今日の質問をさせてもらってもいいでしょうか」
皇はそういうと、ポケットから小さなメモ帳を取り出した。ちら、と覗くと、私への質問事項がずらりと並んでいた。一つ一つに番号がふってあったのだが、一番最後が「38」だった。地道に増えているのはなぜなのだろう。
「今日は3つですね。では、一つ目を質問させてください」
「待ってください」
皇のメガネを取りあげる。適当に、膝の上にのっけた。
「私といるときは、顔を見せてください」
「……はい」
前髪をかき上げ、私を見る。
はぁ……顔、いい……。
涼やかな目線と口元のほくろの色気に、恍惚とする。
「では、一つ目の質問をおねがいします。
どの学問に一番興味がありますか? 複合化学とか、電子工学とか、生物化学とか」
「特には」
「では、なぜこのクラスを志望したんですか?」
「試験結果で」
「キルコさんは文系寄りではありませんか。日本文化に興味があると言っていましたし、これまでの思考や言動から、文系に近いのではないかと思っていました」
「さあ、苦手なことはないので」
ほぅ……とため息をついて、皇は、「ありがとうございました」と恭しく一礼をした。皇の顔に見惚れながら適当な回答ができた自分を褒め称えたい。
「あの、38の質問に入らないものなので質問させてもらうのですが、今日のあの、『指ハートして』というのは、僕の謝罪の一部という解釈で大丈夫ですか?」
あの、「なんでもさせてもらいます」という言葉のことか。
「いえ。ノートを見せているうちに、ファンサのようだと思い、やってみたまでです」
皇は「ファンサ……」とつぶやき、スマホで調べた。
「キルコさんは、アイドルが好きなのですか?」
「はい」
「なるほど。どんなファンサがあるか調べておきます。キルコさんの好きなものも、あれば教えてください。練習しておきます」
好きなファンサ……。と言われても、ファンサはポーズを要求するもの、ということしかわからなかった。ライブ映像ではファンのうちわは少ししか映らないし、どんなポーズを誰に応えているかまではわからないのだ。
頼るべきは、インターネット。だが、我が家は動画を見ることができても、検索する媒体がない。
「今、調べてください。私も知りたいので」
皇のスマホを覗き込む。「ファンサ一覧」のページを開くと、素晴らしいアイディアがズラリと並んでいた。
「ピースして」「指差して」「バーンして」「ガオーってして」「うさみみして」などといったポーズ系の他に、表情を指定するものもあった。
「あざとい顔して」「ウインクして」「変顔して」……。
ひとつひとつ、皇の顔で妄想してみる。
なんだろう。今ひとつ似合わないのは。
画面ばかり見ていたためか、妄想上の皇のファンサがどれもこれも萌えないためか、私の高揚した気持ちは次第に鎮まってきていた。
あるファンサを見て、妄想して――ないな。
そう思った少し後、ん? となった。
このファンサ……魂を狩るチャンスを作れるのではないか?
教室内のような離れた場所でなく、すぐそばにいる今なら……。
私は背中に手を回し、教室に置いていたノートとペンを手の中に呼び寄せた。
「これ、やってほしいです。今」
さらさらと書いて、皇に向ける。
『キス顔して』
「どういう顔でしょうか。僕は、経験がなく……」
「目を瞑るだけです。やってください」
目を瞑っている間に、後ろから鎌で魂を狩ってやる。
皇は、考える人のポーズで考え込んだ。
やがて、覚悟を決めたような顔を上げた。
皇が、私のスカートの隣に手をついた。顔が、グッと近づく。
ゆっくりと、皇が目を瞑った。
――息が、できなかった。
間近に迫る皇の美しい造形美に――どちらかが首を伸ばせば、唇が重なってしまうような距離に困惑し、体の機能の全てが停止していた。真っ白になった頭の中に、心臓の音だけが鳴り響いていた。ふゎ、と唇から息が漏れたのが、皇の唇に触れた。
皇が目を開けた。手を膝に戻し、しゃんとまっすぐに座る。
ふっと、私の全身から力が抜けた。ふらりと背もたれにもたれかかる。バクバクと鳴り響く心臓のせいで苦しくて仕方ない。私は呆然と天を仰いだ。
「すみません。うまく、できませんでした」
皇に目をよこす。皇は、本気の顔をしていた。わずかに、悔しさが滲んでいた。
「頬下の表情筋の使用度合い、唇の形等、最適な数値を測った上で調整、練習をして、確実に習得し、キルコさんの期待にお応えします。他のものも、全部、必ず」
キュン。心臓に、天使の矢が突き刺さった。
私のために、全力で最高のファンサをする熱意、その努力感……。
こいつ、推せる……っ!
――って、何を考えているんだ私は!!
緋王様という推しがありながら、皇を「推せる」だと……!?
しっかりしろ、死女神キル・リ・エルデ!
そもそもあの男は標的! 顔がどれだけ好きだろうと、心臓が焦げるほどに萌えようと、私が魂を狩るべき相手……っ!
目を……目を覚ませ、私――っ!
あ。
そういえば、魂を狩るのをすっかり忘れていた……。
私がそのことに気づいたのは、愛する我が部屋のソファにダイブした後だった。
相変わらずひどい部屋だね」
目を開けると、真上に見慣れた男の顔があった。
「おはようございます、ハデス」
男と言っても、ハデスは中坊ほどの少年の姿である。昔はこうではなかったが、全知全能の神に本来の力の半分を奪われ、このような姿になったとか何とか。
とはいえ、一昔前の英国紳士風の黒い燕尾服姿なのはあの頃からかわらない。
黒いシルクハットから、肩までの長さの銀髪が流れている。右目だけ前髪で隠しているが、邪魔ではないのだろうか。
「どうされました?」
「昨日一昨日と連絡が取れなかったから、進捗状況の確認に来たんだ。上司として当然のことだよ」
そういえば、土曜日に留守電にしてから、昨日も一日留守電にしっぱなしだった。まあ、休日措置として当然のことなのだが。
「金曜日にお伝えしましたが、情報収集をしながら、慎重かつ着実に仕事を行なってまいりますので、今後は確認は結構です。成果が出た際に、こちらから報告に伺います」
「これ、標的?」
ハデスの右手に、土曜日に撮ったプリクラが浮いていた。
「なるほど? 接近して地道に頑張ってるってわけだ。いつもの君らしくもなく」
「私はいつも通りの仕事をしております。他の死神たちでも10年かかったといわれる相手ですから、慎重かつ着実に魂を回収できる術を探しているまでです。どうかしばらくお待ちください」
「西洋支部の使えない部下たちの中で一番のキャリアを持つ優秀な君に、僕は絶大な信頼を向けているよ。
ただ、この標的は、なにがあっても確実に魂を回収しなくてはいけない。だから、また進捗を聞かせてもらう。
じゃあ、次こそいい報告を。キル・リ・エルデ」
煙のように消えていったハデスの跡地に、プリクラがひらりと落ちた。
すっと指を動かしこちらに引き寄せ捕まえる。
そして、手元にあった空き瓶を、思い切りハデスの跡地に叩きつけた!
あのクソ上司……! 人の部屋に不法侵入した挙句、嫌味ばかりタラタラタラタラと!!
大体、「何があっても魂を回収しなければならない」って、死神の仕事として当たり前のことだろうが! 私を舐めているのか! 「この標的は」と皇を特別視したような言動も腹が立つ。つまり、成果を上げて東洋支部を嘲笑い、東洋支部より上の組織として位置づきたいのだろう?
自分の欲望のために私をこき使いやがって……殴り倒してやりたい。
あの男が死神を消滅させる「死神殺しの鎌」さえ持っていなければ、私の方が力は上なのに。
いっそ鎌を奪って私が西洋の長になってしまうか?
いや、それはそれで面倒だ。毎日仕事三昧の日々なんてありえない。私には、時々振ってきた仕事をさらっとやって、悠々自適に堕落的な推し活生活を送るのが向いているのだ。
そのためには、このキャリアを守るほかない、か……。
ため息をついて、抱きしめていた2匹のネコマタスケたちを体の上からどかす。
土曜から日、月とずっとくるまっていた皇のカーディガンと、つい持ち帰ってきてしまったメガネを見る。
……なぜだろう。返したくない。皇のにおいがしみ込んだカーディガンに、ずっと包まれていたい……! 吸ぅ……っ! はあ、いい匂い……。
だが、返さないのはさすがに礼儀がない。私は美しくあることを信条とする死女神。ジャパニーズ精神である礼儀は、体現していきたい。
私はカーディガンを脱ぐと、指を鳴らし、カーディガンを美しく畳んだ。
カーディガンに軽く触れ、ウイルスを混ぜる。念のため、今日以降の仕事がうまくいかなかったときの保険だ。
私はそれとメガネを胸に抱き、扉に鍵を差し込んだ。
***
下駄箱を覗くと、青い手紙が一通入っていた。
皇からだった。
『キルコさん
土曜日は貴重な時間をいただき、ありがとうございました。ゲームセンターも、メイド喫茶も、回転寿司も、僕もどれもはじめてだったのですが、とても楽しい時間を過ごせました。
それなのに、帰り際に怖い思いをさせてしまい、本当に申し訳ありませんでした。どんなことでもしますので、どうか許していただきたいです。そして、図々しいことは承知ですが、可能であれば、今日からの約束もそのままさせていただけるとありがたいです。
何卒よろしくおねがいします。
皇 秀英』
詫び状か。
別に怖がってなどなく、ただ萌えていただけなのだが。
きっちりと配列した字から伝わる真面目さが、なんだか笑えた。
教室にいくと、豚どもが一斉にブヒーッ! と鳴いた。パソコンをいじっていた皇は、ちら、と私をメガネ越しに見上げたが、所在なさそうに画面に視線を戻した。
同じメガネをかけている……。スペアだろうか。
私は寄ってきたブタどもの朝の鳴き声を総じて無視し、皇の真正面に立った。
「おはようございます。これ、お返しします」
「あ……ど、どうも……」
皇は目を合わせず、手だけを伸ばしてカーディガンとメガネを受け取った。
「今日から、よろしくお願いします。ちゃんとメガネ、とってくださいね」
「……え」
皇が、顔を上げた。前髪とメガネとで、全く顔が見えない。
私は、自席についた。
豚どもは、皇を取り囲み、ブヒブヒと激しく鳴いていた。
豚の肉壁の間からわずかに見える皇に写真機を向け、今日の運命写真を撮った。
今日は大した出来事はない、か。
だが、今日で全てを完結させる必要はないのだ。
今日は、明日以降の下準備をする。
昼食で、皇と過ごした時に、必ず。
――と、きちんと仕事をすると決めているのだから、それ以外の時間は好きに使って構わなかろう!
1限がはじまるなり、私はノートを開き、『顔みせて!』と大きく書いた。
皇がこちらを向かないか、ワクワクしながら待つ。
世界史の担当教師の長い無駄話が終わり、くるりと黒板の方を向いた時、ついに、皇が私の方をチラリと見た。私はすかさず、ノートを皇に見せた。ジャパニーズ・バラエティ番組で時々映る、カンペを持ったスタッフのごとく。
皇は、少しもそもそとあたりを見渡した後、そっとメガネをとった。そして、前髪を、眉の上に簡単に流した……。
うっ……! 顔、いい…………っ!
髪を流す仕草も、美……!
萌え……っ!
そんなことが1限の間にもう一度あって、2限の途中にもう一度あって、深いため息をつき、多幸感の中で私は気づいた。
まるで、ファンサではないか……!
アイドルと目が合った時に自分のために萌えるポーズをおねがいする、ファンサービス……。緋王様のライブ映像でそれを叶えてもらっている女たちがどれほど羨ましかったことか。だが私も、うちわやボードさながらのこのノートで、あんなきれいな顔の男に、私の要求を叶えてもらっている!
だが、そう気づいて、はっとした。
顔を見せろという要求だけではなく、ポーズも一緒に要求できれば、より一層の萌えが手に入る……っ!
ポーズ……何があるだろう……!
ポケットに入れていたプリクラを見る。そうだ、一番萌えるポーズは、これだ!
ガサガサと急いで書き殴る。書き終わったところで、皇がこちらを見た。私は、前のめりになってノートを見せた。
『指ハートして!』
皇は、ピシリと固まった。顎に指をあててしばし考えたのち、パソコンで「指ハート」を検索し、画像を拡大してその画像の指に分度器を当てて角度を調べ、今度は自分の重ねた人差し指と親指に分度器を当ててちまちまとずらしながら的確な位置を探していた。
考えるな!!!!
っていうか、顔を見せろ、顔を!!
***
3限は体育、4限はコミュニケーション英語だったために、その後のリベンジは叶わなかった。
4限が終わると、いつものごとく、豚どもが私を取り囲み、昼食を誘ってきた。
「ごめん。ちょっと道あけて。
キルコさん、行きましょう」
豚どもが、ばっと皇を振り向いた。
どの休み時間も自席に座っていた皇がそんなことを言ってくるなんて……。正直、私も驚いていた。
「なっ……なななっ! 皇っ! 貴様……!」
「キルコさんと、ふふふっ、2人きりになるつもりかっ!?」
「おのれ、許さんぞ! ボンボンで学年一位の天才な上に、エルデさんをも手に入れようなど!」
「そうだ! 抜け駆けは卑怯だ!」
「金曜日に直接許可をもらったから、問題ないはずだけど。ごめん、時間もったいないから、続きは放課後に」
ブヒブヒと豚どもが文句を垂れ、邪魔をしてこようとしたので、適当に念じ、食堂に流れるように暗示をかけた。ぞろぞろと教室を出ていく豚どもの姿にほっと安堵し、
「僕たちも行きましょう。屋上でいいですか」
と皇が言った。手には、紺色の弁当袋があった。
屋上には誰もいなかった。ベンチに座ると、真正面にサクラが見えた。先週見た時よりわずかにあからみ、ところどころ葉が咲いている。終わりに近づいているようだ。
「キルコさん、お弁当は……。いつも学食だから、持ってきていませんでしたか」
私は神だ。空腹になどならない。食は愉しみのために摂るもの。普段は、ジャパニーズ・学食を愉しむために学食に行っている。ちなみに、豚どもが私に食事を献上したいとブヒブヒ言うので、会計は全部豚ども持ちにしている。
「大丈夫です、食べなくて」
「だめです。午後も長いですし、エネルギー補給をしないと、パフォーマンスが下がります。もしよければ、好きなものをどうぞ」
皇が、私との間においた弁当袋から玉手箱のような正方形の弁当箱を取り出した。一段目に、ジャパニーズ・おにぎり、二段目に色とりどりの和風なおかずがぎっしり詰まっていた。
ああ、これぞ、理想的なジャパニーズ・弁当……!
花見の時に、こんな理想的な弁当をつまみながら酒を飲む――そんな緋王様の真似をするのが夢だったのだ。それに、日本食の代表格、おにぎり! なんて可愛いフォルム……! 丸みを帯びた三角形は、まさに芸術だ。
おにぎりを手に取ると、皇は水筒からプラスチックのコップに茶を注ぎ、「これももしよれけば」と私に差し出した。
おにぎりをひとくち食べた。おいしい。
ご飯と同じはずなのに、ほのかな塩けとじんわりと広がる甘みが格段に違う。ほろりと解けるような米たちがまた美味しい。もうひとくち食べると、ほろほろのシャケが出てきた。柔らかくなった海苔と合う。
茶を口に入れると、また、おいしくて感動した。
ジャパニーズ・緑茶。しかし、かつて飲んだ時のような渋みが一切ない。柔らかな甘味と爽やかさ、鼻から抜ける若葉の強い風味。美味いところだけをぎゅっと絞ったかのような緑茶だった。
「お口に合ってよかったです。このお茶の茶葉は、僕が品種改良をして作ったんです。乾燥方法、抽出方法含め、現時点で今飲んでいただいているものが、世界一美味しい緑茶です。おにぎりも、もう一つ食べてください。それと、おかずを一つずつ食べていただければ、午後からのエネルギー量はちょうどいいかと」
言われた通りに弁当のおかずを一つずつ食べる。どれも、美味しかった。最も感動したのは、ジャパニーズ・だし巻き卵! 噛んだらじゅわりとだし汁が染み出してきて、口いっぱいに広がった。
「改めて、昨日はすみませんでした。許していただきありがとうございます」
別に怒っても許してもいないが。まあいいか。
「今日の質問をさせてもらってもいいでしょうか」
皇はそういうと、ポケットから小さなメモ帳を取り出した。ちら、と覗くと、私への質問事項がずらりと並んでいた。一つ一つに番号がふってあったのだが、一番最後が「38」だった。地道に増えているのはなぜなのだろう。
「今日は3つですね。では、一つ目を質問させてください」
「待ってください」
皇のメガネを取りあげる。適当に、膝の上にのっけた。
「私といるときは、顔を見せてください」
「……はい」
前髪をかき上げ、私を見る。
はぁ……顔、いい……。
涼やかな目線と口元のほくろの色気に、恍惚とする。
「では、一つ目の質問をおねがいします。
どの学問に一番興味がありますか? 複合化学とか、電子工学とか、生物化学とか」
「特には」
「では、なぜこのクラスを志望したんですか?」
「試験結果で」
「キルコさんは文系寄りではありませんか。日本文化に興味があると言っていましたし、これまでの思考や言動から、文系に近いのではないかと思っていました」
「さあ、苦手なことはないので」
ほぅ……とため息をついて、皇は、「ありがとうございました」と恭しく一礼をした。皇の顔に見惚れながら適当な回答ができた自分を褒め称えたい。
「あの、38の質問に入らないものなので質問させてもらうのですが、今日のあの、『指ハートして』というのは、僕の謝罪の一部という解釈で大丈夫ですか?」
あの、「なんでもさせてもらいます」という言葉のことか。
「いえ。ノートを見せているうちに、ファンサのようだと思い、やってみたまでです」
皇は「ファンサ……」とつぶやき、スマホで調べた。
「キルコさんは、アイドルが好きなのですか?」
「はい」
「なるほど。どんなファンサがあるか調べておきます。キルコさんの好きなものも、あれば教えてください。練習しておきます」
好きなファンサ……。と言われても、ファンサはポーズを要求するもの、ということしかわからなかった。ライブ映像ではファンのうちわは少ししか映らないし、どんなポーズを誰に応えているかまではわからないのだ。
頼るべきは、インターネット。だが、我が家は動画を見ることができても、検索する媒体がない。
「今、調べてください。私も知りたいので」
皇のスマホを覗き込む。「ファンサ一覧」のページを開くと、素晴らしいアイディアがズラリと並んでいた。
「ピースして」「指差して」「バーンして」「ガオーってして」「うさみみして」などといったポーズ系の他に、表情を指定するものもあった。
「あざとい顔して」「ウインクして」「変顔して」……。
ひとつひとつ、皇の顔で妄想してみる。
なんだろう。今ひとつ似合わないのは。
画面ばかり見ていたためか、妄想上の皇のファンサがどれもこれも萌えないためか、私の高揚した気持ちは次第に鎮まってきていた。
あるファンサを見て、妄想して――ないな。
そう思った少し後、ん? となった。
このファンサ……魂を狩るチャンスを作れるのではないか?
教室内のような離れた場所でなく、すぐそばにいる今なら……。
私は背中に手を回し、教室に置いていたノートとペンを手の中に呼び寄せた。
「これ、やってほしいです。今」
さらさらと書いて、皇に向ける。
『キス顔して』
「どういう顔でしょうか。僕は、経験がなく……」
「目を瞑るだけです。やってください」
目を瞑っている間に、後ろから鎌で魂を狩ってやる。
皇は、考える人のポーズで考え込んだ。
やがて、覚悟を決めたような顔を上げた。
皇が、私のスカートの隣に手をついた。顔が、グッと近づく。
ゆっくりと、皇が目を瞑った。
――息が、できなかった。
間近に迫る皇の美しい造形美に――どちらかが首を伸ばせば、唇が重なってしまうような距離に困惑し、体の機能の全てが停止していた。真っ白になった頭の中に、心臓の音だけが鳴り響いていた。ふゎ、と唇から息が漏れたのが、皇の唇に触れた。
皇が目を開けた。手を膝に戻し、しゃんとまっすぐに座る。
ふっと、私の全身から力が抜けた。ふらりと背もたれにもたれかかる。バクバクと鳴り響く心臓のせいで苦しくて仕方ない。私は呆然と天を仰いだ。
「すみません。うまく、できませんでした」
皇に目をよこす。皇は、本気の顔をしていた。わずかに、悔しさが滲んでいた。
「頬下の表情筋の使用度合い、唇の形等、最適な数値を測った上で調整、練習をして、確実に習得し、キルコさんの期待にお応えします。他のものも、全部、必ず」
キュン。心臓に、天使の矢が突き刺さった。
私のために、全力で最高のファンサをする熱意、その努力感……。
こいつ、推せる……っ!
――って、何を考えているんだ私は!!
緋王様という推しがありながら、皇を「推せる」だと……!?
しっかりしろ、死女神キル・リ・エルデ!
そもそもあの男は標的! 顔がどれだけ好きだろうと、心臓が焦げるほどに萌えようと、私が魂を狩るべき相手……っ!
目を……目を覚ませ、私――っ!
あ。
そういえば、魂を狩るのをすっかり忘れていた……。
私がそのことに気づいたのは、愛する我が部屋のソファにダイブした後だった。