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作者: 木立花音
女流作家が死んだ日
 空になったグラスを食器棚に片付けると、リビングチェアに腰掛けて紫煙をくゆらせる。私が煙草を吸うようになったのは、さて、いつ頃からだったろうか。

 私の実家の玄関脇には、表札が二つ並んでいる。
 一つは『紀平』。もう一つは『下平しもひら』だ。

 私の両親が離婚したのは、中学に上がる少し前のこと。離婚の原因は母の浮気だったが、遠因は父にもあった。仕事第一な人で――それは世間一般的にみれば良い父親だったのだろうが――そのせいで家にほとんどいなかった。すれ違いの日々が夫婦間に溝を作っていき、やがて母がいなくなった。「ごめんね」と最後にかけられた言葉だけは今でもよく覚えている。
 それから、父はちょっとだけ家にいる時間が長くなり、私も段々と家事を覚えてそれから四年後。私が高一の冬に父は再婚した。

 高一の春。文芸部への入部を決めたあの日、部室の中に彼がいたことに驚いた。
 俊介は覚えていなかったけれど、私はすぐに気がついた。彼こそが、幼い頃に恋心を抱いた、近所の男の子『しゅんくん』なのだと。それは、あの日からずっと想いを告げられなかったことを未練として抱え、恋に対して不器用になっていた私に神様がくれた、まさに二度めの初恋だったのだ。再燃した十年越しの想いはやがて赤く萌して、それはきっと彼も同じだった。もしかしたら、もしかするとね。今はもう、知る術を失われたあとだとしても。
 雨の日も、風の日も、二人で切磋琢磨しながら小説を書く日々は、本当に暖かくて楽しかったんだ。
 ――あの日までは。
 それは、私の十六歳の誕生日が迫った十二月のある日のこと。俊介に告白しようと決意を固め始めていた私の元に、父から連絡が入ったのだ。

『再婚することになったんだ』と。

 再婚相手は、紀平さんという父より二つ年下の女性で、彼女の連れ子が俊介だった。一つ屋根の下で暮らすのはそれはそれで嬉しいが、姉弟としてじゃ意味がない。
 生まれて初めて書いた――渡す機会のなくなった恋文を、この日私は粉々に破って捨てた。
 そうして、新しく家族になった四人の暮らしが始まる。
 紀平さんは長女でもあったので、形式上父が養子縁組というかたちとなり、父の姓は紀平に変わった。それでも私が紀平姓を名乗らなかったのは、心のどこかで俊介と姉弟になりたくないと思っていたからだろうか。
 もっとも、そんなのは虚しい抵抗だ。法に逆らうことはできない。悔しくても、どんなに不本意でも、私と俊介が一緒になれる未来はこない。恋心に蓋をして、心の奥底に隠して、私は別の男と付き合った。すでに恋をしていたから、のめり込むことはできなかったが――
 それなのに……俊介は死んでしまった。恋愛をご法度と決めた私の意固地な心は、結局後に何も残さなかった。心の中には、ぽっかりと大きな空洞あなが空いたまま。
 だから書いた。彼が生きていたという事実を忘れたくなくて。俊介は確かにここにいたんだぞと、この世界に知らしめたくて。
 ペンネームとして、本名である下平小百合しもひらさゆりではなく紀平小百合を名乗ったのも、きっと同じ理由からだった。
 あの日、女流作家紀平小百合は誕生し、同時に死んだのだ。
 正直、後悔はある。
 結婚することはできなくても、恋をするだけなら別に良かったのではないか? 本当は、彼も私の正体に気づいていたんじゃないか? とか。あの日突然されたキスの意味を考えたるたび、後悔が体の奥底から滲み出してくるのだ。一度くらいは抱いて欲しかったな、なんて願望に駆られるそのたびに、自分が恐ろしく穢れたモノに思えて強い自己嫌悪に苛まれるのだ。

 ――辛いときこそ、笑うといいんだって。

 どうしてこんな時に思い出すのか。無理やり口角を上げてみたが、鏡に映ったぎこちない顔を見てやめた。
「あーあ。私に本当の恋ができる日はくるのかなあ」
 私を攫ってくれる新たな王子様が現れるのを願いつつ、パソコンの電源を落とした。

 さようなら、私の執筆人生。
 さようなら、私の愛した人。

~了~
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