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作者: 真名鶴
陸地にいるのに、息ができない
 人の声がする。人の、人の――誰かの。
 雑踏の中で、足が止まった。けれど誰も僕のことを気に留める人はいない。喉のところに手を当てる。脈はあるか、動いているか、僕は息ができているのか。
 指先に動脈の脈拍が伝わってきた。きちんと喉も動いていて、息をしている。
 というのに、とかく、息苦しい。
 誰も僕に気を留めないというのはいっそ気が楽で、けれど雑踏の中途上で足を止めた僕を鬱陶しそうにする人もいて、舌打ちの音が耳に届いた。
 いいんだ、どうせ誰にも分からない。
「は……」
 息を吐き出すかの如く、言葉は短く空気へ溶ける。
 人は当たり前に息をする。鼓動を鳴らして全身に血液を巡らせて、その血液に乗せる酸素を吸い込むために、その血液で運ばれて来た二酸化炭素を吐き出すために。
 きっと、僕だけ。僕だけがここで、息ができない。
 無理矢理に足を引きずるようにして、歩き始めた。何事もなかったような顔をして、他の人と何一つ変わらないような顔をして。
 逃げ込むようにしてアパートの部屋に戻り、がちゃりと鍵を開けて中へと入る。扉を閉めて鍵をかけて、外と中とをたった一枚で隔絶してくれる扉に凭れかかるようにして崩れ落ちた。
 ずるずると座り込んで、スーツが汚れることを厭いもせずに。
 こぽこぽとエアーポンプが音を立てている。玄関に置いた水槽のなか、水の中をメダカが泳ぐ。その水温を見てみれば、今日も二十度。彼らにとって最も快適でと思われる温度のまま。
 けれど、光は当ててやらない。薄暗い玄関で、光が差し込むのは僕が開閉する朝、それから、夜に帰ってきてここのスイッチを入れた時だけだ。
 だから彼らは次を産めない。メダカというのは、昼の長さが長くならなければ産卵できはしないのだから。僕に飼われたばかりに彼らは何一つ遺せるものなく死んでいく。
 どうしようもなく薄暗い気持ちになって、口の端が吊り上がった。
 エアーポンプがなくなれば、彼らも息苦しくなるだろうか。ほとんど光も当たらない水槽の中、水草だってまともに光合成ができやしない。エアーポンプだけが酸素を供給して泡を立て、水の中へと酸素が溶ける。
 彼らの生殺与奪権を握っているのは、僕だ。
 毎日の餌を与えなければ、エアーポンプのコンセントを抜いてしまえば。そうすれば、彼らはきっと腹を見せて水面に浮かぶ。
 魚の生息場所は水中で、決して彼らは溺れない。彼らは沈まない。
 僕だけが、溺れる。
 僕だけが、沈む。
 陸上にいる哺乳類であるのに、僕だけ息ができなくなる。人々が当たり前のようにできることが、できなくなっていく。ゆるりゆるりと真綿で首を絞められるように、心臓が止まっていくように、呼吸が、止まる。
 ふらりと立ち上がり、水槽の隣の延長コードを見る。スイッチで切り替わる電源の、橙色の光を放つスイッチをかちりと切り替えた。途端に橙色の光は消えて、水槽に絶え間なく出ていた泡も消えてしまう。
 きっと数日後、メダカたちは水面に口を出す。酸素を求めてぱくぱくと口を動かして、どうにかして呼吸をしようとするのだ――肺呼吸ではなく、鰓呼吸だというのに。
 僕はずっとずっと、そうなのだ。息などきちんとできたためしがない。
 沈む。
 溺れる。
 陸地にいるのに、息ができない。

 ぱくぱくとメダカが酸素を求めて水面に上がる。
 僕はそれを見て、またかちりとスイッチを切り替えた。ぼんやりと、橙色の光が薄暗い中に灯っている。
 可哀想とか、そういうのではない。多分、僕は。
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