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作者: 真名鶴
4.サモトラケのニケ
 いっそ呼吸なんて止まってしまえといつだって思うのだ。頭の中がパンクしそうで、ただただ真っ白なスケッチブックを黒く汚していく。
 何を描こう。何も描けない。
「あああああああ!」
 叫んで頭を抱えてぐしゃぐしゃに汚したスケッチブックのページを丸めて、そうして投げ捨てる。いっそこの頭の中も、こうやって投げ捨ててしまえたら良かったのに。
 どうせ誰も理解できない。俺が俺と呼ぶことすらも、誰も理解をしてくれない。ごめん分からないなんてそんな言葉ひとつで片付けられて、まるで俺ひとりが異常者のようだ。
 俺はおかしいのか。きっとおかしいのだろう。ふつうのひとはそんなことを考えもしないのだなどと、知ったような顔で言われて吐き気がする。
 描かなければ。
 描き続けなければ。
 そうしなければ頭の中がおかしくなる。このぐるりぐるりと巡り続ける思考というものは自分で止めることすらできず、ただただ言葉を吐き出し続けるようなもの。
 俺はおかしい。
 俺はおかしくなんてない。
 誰も理解できなくてもいい。
 誰か俺を理解してくれ。
 矛盾ばかりだ、どうしようもない。それを誰にも気付かせないようにしているくせに、どうして気付いて欲しいなどと願うのか。
 多分この頭の中はとっくにおかしくなってしまった。陸地にいるのに息ができなくて、酸欠になって、頭がおかしくなっていく。脳に酸素が回っていないのだ。だからこんな風に意味のないことばかりを繰り返す。
 スケッチブックを黒く汚せ。汚せ、汚せ、汚し続けろ。
 ばらばらと美術の教科書を捲る。こんな鉛筆だけで描いたモノクロの絵ではなくて、色鮮やかなものがそこには広がっている。
 きっと色が足りない。黒ばかりではいけない。白を汚す黒だけで絵を描いていても、きっと何もなくなりはしない。
 広げたページには彫刻があった。
「ニケ」
 サモトラケのニケ。
 その彫刻には、頭部と両腕がない。けれどその足は前に踏み出そうとして、そして翼は大きく広げられている。
 欠けているものがある。それでもこの彫刻は、傑作とされるのだ。
「首と腕があったら……いや、駄目だ」
 右手はあるという。それも、大きく広げた右手が。
 けれどこのサモトラケのニケは、欠けているから美しいのかもしれない。かつて千以上もの断片に砕けたサモトラケのニケは、誰かの尽力でこの姿になった。
 ならばこの砕けそうな俺の中身は、砕け散ったら誰か拾い集めて元の形にしてくれるのだろうか。
 人間の心は、欠けているから美しいだなどと言えるはずもない。お前はおかしいと人は笑い、理解できないと肩を竦める。
 分かってやれるよというような顔をして、二言目にはすぐそれだ。そうやってぎりぎりと人の首を絞めて、けれど誰もそれに気付かない。
 俺一人、息ができないのだ。俺一人だけが、おかしい。
 息を吐き出す。うまく息をすることもできないだなんて、人間として欠陥品なのだろう。
「ニケ、ニケを描くんだ」
 スケッチブックに、鉛筆で線を。
 想像で頭を描くことはできる。腕をつけてやることだってできる。けれどそんなことをするつもりになれるわけがなく、ただただ欠けた彫刻の絵を描く。
 人間は息をしなくなれば死ねるのか。心臓が止まれば死ねるのか。
 ニケとは勝利の女神であるという。砕け散った勝利の女神は、こうして組み立てられてなお、人々に勝利を運んでくるものか。
「歩け、飛べ」
 その背中に翼があるのならば、自由に飛ぶことだってできるだろう。
 どこにも行けなくて、ただ閉じこもるばかりの俺とは違う。ただひたすらに鉛筆を動かして、サモトラケのニケを描いていく。
 ざかざかと、ざかざかと。
 鉛筆を動かして白いスケッチブックを齧って、それでようやく頭の中が晴れてくる。どうせこの止まらない思考によって、またすぐにパンクした状態になってしまうけれど。
 ニケのもたらす勝利とはどのようなものだろう。誰かと戦って打ち負かせば勝利なのか。
 けれど俺みたいな人間は、そもそも戦うことすらできやしない。納得してくれと、理解してくれと、泣き叫ぶことすらもできないままに成長してしまった。
 ごめん、分からない。
 それならそれで構わない。分からないのならそのままでいてくれ、放っておいてくれ。俺を理解しようとしないでくれ、気持ち悪い。
 それでも矛盾した心が言うのだ。理解して欲しい、放っておかないでくれと。
 ああまた頭の中がおかしくなっていく。これを吐き出してしまわなければ、生きてもいけないではないか。ゆるやかに自分の手で自分の喉を絞めてしまうではないか。
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