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作者: 真名鶴
2.黄金比と白銀比
 家に飛び込む。玄関で靴を脱いでそのまま上がる。ただいまと声をかければおかえりの声。ばたばたと自分の部屋に駆け込んで、どさりとリュックサックを床に投げ捨てた。
 机の上にスケッチブックを出して、真っ白なページを開いた。
 さんてんいちよん。さんてんいちよんいちごお。
 いちよん。
 いち。
 いちたい。
 いちたいにぶんのいちたするーとご。
 またぐるぐると数字が回る。けれどもそれは円周率からだんだんと変わって、別の物になってしまった。するりと逃げた円周率はもう捕まらなくて、またぐちゃぐちゃになっていく。
 描かなきゃいけない。
 この頭の中からぜんぶぜんぶ吐き出して、そうしないと頭の中がおかしくなる。
 ぐるぐると円を描いた。ぐるぐる、ぐるぐると。
 数式というのは美しいのだ。きれいに答えが出るものだけが美しいわけではなく、ただ無作為な数字の羅列が美しいわけでもない。有理数と無理数の美しさはちがう。
 ぐるぐる。
 ぐるりぐるり。
 まるで泡のように見えるけれど、真っ白なページはどんどん丸で埋められていく。
 ぐるり。
 逃げられない。あちらこちらに円がある。それから円にならないまるでかたつむりの殻のような模様を描いていく。最初と最後がつながることのない、ただぐるぐるに渦を巻く。
 円にうずもれて、かたつむり。
 これはフィボナッチ数列の収束である。
「できた、描けた」
 ぐるぐるのなかに、ぐるり。
 でもなんだかそれだけでは足りないような気がして、その中に魚を一匹描き足した。けれどそうしたら絵は一気に美しさを失ってしまって、何でもないものになってしまった。
 これじゃだめだ。これは描きたかったものじゃない。
「これは要らない」
 びりりとぐるぐるを破り取った。息ができなくて窒息しそうな魚の顔はなく、ただ魚のような曲線がある。でもそれだけでこの絵は駄目なものになってしまった。
 ぐしゃぐしゃと丸めて、机の二番目引き出しを開ける。机の中は紙でぱんぱんになっていて、何が入っているのかも分からない。その中に丸めたそれを突っ込んだ。その引き出しを無理矢理に閉めて、一番目の引き出しを開けた。
 何本もの鉛筆が入っている。手前の鉛筆なんかを入れる部分は整然と並べられるのに、そうでないところはすぐにぐしゃぐしゃになる。
 いちたいにぶんのいちたするーとご。
 これは駄目。
 じゃあ、いちたいるーとに。
 るーとに。
 いってんよんいちよんにいいちさんごおろく。ひとよひとよにひとみごろ。
 直角三角形。黄金長方形。白銀長方形。正三角形。
 真っ白なページに三角形を書き連ねる。さっきは円だったから駄目だったのだ。ならば三角形ならば大丈夫。そうすればきっとこの頭の中もからっぽになって、ぐちゃぐちゃではなくなるはずだ。
 さんかくを、たくさん。
 なんだか蛇の鱗みたいにも見えた。へび。へびじゃない。これは魚だ。さっきの魚は小さかったから駄目なのだ。大きく大きく、ただひたすらに三角を並べる。
「できた、描けた。これならいい」
 魚はとても苦しそうで、俺は満足だ。苦しければ苦しいほどいい。
 手から離れた鉛筆が、ころりころりと机の上を転がっていく。やがて転がる鉛筆は卓上ライトの足にぶつかって止まった。
 スケッチブックを閉じて、机の端にぴったりと合わせて置いた。ひとつのはみ出しもないのは落ち着いて、これで良いと息を吐く。
 床に投げ捨てたリュックサックから、数学のノートと問題集と筆箱を取り出す。底の見えないリュックサックから青色がずるずると引っ張り出される。きっと外に出たくなんかなかっただろうけれど。
 原点を中心に円がある。X軸とY軸と円の重なるところは1とマイナス1。
 答えがたった一つに決まるものは、気が楽だ。他のことなんて考えなくて良くて、ただその一つの答えだけを追い求めればいい。
 サイン、コサイン、タンジェント。
 まるで呪文みたいなそれが並んでいて、笑ってしまう。これくらい例題で一度解き方を見れば、他の問題は何も困らない。ただ頭の中に収納した例題と照らし合わせて、同じ解き方のものを探せばいい。
 じっと見ていれば、解き方くらいすぐ浮かぶ。何も難しいことなんてない。答えが一つに定まるものはそうやって解けばいい。
 カチカチとシャープペンシルをノックする音だけがやけに耳につく。がりがりとノートの罫線の間を0.3のHBの芯が齧って削る。一ページを齧って削って、答えが出た。これが解。
 答えのページを開けば、同じ数字が並んでいた。ほら、簡単だ。
 ぐるりと赤いボールペンで丸をつける。何度かカチカチとボールペンの蓋を開けたり閉めたりして、出来上がった数式を上から下まで眺めた。
 途中が美しくなくて、気に入らない。それから、赤い丸も気に入らない。
 ごはんだよと呼ぶ声がして、返事を叫んだ。美しくはない数式はそれ以上見ているような価値もない気がして、ノートを閉じた。閉じたノートの上に問題集を積んで、その上に筆記用具を全部食べさせた筆箱を。
 どれも全部真ん中になった。それを見届けてから、立ち上がる。
 椅子が、悲鳴を上げた気がした。
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